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のび太は何のために廊下に立たされるのか


「相手に、罪悪感を持っていてほしい」。

人がそういうことを言っていたり、そういう動機で行動している様子などを、ぼくはよく見聞きします。

でも、ぼくには、その感覚がほぼありません。
全くないわけではないにせよ、少なくとも重要ではない。
だいたいにおいて、誰かがぼくに対して罪悪感を抱いても、ぼくは特に嬉しくないし、むしろ少し困ります。

だから、なぜ人がそこまで他人の罪悪感を欲しがるのか、長いあいだ、本当に分かりませんでした。

もうひとつ、不思議なことがあります。
ぼくが、自分なりにちゃんと罪悪感を持っているときでも、なお「反省が足りない」と、もっと罪悪感を求められることがあるのです。

そこで、ふと思い当たりました。——ひょっとして、ぼくは、罪悪感を持っていないと、思われているんじゃないか?

内側には、確かにあります。
なのに、外側には、それが伝わっていない。

今回は、この、ひとつの小さなズレを手がかりに、ぼくが抱える特性(ASD)と定型発達(TD)向けに進化した社会との摩擦について考えていきます。

■ のび太は、何のために廊下に立たされるのか

身の回りで問題が起きたとき、自分なりに考えた解決策を提示しても、文字通りにスッと受け入れられていないな、という感覚があり、時には「なぜ上から目線なのか」みたいな話にすり替わってしまうこともあります。

この現象について、友人と話しているとき、彼が、とても腑に落ちる喩えをくれました。

「たぶん(皆は)、”解決”みたいな結果とか、互いがwinwinになることを望んでないのだと思う。のび太が忘れ物をしなくなることではなく、廊下に立って苦しそうにしてることを望んでる。」

のび太は、廊下に立たされます。
では、あれは何のためでしょうか。
忘れ物をしなくなるためでしょうか。

否です。
求められているのは、忘れ物が直ることではない。
のび太が廊下で、しょんぼりと反省の姿を晒していることのほうが望まれている。
もし、のび太が涼しい顔で「原因は分かりました。対策を講じて、次回から必ず持ってきます」と言って席に戻ったら、たぶん、もっと怒られます。

つまり、人が求めているのは、問題が消えることではなく、「申し訳なさそうにすること」そのものなのです。

ぼくは、いつも、問題のほうを解決しようとしていました。
原因を特定して、対策を立てて、次から起きないようにする。
それが一番、誠実だと思っていたからです。
でも、多くの人にとって、それはまるで誠実に見えていなかった。
ぼくは、支払うべきものを、支払っていないことになっていたのです。

■ 感情は、この社会の通貨である

ここで、ひとつの見立てにたどり着きました。

感情は、この社会で使われている「通貨」なのではないか。

謝るとき、しおれた顔をする。うなだれた声を出す。いたたまれなさそうに黙る。あれは全部、「関係を続けるための支払い」なのだと思います。
そして、この通貨で決済しないかぎり、いくら正論で問題を片付けても、取引は完了しない。
むしろ「痛くも痒くもなさそうに処理した」ぶんだけ、心証は悪くなる。

ぼくがずっと、「なぜ解決策そのものではなく、感情の問題になるのか」という摩擦に悩んでいた理由が、ようやく分かりました。
ぼくはおそらく、料金を払わずに、商品だけ持ち帰ろうとする客のように見えていたのです。

■ なぜ、「苦しむ顔」に価値があるのか

ここで、意地の悪い疑問が浮かびます。
問題が解決するほうが、みんな得をするはずです。
なのに、なぜ人は「解決」よりも「反省の表情」を欲しがるのでしょうか。

答えは、たぶん、「態度を捻出するコストが高いから」であり、さらに「偽造が難しいから」です。
つまり、通貨として優秀なのです。

口では、何とでも言えます。
「悪いと思ってる」なんて、コストゼロで言える。
だからこそ、言葉だけでは信用されません。
一方で、心底いたたまれない顔や、震える声は、演じようとしても、そう簡単には出せない。
出すのに"相応のコストがかかる"うえ、偽造が難しいぶん、通貨としての信用度が高い。

だから、その高いコストを難なく支払える人は、「この人は、自分の快適さよりも、この関係のほうを大事にしている」と信用される。
つまり、感情という通貨の、その価値の本質は、「苦しんでみせること」にあります。
苦しむこと自体が、支払いなのです。
「共同体の秩序の維持のために、私は感情的な負担をしています」という納税証明書の提示が、最も信頼のおけるシグナルになるわけです。

「お疲れ様」「ご苦労様」といったねぎらいの言葉は、ひょっとするとその領収証の役割をしているのかもしれませんね。

「なぜ辛いのか」まで追求しなくとも、「お互い辛かったんだね」と確認し合うだけで物事が収まることって、よくあります。

のび太が廊下に立たされるのは、忘れ物を直すためではありません。
苦しんでみせるという「税金」を、その場で強制的に納めさせるためなのです。

■ 取り立ては、意地悪ではなく、本能である

大事なのは、この"取り立て"が、誰かの意地悪ではない、ということです。それは、人間という生き物に、深く埋め込まれた仕組みだと思います。

それを端的に示す実験として、「最後通牒ゲーム」という実験があります。(これも今回、友人が教えてくれました。)
・AさんとBさんの二人にお金を分けさせる。
・Aさんが金額を決めて、Bさんが「その分け方でいいか」を決める。
・Bさんが拒否したら、二人とも取り分ゼロ。
というシンプルなルールです。
これ、純粋に損得だけなら、Aさんが決めたBさんの取り分が、仮に1円だとしても、もらえるほうが得です。ゼロよりマシですから。
ところが多くの人は、Bさんの立場になったとき、「あまりに不公平だ」と感じると、自分が損をしてでも、その取引を蹴るのだそうです。
「そっちだけ得をするなら、こっちも道連れだ」と。

人は、自分がコストを払ってでも、ルールを破った者を罰そうとする。
しかも、この「自腹を切ってでも罰する」性質があるからこそ、集団の協力は保たれている、という研究もあります。

もっと言えば、これは人間だけの話ですらないようです。
サルでさえ、同じ作業をして、隣がおいしいブドウをもらっているのに、自分は粗末なキュウリだと分かると、そのキュウリを実験者に投げ返します。

ですから、感情税を納めない者への"取り立て"は、悪意ではありません。
何万年もかけて、人類が共同体を守るために磨いてきた本能です。

最後通牒ゲームが直接証明するのは「人間は単純な金銭的損得だけでは行動せず、不公平を拒否することがある」ということまでであり、その先はぼくの仮説に過ぎません。
でも、少なくともぼくは、この"取り立て"を、人間が共同体を維持するために獲得してきた仕組みの一部として見ると、かなり腑に落ちます。

ぼくの納め方を「未納」と見なして取り立ててくる相手も、意地悪だったわけではない。
ただ、仕組みどおりに動いていただけでした。
ここは、間違えないようにしたいところです。
この話に、悪人は要りません。

■ けれど、納める「通貨」が、生まれつき違う人もいる

ここから、ぼく自身の話に戻ります。

まず先に、はっきりさせておきたいことがあります。
「発達に特性のある人間は、感情が乏しい」というのは、まったくの誤解です。
人一倍ゆたかに感情を表す人も、人一倍深く共感する人もいます。
個人差は、とてつもなく大きい。
ですからこれは、あくまで、ぼく個人の話です。

ぼくの場合、感情が「ない」のではありません。
むしろ、めちゃくちゃあるほうだと思います。
ただ、その感情と、「その場でしかるべき表情や態度に変換して差し出すこと」との結びつきが、生まれつき、とても弱いのです。
笑い話ですが、大好物を夢中で食べているときに「お前、まずそうに食うなあ…」と言われたことがあります。
そのくらい、感情と表情に乖離があるようです。

例えば、何かトラブルがあったとき、自分の手落ちに気づいたら、ぼくは謝罪をして、その手落ちをリカバリする方策を、できるだけセットで提示しようとします。
解決策や再発防止策こそが、共同体の維持に必要なコストであると本気で信じてきたからです。
でも、内面的な行動動機が「申し訳なさ」だったとしても、それが感情の"表出"には直接リンクしない。
だから、ぼくが感じている「申し訳なさ」は、いつも国内通貨のまま、取引先まで届かない。

これは、通貨で言えば、為替レートの問題だと思います。
ぼくの内側にも、ちゃんと感情はある。
ただ、為替レートが、多くの相手とは違う。
ぼくは、「申し訳なさそうな態度」より「具体的な解決策」のほうが価値が高いと思って、それを納めようとしてきました。
つまり、「どちらに価値の本質があるか」の認識に相違があるまま、同じ流通網で、同じレートで取引をしようとするから、決済がおかしくなる。
ぼくなりの納税はちゃんとしているつもりが、相手の窓口では「不足」「未納」として処理されてしまうわけです。

言ってみれば、これは、認知特性どうしの「貿易摩擦」です。
どちらかが不正に利益を上げているのではなく、そもそも価値を置いている通貨が別々の種類なのです。

そして、大事なことがもうひとつ。
ぼくは、この為替レートを、自分の意思で書き換えることができません。
発達特性は、自己決定できないからです。
現実の通貨を稼ぐか稼がないかは、こと資本主義社会の中であれば、最終的には自分である程度決めることができます。
しかし、歴史上、自分の神経のかたちを、自分の意思で選び直した人間は、ひとりもいないはずです。
ですから、ぼくのようなタイプの人に「もっと気持ちを込めろ」と言うのは、「持っていない通貨で、今すぐ払え」と言うのに等しいのです。

ぼくは誓って、脱税したかったわけではありません。
ただ、生まれた経済圏が、多くの人とは違っていたのです。
そして、こういう人間は、多いか少ないかは別として、社会の中に一定数、確実にいます。
さらに、どちらの経済圏に属しているかは、ほぼ外見での見分けがつかないのです。

■ すれ違いは五分五分、なのにコストは片側だけに請求される

ここまでの話だと、「では、少数派のあなたが、多数派に合わせればいい」で終わってしまいそうです。
実際、世界はだいたい、そう回っています。
でも、その"当たり前"を、一旦立ち止まって見てほしいのです。

「特性のある人が、周りとうまくいかないのは、その人に共感する力が欠けているからだ」と、長いあいだ、そう言われてきました。
でも、これはあまりにも一方通行な見方です。

本当は”すれ違い”って、双方向のものであるはずです。
ぼくが相手を読めないのと同じように、相手もぼくを読めていない。

しかし現実には、片方だけが「障害」と名指され、もう片方は名指されない。
本質的には、「どちらかに瑕疵がある」のではなく、貼られたラベルが違うだけなのです。

実際、同じ特性を持つ人どうしだと、むしろ話が驚くほどスムーズに通じる、という実験結果もあります。
故障しているのは、どちらか一人の中ではなく、二人の"あいだ"なのです。
これは、近年になって「二重共感問題」として研究が進んできています。

だとすれば、こうも言えると思います。

相互の誤解は、五分五分にあります。
ところが、そのすれ違いを埋めるためのコスト(どちらが「普通」を名乗り、どちらが社会に自分を合わせにいき、どちらが「障害」のラベルを貼られ、どちらが仮面をかぶって適応し続けるのか、等に関するコスト)は、まったく五分五分ではありません。
橋を架けるための費用は、いつも、架けにくい側に全額請求されます。

すれ違いは対称なのに、それを埋めるために必要なコストの請求書は、片側にしか届かない。
これが、ぼくがこの文章で、いちばん見えるようにしたかったことです。

■ 「正常」は、そんなに昔からある考えではない

なぜ、請求書は片側だけに届くのか。
理由は、身も蓋もなく、「多数派だから」です。

じつは、いまぼくらが使っている「正常(ノーマル)」、つまり「平均から外れていないこと」という意味での「正常」は、そんなに古い考え方ではありません。
この意味で使われ出したのは、200年ほど前、統計学が「平均」という物差しを持ち込んでからのことだといいます。

もちろん、それ以前の社会にも、「まとも/狂っている」といった区別はありました。ただ、人が基準として仰いでいたのは、どちらかといえば「理想」のほうでした。神や女神のような、誰も届かない理想です。
人を「理想にどれだけ近いか」で測るあいだは、みんな等しく"届いていない者"にすぎません。

ところが「平均」が物差しになると、話が変わります。
真ん中があるぶん、そこから外れた者が「異常」として、くっきり浮かび上がってしまう。
「普通」という線は、天から降ってきたのではなく、多数派が自分たちの真ん中に、後から引いた線だったのです。
(「普通」に関しては、また別途記事にしようと思っています。)

多数派は、その線を引いた側です。
だから、自分たちのやり方が、そのまま社会の初期設定になります。
学校も、職場も、雑談のリズムも、"申し訳なさの見せ方"の作法も、すべて、多数派が快適でいられるように組まれている。
良く言えば、民主主義的です。
悪く言えば、差別主義的です。

ここで、慎重に言葉を選びたいと思います。
ぼくは「多数派が悪だ」と言いたいのではありません。
そうではなく、自分たちのやり方が「標準」になっている世界では、そのやり方そのものを疑うきっかけがそもそも訪れにくい、という話です。

これは、能力の問題ではありません。
むしろ、成功の副産物です。感情を読み合い、同期し合うこのやり方は、人類が大きな集団を築くうえで、間違いなく強力な武器でした。
ただ、勝利のなかで手にした強みは、時代の別の局面では、そのまま死角に変わることがあります。
かつて世界を勝ち取った道具を、勝ったあとも同じ強さで回し続けると、今度は、その道具で決済できない人間を、静かに踏んでいく。
しかも、踏んでいる自覚のないままに。

■ 本当の主役は、ぼくでも、多数派でもない

この文章の本当の主役は、じつは、特性のある人でも、多数派の人でもありません。

仕組みのほうです。

人類が、大きな集団を維持するために発明した、「感情でやりとりする徴税システム」、それ自体です。

ひとつ、先に断っておきますと、ここまで借りてきた実験や研究は、それぞれ、ちゃんと確かめられたものです。
でも、それらを「感情は通貨だ」「社会は徴税システムだ」という一枚の絵にまとめているのは、あくまで、ぼくの解釈です。

とくに、ここから先の話は、裏づけのある事実ではなく、ぼくがそう感じているだけの話、として読んでください。

人間が、ほかの動物と決定的に違うのは、実体のないものを、みんなで一緒に信じられる点だ、という話があります。
お金も、国も、法律も、実体はないのに、みんなが信じているから動いていて、その共同の思い込みの上に、見知らぬ他人どうしの協力が成り立っている。

感情の徴税も、たぶん、その仲間です。
「関係のためには、感情というコストを払うべきだ」という、巨大な共同の思い込み。
そして、それは驚くほどうまく働いてくれました。
おかげで、ぼくらは、見ず知らずの他人と、社会を築けているのですから。

問題は、その仕組みが、あまりに強力で、あまりに当たり前になった結果、"別の通貨で生きている人間"にまで、一律に、同じ税を課してしまっていることです。

そこに生ずるバグは、多数派の中にあるのでも、少数派の中にあるのでもありません。
「違う認知の人にまで、同じ仕組みが、一律に適用されている」という、その一点にあるのだと思います。

もし、ぼくに糾弾したいものがあるとすれば、それは"人"ではありません。この、“優秀すぎて止まれなくなった仕組み”のほうです。

■ 別の通貨の民として、それぞれに伝えたい。

①感情という通貨を、当たり前に使える人たちへ。
あなたが誰かに取り立てているのは、あなたにとっては「実体のない借金」ではないのでしょう。
少なくとも、あなたの世界では、その通貨にはしっかりと実体があり、価値があるのだと思います。
ただ、それは「普遍的な正しさ」ではない。
目の前の人が、別の国から来た人(あなたと違う特性の人)であれば、使えない通貨なのだ、ということは、知っておいてほしいのです。
あなたが支払いを求めている相手は、そもそも、その通貨を持ったことも使ったこともなく、生来的に、そして今後も、持つことができない人なのかもしれません。
あなたは、あなたが欲しい通貨を全く持っていない相手に対して、なぜか損をしていると思い込むあまり、延々と督促することで、本当は要らない摩擦を生んでいるだけなのかもしれないのです。
何をしても回収できない債権に、あなたの貴重な時間と労力を使う価値はありません。

②「感情脱税罪(およびその容疑)」で、裁かれてきた人たちへ。
何かしくじったとき(何ならしくじっていないつもりのときでも)、あなたが心底反省し、直接詫びてもいて、具体的な手段を講じているつもりなのに、「反省が足らない」「普通はそんな態度をとらない」「何を偉そうに」といった言葉が返ってきて、「じゃあこれ以上どうしろってんだ?!」という袋小路に入ってしまったとき、あなたが払えども払えども督促され続けているのは、「あなたが生まれつき持っていない通貨で積み立てられた何か」なのかもしれません。
きっと、無いものを欲しがる相手が愚かに見えたり、何が求められているのかすらわからない自分に絶望したり、「きっと自分に決定的な不足があるのだろう」と自己肯定感が底に落ちたりといったことが、日常茶飯事だと思います。
ただ、それは相手が悪いわけでもなければ、あなたが悪いわけでもない。
単純に、使っている通貨が違うのです。
ただ、それを事実として踏まえつつコミュニケーションを試みることが、少なくとも今のこの社会で、健康的に生存するための必須条件になっていることを、ぼくらは知っておくべきです。

■ ぼくはどうなのか

ASDタイプのぼくには、メタ認知が働きやすい、という特性があります。
これは、生きるための強みにもなる一方で、致命的な弱点にもなります。
事実を受け止めることと、感情が動くことの結びつきが弱いぶん、自分のことさえ、どこか突き放して眺めてしまう。

これは、良くも悪くもない、ただの特性です。
でも、自分の歪みも、愚かさも、自分に対して隠しようがないということでもあるので、比較的フラットに見えているつもりです。

ぼくは、自分のそういう性質を、長いこと呪ってきました。
でも、それが「一定の割合で必ずいるタイプの特性である」と判った今は、少しだけ違います。
自分を「標準」だと信じられる安心を、ぼくは持てなかった。
だから、見なくて済むはずのものまで、見るしかなかった。
それは確かに、しんどいことでしたが、悪いことばかりでもなかったな、と思っています。

悪者は、いません。
でも、非対称は確かにあります。
だからといって、ぼくは、誰かを憎めと言いたいわけではありません。

ただ、人類の遺伝子が、生存戦略のために、強く握ったまま離さなかった「見えざる徴税の仕組み」によって、感情の督促状が、いつも手元に残ってしまい、不良債権化していく現象(≒ 深くなればなるほど、長くなればなるほど、関係が腐っていくこと)について、言語化して、明るいところへ引きずり出しておきたかった。

そういえば友人は、こうも言っていました。
「人間は、全員、傷を持ってるよ。親から生まれたら、必ずそうなる」。
だとすれば、傷のない人など、いません。

違いは、傷があるかないかではなく、自分の傷を、見なくて済むかどうか、なのだと思います。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


参考にした研究・本文の根拠

  • 最後通牒ゲーム:Güth, Schmittberger & Schwarze (1982)

  • 利他的懲罰(自腹を切ってでも違反者を罰する性質と協力の維持):Fehr & Gächter (2002), Nature 415, 137–140

  • サルの不公平への反応:Brosnan & de Waal (2003), Nature 425(ただし「不公平への怒りではなく、良い餌を見た欲求不満では」という反論もあり、決着はついていない)

  • 感情が「本気の証明(高コストの信号)」として働くこと:Robert H. Frank, Passions Within Reason (1988)

  • すれ違いは双方向だという見方(二重共感問題):Damian Milton (2012)/同じ特性を持つ人どうしの伝達が円滑だった実験:Crompton et al. (2020), Autism

  • 「正常」=「平均から外れていないこと」という近代的な意味が、19世紀の統計学とともに成立したこと:Lennard J. Davis, Enforcing Normalcy(※「まとも/狂気」などの区別自体は前近代にも存在した)

  • 実体のない共同の物語が大規模な協力を支えること:ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』

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