見出し画像

『斜陽』が突きつける、滅びの先の泥臭い「生」

最近、通勤路にある古い洋館が取り壊された。大正期に建てられたらしいその美しい建物は、数日のうちに跡形もなく消え去り、無機質なコンクリートのアパートに姿を変えた。時代の変化と言ってしまえばそれまでだが、私はその更地を見つめながら、妙に胸がざわつくのを感じたんだ。古いものがその美しさを保ったまま消え去ることの切なさと、新しく台頭する下世話なほどの「生」の力強さ。この相克を考えるとき、私の頭にはいつも一冊の書物が浮かび上がる。太宰治の『斜陽』だ。

世間ではよく「滅びの美学」の書として語られる本作だが、私はそう単純なものだとは思っていない。むしろ、生き残るために綺麗事をすべてドブに捨てる、ある種の「凄惨な覚悟」を描いた物語なんじゃないかと思うんだ。今回も、居酒屋の隅でビールでも飲みながら、この不朽の名作について少し偏屈に語らせてほしい。

作品のあらすじ 


昭和二十年、終戦。日本中が混沌と虚無に包まれる中、かつて東京で華やかな貴族生活を送っていた本家・かず子の一家もまた、時代の荒波に流されていた。父を亡くし、財産を失った彼らは、西伊豆の山荘へと移住せざるを得なくなる。

物語は、かず子の母がスープを飲むシーンから始まる。

「あ」
と、母はかすかな叫び声を挙げた。スープの中に、小さな緑色の毒虫が落ちていたのだ。
母はそれを、そっとスプーンですくい上げ、何事もなかったかのように庭の芝生に捨てた。その一連の動作には、没落してもなお失われない、本物の貴族だけが持つ「優雅さ」が満ちていた。かず子はその母の姿を愛し、同時にその壊れやすい美しさに、かすかな予感としての死の影を感じていた。

やがて、戦地から弟の直治が帰還する。しかし、直治は戦地での過酷な体験と、自身のアイデンティティの崩壊から、麻薬と酒に溺れ、東京のデカダンな芸術家たちと荒んだ生活を送るようになっていた。

「姉さん、僕たちは、もうだめなんだよ。滅びるのを待つだけなんだ」

直治は自嘲気味に笑い、家中の金を無心しては東京へ通い詰める。そんな彼が心酔していたのが、流行作家の上原二郎だった。

ある日、かず子は直治のノートに書かれた上原の名を見つけ、かつて自分が上原と交わした一瞬の接吻を思い出す。当時、かず子には夫がいたが、その結婚は破綻していた。上原という男の中に、自分たちと同じ「滅びゆく者の匂い」を感じ取ったかず子は、彼に対して激しい恋情を抱き始める。

かず子は上原に手紙を書き送る。それは「恋と革命」を求めて自らをもがき狂わせる、一人の女性の切実な魂の叫びだった。

「私は、あなたにお会いしたい。私の戦いは、これから始まるのです。私は、古い道徳を裏切って、あなたという新しい太陽へ向かって歩き出したいのです」

しかし、上原からの返事は届かない。
そうしている間にも、一家の没落は加速度を増していく。結核に侵された母の容態は徐々に悪化し、秋の深まりとともに、まるで蝋燭の火が消えるように息を引き取った。母という最後の精神的支柱を失った山荘で、かず子と直治の二人きりの生活が始まる。

そしてある夜、直治は部屋でひっそりと自殺を遂げた。机の上には、長い遺書が残されていた。

「姉さん。僕は、自分が貴族であるという事実と、闘い続けなければなりませんでした。僕がもっと野卑で、ずる賢ければ生き残れたのかもしれない。でも、僕の心はそれを拒否してしまった。僕は、ただ消えていくしかない、斜陽の民なんです」

直治の死は、かず子を絶望させるどころか、彼女の中に眠っていた「生への猛り」を呼び覚ます。かず子は東京へ向かい、上原の住む家を訪ねた。
そこにいた上原は、かつての面影もなく、酒に溺れ、血を吐きながら退廃の極みに達していた。疲れ果てた中年男の姿がそこにあった。それでもかず子は、上原にしがみつく。

「私、あなたのお子を産みます。それが私の革命なんです」

かず子は上原と一夜を共にし、彼の子供を宿す。山荘に戻った彼女は、もはや貴族の娘ではない。古い道徳を捨て、シングルマザーとして「私生児」を育てて生き抜くことを決意した、一人の力強い女性へと生まれ変わっていた。

彼女は上原に向けて、最後の手紙を認める。

「私のお腹の中には、あなたのお子がいます。私はこの子を、古い因習と闘うための、私の革命の旗として育ててみせます。私たちは、古い世界を裏切り、生き延びてみせます。……M・C(マイ・チェーホフ)、あなたも、闘ってください」

夕日が沈む。しかし、それは明日また昇るための、一時的な闇の始まりに過ぎなかった。

川上の独り言 


どうだっただろうか。この物語を単なる「滅びゆく美しき人々の哀歌」として読むのは、少しお上品に過ぎると思わないか?

私はね、これはむしろ「生き残るための、極めて利己的で凄惨なテロル」の物語だと思っているんだ。
直治は「貴族」というプライドを捨てきれずに自滅した。彼は、ある意味で純粋すぎた。だが、和子はどうだ? 彼女は母親の死、弟の死という絶望の淵に立ちながら、自分の「生」を繋ぐために、妻子ある上原という男を利用したんだ。上原という「滅びの装置」を苗床にして、自分だけは新しい命という果実を手に入れ、生き延びようとした。

これのどこが「滅びの美学」なんだろう。極めてエゴイスティックで、泥臭い生存本能そのものじゃないか。
でも、私はそんな和子の姿に、たまらない愛おしさを感じるんだ。

人間、本当に追い詰められたとき、最後に残るのは「道徳」でも「品格」でもない。ただ「生きたい」という、言葉にするのも憚られるような獣じみた本能だ。和子はそれを「恋と革命」という美しい言葉で飾り立てた。しかし、その中身は、他者を踏み台にしてでも生き残るという狂気的なエネルギーに満ちている。

現代の私たちは、どうだろう。SNSを見渡せば、「正しくあること」「美しくあること」を求められ、息苦しそうにしている人々ばかりだ。でも、本当に生き詰まったとき、私たちは和子のように「古い道徳」を裏切る勇気を持てるだろうか? 泥をすすり、不倫と言われ、私生児の母と指を差されても、「これが私の革命だ」と言って笑える強さがあるだろうか。

『斜陽』が今なお色褪せないのは、私たちが押し殺している「生への執念」を、太宰が最も美しい日本語を使って、容赦なく暴き立てているからなんじゃないか。

今夜は、そんな人間の「エゴイスティックな生命力」に、静かに乾杯したい気分だよ。君はどう思う?



いいなと思ったら応援しよう!