未来は均等なのか? 自動運転が発展途上国にもたらす未来
"The future is already here- it's just not evenly distributed. "
(未来はここにある。まだ均等に行き渡っていないだけだ)
最近、タイムラインでテスラに関するニュースをよく見かけます。長年フラッグシップとして君臨した Model S の受注終了。テスラは今、個人のための高級車メーカーという皮を脱ぎ捨て、ハンドルもペダルもない Cybercab や、ヒト型ロボットの量産へと一気に舵を切っています。
こうしたニュースに触れるたび、Xや有識者の間では「車の所有は過去のものになる」という言説が、さも確定した未来であるかのように語られます。しかし、その「未来」の解像度を少し上げてみると、それがきわめて限定的な地域に基づいた視点であることに気づかされます。
冒頭のギブソンの言葉を借りるなら、その未来はまだ、世界の隅々まで均等に分配される準備ができていないのです。
「所有」は消えるのではなく、移動する
多くの「所有がなくなる」という議論が見落としているのは、先進国で不要になった膨大な数の「人間が運転する車」の行方です。
先進国で自動運転への移行が進めば進むほど、行き場を失った中古車は、より安価な移動手段を求める国々へと流れ込んでいきます。これは今に始まったことではありませんが、自動運転の普及はその流れをかつてない規模で加速させるように思います。
途上国の人々にとって、高度なインフラと高価なメンテナンスを必要とする自動運転車よりも、自分たちの手で直し、走らせ続けることができるガソリン車のほうが、圧倒的に現実的な選択肢であり続けます。先進国が「脱・所有」を謳う一方で、別の場所では「安価な所有」がさらに強固なものとして根を張っていく。そこには、技術の進化がもたらす残酷なまでの構造的格差が存在しています。
カオスという名の境界線
以前、フィリピンを訪れた際に目にした風景は、今もよく覚えています。 車線などあってないような道路。その隙間を縫うように無数のバイクがすり抜け、歩行者や屋台が車道に溢れ出している。あの熱気と混沌に満ちた街並みは、現在の自動運転AIにとっては処理しきれない「例外」の連続です。
これはフィリピンに限った話ではありません。多くのアジアやアフリカの新興国において、交通は「ルール」ではなく「あうんの呼吸」のようなもので動いているようにおもいます。こうした環境をAIが完全に制御できるようになるには、アルゴリズムの進化を待つだけでは不十分です。街の構造そのものを物理的に作り変える必要があり、それには膨大なコストと時間が必要になります。
ステータスとしての重み
また、文化的な「所有」の意味も、先進国とは大きく異なります。 成熟した社会では車は単なる「移動の道具」へとコモディティ化していますが、経済成長の渦中にある国々では、車は依然として強力な ** ステータスシンボル ** です。
苦労して手に入れた自分だけの空間。家族を乗せて誇らしく街を走る喜び。こうした「所有」に付随するエモーショナルな価値は、効率や合理性だけで割り切れるものではありません。
モザイク状の未来を見つめる
もちろん、全ての領域で自動運転が否定されるわけではありません。ドローンによる物資配送や、特定の専用レーンを走る自動運転バスなど、条件を絞った形での「リープフロッグ」が起きる可能性もあります。
しかし、それは決して世界が単一の「未来図」に塗り替えられることを意味しません。 先進国から流れてきた中古車がマスを占め、その横を最新の自律走行車が音もなく走り抜ける。そんな新旧が極端に入り混じった モザイク状の社会 こそが、私たちが直面するリアルな未来なのではないでしょうか。
私たちは、自分たちが立っている場所の限界を、つい世界の限界だと思い込んでしまいます。しかし、技術の進化を語る時こそ、その視線の外側に広がる広大な「分配されていない未来」に目を向けるべきだと思うのです。
