「国民皆医療」の看板は残り、歯科医院だけが消えていく――英国NHS歯科で進む静かな崩壊

英国の公共医療制度NHSは、しばしば日本でも「税金を財源として、国民が平等に医療を受けられる制度」として紹介されます。
ところが、少なくとも歯科医療については、その理念と現実の間に巨大な亀裂が生じています。
BBCが2026年8月に報じた分析によると、イングランドでは、以前はNHS診療を提供していた歯科医院の10軒に1軒以上が、現在はNHS診療をやめています。過去10年間にNHS歯科から撤退した診療所は、約600施設にのぼるとされています。
その結果、地域によってはNHS歯科の予約を取ることが、ほぼ不可能になっています。
これは単なる「歯科医不足」ではありません。
歯科医も歯科医院も存在する。しかし、NHS価格では診療を提供したくない。お金を払える患者だけが、自費診療としてその歯科医療にアクセスできる。
英国では、そんな静かな二層化が進んでいます。
NHS歯科医院は、NHSの直営施設ではない
まず理解しておきたいのは、英国の街中にある歯科医院の多くが、NHS直営ではないということです。
日本の歯科医院と同じように、基本的には独立した民間事業者です。その歯科医院がNHSと契約を結び、一定量のNHS診療を提供しています。
同じ歯科医院の中で、
NHS契約による診療
完全自費による診療
の両方を行うこともできます。
したがって、歯科医院側はNHS契約を返上し、「今後は自費患者だけを診ます」と決めることができます。
病院そのものが閉鎖されるわけではありません。建物も、診療用チェアも、歯科医も残っています。
消えるのは「一般の人が支払える価格で診てもらえる枠」だけです。
ここが、この問題の恐ろしいところです。
歯科医は増えているのに、NHS歯科にはかかれない
英国議会下院図書館によると、2024年度に何らかのNHS診療を行った歯科医は、イングランドで24,655人でした。
これは前年度より1%多く、2014年度より3%多い数字です。
つまり、「歯科医の絶対数が10年間で激減したから、予約できなくなった」という単純な話ではありません。
ただし、人口10万人当たりのNHS歯科医は、2014年度の44.0人から2024年度には42.0人へ低下しています。
さらに、この統計には注意が必要です。
年にわずかでもNHS診療を行えば、「NHS診療を行った歯科医」として数えられます。週の大半を自費診療に使い、ごく一部だけNHS患者を診ている歯科医も1人です。フルタイムでNHS患者を診ている歯科医も、同じく1人です。
したがって、歯科医師数がそれほど減っていなくても、実際に供給されるNHS診療量は縮小している可能性があります。
英国で起きているのは、医療従事者の消滅というより、医療従事者の「公的部門から私的部門への移動」です。
問題の中心にあるUDA制度
NHS歯科では長年、UDA(Units of Dental Activity)と呼ばれる活動単位を使った契約制度が採用されてきました。
大まかには、
診察や予防処置:1 UDA
充填、抜歯、根管治療など:3 UDA
クラウン、ブリッジ、義歯など:12 UDA
として年間の契約量が決められます。
一見すると、日本の診療報酬制度に近い仕組みに見えます。しかし大きな問題があります。
同じ区分の中では、治療の難易度や処置本数が十分に反映されないのです。
たとえば、比較的簡単な充填処置と、何度も通院が必要になる難しい根管治療が、同じBand 2として扱われることがあります。軽症患者でも重症患者でも、医院が受け取れるUDAは大きく変わりません。
そうなれば、歯科医院側にとって重症患者を受け入れるほど不利になります。
時間がかかる。
材料費がかかる。
スタッフの人件費がかかる。
再診回数も増える。
トラブルのリスクも高くなる。
それでも報酬は十分に増えない。
しかも、年間契約量を超えて診療しても、超過分の支払いが保証されるとは限りません。一方、契約量を達成できなければ、報酬を返還する可能性があります。
これでは、複雑な治療を積極的に引き受ける動機が生まれません。
自費診療へ移れば、すべてが解決する
歯科医院の経営者から見れば、合理的な解決策は明らかです。
NHS診療を減らし、自費診療を増やせばよいのです。
自費診療なら、
治療内容に応じて料金を設定できる
材料費や人件費の上昇を価格へ転嫁できる
複雑な治療に相応の料金を請求できる
年間の契約量に縛られない
予約時間を長く確保できる
提供する材料や治療法の自由度も高い
という利点があります。
もちろん、歯科医を悪者にしても問題は解決しません。
家賃、光熱費、材料費、機器の更新費用、スタッフの給与が上昇する中で、公定価格が十分に引き上げられなければ、経営者が採算のよい自費診療へ移るのは当然です。
個々の歯科医が制度に従って合理的に行動した結果、社会全体としてNHS歯科が崩壊していく。
これは典型的な制度設計の失敗です。
NHS歯科は、もともと完全無料ではない
なお、英国のNHS歯科は、成人なら誰でも無料という制度ではありません。
2026年4月以降、イングランドの患者負担は次のように設定されています。
Band 1:27.90ポンド
Band 2:76.60ポンド
Band 3:332.10ポンド
緊急歯科診療:27.90ポンド
低所得者、妊産婦、一定年齢以下の子どもなどには免除制度がありますが、一般成人には患者負担があります。
それでも自費診療より安いため、NHS診療枠には患者が集中します。
しかし、歯科医院側にはNHS枠を拡大する経済的な動機が乏しい。
需要は大きいのに、供給は増えない。それどころか、診療所が次々とNHS契約から退出していく。
その結果、診療価格が安いかどうか以前に、予約そのものが取れない状態になります。
安価な公定価格が設定されていても、その価格で診てくれる医療機関が存在しなければ、制度はないのと同じです。
NHSの歯科医に「登録」されているわけではない
英国の一般診療では、住民はGPと呼ばれる家庭医へ登録します。
しかし、歯科にはGPと同じ登録制度がありません。
患者は原則として、NHS診療を提供するどの歯科医院でも受診できます。裏を返せば、一度治療を受けたからといって、その歯科医院が将来も自分をNHS患者として診てくれる保証はありません。
治療コースが終われば、次回の予約を断られることもあります。
「以前通っていた歯科医院だから、また診てもらえるだろう」
そう思って連絡したら、
「現在、新規のNHS患者は受け入れていません」
「NHSの予約枠はありません」
「自費診療なら予約できます」
と言われる。
歯が痛いという事実は同じなのに、支払える金額によって予約表への入口が変わるのです。
予約を試みた人の90.6%が失敗
2024年に英国国家統計局が公表した調査では、イングランドの成人のうち、
52.1%がNHS歯科を利用
34.2%が自費歯科を利用
13.5%が歯科医なし
と回答していました。
さらに衝撃的なのは、「現在かかりつけ歯科医がいないが、NHS歯科の予約を試みた人」の90.6%が、予約に失敗していたことです。
10人中9人以上です。
これは、単に「少し待たされる」という話ではありません。
入り口そのものが閉じています。
しかも、予約に失敗した人の77.4%は、その後何もしませんでした。自費歯科を受診した人は10.7%、救急外来へ行った人は1.3%、GPへ相談した人は1.2%でした。
お金がなければ、痛みを抱えたまま放置する。
虫歯や歯周病が進行する。
食事が取れなくなる。
感染が悪化する。
最終的には、保存できたはずの歯を抜くことになる。
これが、アクセス崩壊の具体的な帰結です。
最も必要な地域ほど、歯科医がいない
問題は全国一様ではありません。
歯科医療へのアクセスは、地域によって大きく異なります。
2024年の調査では、最も貧困度の高い地域で「歯科医がいない」と答えた人は23.0%でした。一方、最も裕福な地域では8.9%でした。
裕福な地域では、NHS歯科が見つからなくても自費歯科へ移れます。自費患者が集まる地域には、歯科医院も参入しやすくなります。
反対に、低所得者の多い地域では、自費需要が育ちにくい。NHS契約の採算も悪ければ、歯科医院を維持すること自体が難しくなります。
その結果、
貧困地域ほど口腔疾患が多い
しかしNHS歯科が少ない
自費診療を利用できる人も少ない
軽症のうちに治療できない
重症化してから救急医療へ流れる
という悪循環が生まれます。
必要性に応じて医療資源が配分されるのではなく、支払能力に応じて医療資源が集まる。
公共医療を名乗りながら、市場原理が最も強く働く形になっています。
痛くなるまで待ち、最後は抜歯する医療へ
歯科疾患の多くは、初期段階で対応すれば比較的簡単に治療できます。
ところが予約が取れなければ、患者は受診を先延ばしにします。
その結果、予防や保存治療ではなく、疼痛への応急処置や抜歯が中心になります。
行政側は「緊急歯科予約を増やした」と成果を発表できます。しかし、本来必要なのは、緊急患者を処理する枠だけではありません。
定期的な診察、早期治療、歯周病管理、根管治療、補綴、治療後の継続管理まで含めた歯科医療へのアクセスです。
緊急枠だけを増やす政策は、壊れた水道管の下にバケツを増やしているようなものです。
患者が激痛を起こしてから診るのでは遅いのです。
政府は「70万件の緊急予約」を掲げた
英国政府は、NHS歯科の立て直し策として、緊急歯科予約の拡大や契約制度の改革を進めています。
2026年度からは、一定規模以上のNHS歯科契約を持つ医療機関に対し、契約額の8.2%を緊急・予約外診療へ割り当てることが求められました。緊急診療1コース当たりの報酬も75ポンドへ引き上げられています。
政府は約70万件の追加緊急予約を掲げ、実際には地域組織が約100万件分を委託したと発表しています。
数字だけを見れば、大規模な改善策に見えます。
しかし、これはNHS歯科が抱える根本問題の一部にしか対応していません。
通常診療の採算性
重症患者を診るほど不利になる報酬構造
NHSと自費診療の収益格差
地方や貧困地域の歯科医不足
継続治療を受けられない仕組み
契約を返上する歯科医院の増加
これらを改善しなければ、緊急予約を増やしても、NHSから自費への移動は止まりません。
「制度が存在すること」と「実際に利用できること」は違う
NHS歯科制度は、書類上は存在しています。
料金表もあります。
対象となる治療も決められています。
免除制度もあります。
相談窓口もあります。
政府は追加予約件数も発表しています。
しかし患者が電話をかけても、予約できる歯科医院がなければ意味がありません。
医療制度を評価するとき、病院数、医師数、予算額、予約枠数といった供給側の数字だけを見てはいけません。
重要なのは、
「今日、歯が痛い低所得者が、現実に予約を取れるのか」
という一点です。
その問いに対する答えが「ほぼ無理」であれば、制度は実質的に機能していません。
NHSという看板の下で進む米国化
英国は、米国型医療とは異なる国民皆医療を長年誇ってきました。
しかし歯科では、
お金のある人は自費診療を受ける
NHS歯科を確保できた人だけが安価に受診できる
低所得者は予約が取れず、痛みを放置する
重症化すると救急医療や抜歯に流れる
という二層構造が進んでいます。
保険証の有無で分断される米国とは、表面的な制度は違います。
しかし、最終的に「払える人は診てもらえ、払えない人は待たされる」という結果になるなら、患者から見た現実はそれほど変わりません。
国民皆医療の看板を残したまま、供給者が公的契約から静かに退出していく。
政府は制度を廃止したとは言いません。
歯科医院も閉院したわけではありません。
ただ、安価に診てもらえる入口だけが、少しずつ閉じていきます。
これは派手な医療崩壊ではありません。
救急車が一斉に止まるわけでも、病院が同じ日に閉鎖されるわけでもない。
予約の電話を断られる。
次の歯科医院にも断られる。
自費なら診られると言われる。
お金がないので諦める。
その小さな出来事が、国中で毎日繰り返される。
英国NHS歯科で起きているのは、まさに「静かな医療崩壊」です。
そして最も恐ろしいのは、制度の看板が残っているため、崩壊していること自体が見えにくいことなのです。
参考資料
英国議会下院図書館「NHS dentistry in England」
https://commonslibrary.parliament.uk/research-briefings/cbp-9597/
英国国家統計局「Experiences of NHS healthcare services in England」
https://www.ons.gov.uk/peoplepopulationandcommunity/healthandsocialcare/healthcaresystem/bulletins/experiencesofnhshealthcareservicesinengland/september2024
NHS「How much NHS dental treatment costs」
https://www.nhs.uk/nhs-services/dentists/how-much-nhs-dental-treatment-costs/
NHS England「Confirmation of urgent/unscheduled care activity requirements for NHS dental contract holders for 2026/27」
https://www.england.nhs.uk/long-read/confirmation-of-urgent-unscheduled-care-activity-requirements-for-nhs-dental-contract-holders-for-2026-27/
英国政府「Major boost for millions of NHS dental patients」
https://www.gov.uk/government/news/major-boost-for-millions-of-nhs-dental-patients
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