フェミニストの“一部には信頼できる男も存在する”発信はなぜ危険か
このnoteは、男性に対する採点基準が甘くなりがちな現状に対して問題提起をし、フェミニズムの観点からも発信には慎重であるべきと訴えるものです。
男性が相対的にマシな言動、あるいは当たり前の言動をしただけで
「まともな男性もいる」
「希望がある」
「私達(男女ペア)は対等な関係を築けている」
などと発信する女性がいることに、私は強い違和感を覚えます。
日常的に醜悪な言動を繰り返す男性ばかりを目にしていれば、まるで人間らしい振る舞いをする男性に驚く気持ちも分かります。
しかし、それが「まとも」だと強調されるのは、「男性に対する採点基準を下げているだけでは?」と疑問に感じます。
確かに、全ての男性が善0%・悪100%というわけではないでしょう。表面的にマシな対応をする人や、時折他者への配慮が見られる場合もあります。しかし、それを過剰に評価し「希望」や「ロールモデル」として発信するのは、男性に甘すぎるのではないでしょうか。
フェミニズムの立場から見て、こうした甘さには何のメリットもなく、むしろ危険です。その甘さが他の女性の身を危険に晒しかねません。
もちろん、多くの男性や、フェミニズムに関心のない女性が「男性と共にいること」や「出産・子育て」を肯定、推奨するのは社会構造上理解できます。そもそも人権意識が十分でない人々に多くを求めても仕方ありません。
ですが、人権意識をもち、フェミニズム思想に触れ、この社会の惨状についてよく知ったうえで、それでも「信用できる男性もいる」という発信に至ることには、私には疑問が残ります。
理由については察しがつきます。社会的孤立の不安や、生きていく上で男性と関わらざるを得ない現実、身内男性への情などがあるのでしょう。しかし、事情は分かりつつも、男性に甘い発信には反対です。これは他の女性を危険に晒しうるからです。
自立した女性が自由意志に基づいて男性とパートナーになるなら、それ自体は個人の自己責任です。しかしフェミニストが「自分のパートナーは信頼できる」とか「私達は対等で良好な関係です」と発信することには強く異議を唱えたいです。
フェミニストであれば、男性という属性が人類史を通じて、全世界で異常なまでに女性を迫害してきた事実を当然知っているはずです。「男という属性そのものに、根本的な問題がある」と考えないのでしょうか。
鳥が空を飛ぶ、魚が泳ぐ、クマが肉食動物であるのと同じように、ヒトオス(男性)は本質的にヒトメス(女性)を差別する傾向のある動物だと私は考えます。見抜き、見限れない理由がさまざまあるのは分かりますが、男尊女卑社会の中で生育した男性だからこそ、より信頼すべきでないはずです。
男女平等を実現した国はどこにも存在せず、世界中全ての社会が基本的に男尊女卑。悪い男性だけが女性差別をし、それ以外の男性の人数や質が信頼できる程度にマシであれば、これほどひどい状況にはなっていないはずです。
個人レベルで男性に甘い態度を取るのは各々事情があるので自由ですが、「男性にも希望がある」など、他人の認識に影響を与える形で発信するのはやめるべきだと思います。
たとえば「人を襲わないまともなクマもいる」「人とクマが共存できる可能性がある」と発信したら無責任です。クマに力で敵わない人間が、根本的な危険性を忘れて接触すれば、危険に晒されます。それと同じ構造がここにもあります。
確かに、絶対に信頼できる男性が居ないと証明しきることはできません。しかし、これまで述べた理由から「例外的に信頼できる男性を前提にする」考え方は極めて危ういと感じます。
自己責任でどんな男性と関わるかを選ぶのは自由です。しかし、「信頼できる男性もいる」などの発信は、他の女性にもリスクを背負わせることになる可能性があるので、私は強く批判したいと思います。
