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太宰治に負けた日

桜桃忌の夜、せっかくだから読んだことのない太宰治の『斜陽』を読もうと思った。
『斜陽』は、ずっと気になっていた作品だった。
数か月前に見かけた、
「しくじった、惚れちゃった。」
という一文。
流石にメロすぎる台詞回しだろ。
そんなこと言われたら読むしかない。
……まあ、純文学を読み始めたきっかけは『文豪ストレイドッグス』なんだけど。
文ストを好きになって、中原中也記念館へ行き、横浜にも何度も足を運んだ。
ちょうど別の用事で東京へ行った日、翌日に文ストの展示が開催されていた神奈川県立近代文学館へ向かった。
展示会には意外にも親子連れが多く、小中学生くらいの子どもたちが夢中になって展示を見ていた。
「文ストの未来は明るいな。」
そんなことを思いながら展示を見終えると、やっぱり本が読みたくなった。
みなとみらいまで歩いて、本屋で文ストの太宰が表紙になった『斜陽』を手に取った。
そのときは、まさか数日後、自分が四時間泣き続けることになるなんて思ってもいなかった。
2026年6月19日。
夜8時に読み始め、午前0時に読了。
この日を、私はこう呼んでいる。
太宰治に負けた日。

2026年6月19日 桜桃忌
ちょうど金曜日。花金だった。
桜桃忌にかこつけて、さくらんぼを買った。
せっかくだもん。
本も、旬も、花金の浮かれ気分も、まとめて味わわなきゃもったいない。
文学に乗じて果物を食べる、なんだか少しだけ賢そうな夜だ。
夜八時。
『斜陽』を開く。
読み始めた私は、まだ私だった。

何気なくベッドに寝転がって、ページをめくる。
純文学。
太宰治。
なんとなく難しそう、そんな印象を勝手に抱いていた。
でも、一ページ、また一ページと読み進めるうちに、その先入観はあっさり消えた。
ーー普通に読めるじゃん。
な〜んだ。
いつも読書する時と同じように、文章を動画にしながら読んだ。

「ふーん、案外読みやすい。」
「意外と今日中に読み終わりそうじゃない?」
そんなことを思いながら、ページをめくる。
本と私の境界線は、いつもびっしり。
本の中にいるようで、いない。
少し離れたところから物語を眺めながら、それでも登場人物の息づかいはちゃんと感じている。
そんな読み方をいつもしていた。
だから、この日も最初はいつも通りだった。
でも今振り返ると、ページをめくるたびに、その境界線は少しずつ曖昧になっていたのだと思う。
『私』が斜陽を読んでいるはずなのに、いつの間にか『斜陽』のほうが私を読んでいた。
そう気づいたのは、読み終えてからだった。

私はかず子になったんだ。
……悔しい
こんなにも飲み込ませるなんて。
ページをめくる手は止まらないのに、心だけが何度も立ち止まる。
物語を見ているはずだった。
なのに、見られていたのは私だった。
「あなたも、そうでしょう。」
そう言われたわけでもないのに、物語は勝手に私の中へ入ってくる。
逃げ場がない。
本を閉じれば終わると思っていた。
でも、閉じても終わらなかった。
涙が止まらない。
こんなにも心をつかまれてしまったことが、悔しい。
三人とも、私の中に入ってきた。
かず子の「生きたい」も。
直治の「生きられない」も。
上原の「責任を負いきれない」も。
全部、どこか覚えのある感情だった。
かず子にも、直治にも、上原にもなったんだと思う。
崩れながらも、その中で新しい何かが生まれている。人間って、終わりを選んだとしても、何かを生み出してしまうんだ。
終わりを選んだはずなのに。
それなのに、太宰はこんなにも重いものをスルッと読ませてしまう。

悔しい
悔しい
敗北だ。

「しくじった、惚れちゃった。」
そんな一文がきっかけで手に取った『斜陽』に、結局私のほうが惚れ込んでしまった。
私はずっと、少し離れた場所から物語を眺める読者だった。
物語の中に入り込みすぎず、少し俯瞰して見ている。
それは、本だけじゃない。
現実も、そうやって見ている。
きっと、それは自分を守るためだったのだと思う。
でも『斜陽』は、その距離を許してくれなかった。
「あなたも、そうでしょう。」
そう言われたわけじゃない。
それでも、そう言われた気がした。
俯瞰して見ているつもりだった私を、物語はちゃんと見抜いていた。

太宰治め。

それでも私は、これからも少し俯瞰した視線で、世界を歩いていくのだと思う。
あの夜、『斜陽』はその視線を一度だけ奪った。
だから私は、2026年6月19日を
「太宰治に負けた日」
と呼んでいる。



時間が経ってから思う。
一番近いのは、上原だったのかもしれない。
自分の何かを世に残したい。
何も残したくない。
何者かになりたい。
でも、注目はされたくない。
それでも、知ってほしくもある。
でも、本当は誰にもわからないことも知っている。
そんな矛盾を抱えたまま生きているところが、少し似ていた。

酒場の隅で一晩だけ、太宰治と話してみたかったな。

次は勝つ。


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