猫という一般論は、ぴーちゃんを説明しない
すべてのはじまりは、たしかに「猫が好き」という、ごくありふれた感情だった。
猫と暮らしたい。その気持ちに嘘はなかった。動画サイトで無作為に流れてくる猫の映像を眺め、友人宅の猫に触れ、私は「猫」という生き物にたしかに惹かれていた。
ぴーちゃんとの生活も、入口だけを見れば、まちがいなくそこから始まっている。
「猫らしさ」というものは、たしかにある。
しなやかな身体の曲線、気まぐれな距離感、ひだまりでとろけるような眠り方。あるいは、ついさっきまで喉を鳴らしていたのに、次の瞬間には理不尽な拒絶を見せるあの感じ。部屋の片隅にただ「いる」だけで、空気を少し変えてしまうような存在感。
人が猫に惹かれる理由は、ある程度までは説明できるのだろう。
丸い輪郭や大きな瞳、高く短い鳴き声といった特徴が、人の庇護欲を引き出しやすいことには、ある程度の説明がつくのだと思う。そうした傾向はネオテニーと呼ばれることもある。
私もまた、そういう「猫というもの」が人を惹きつける力に、たしかに惹かれていた。
けれど、ひとつの命と一緒に暮らすということは、その一般論が少しずつ足りなくなっていく過程でもあった。
共に過ごし、こちらもそのやりとりの内側に入っていくにつれ、「猫らしい」という便利な言葉では片付かない瞬間が、生活の中に溢れ出してくる。
彼の独特な間の取り方。怒る時の尻尾の揺れる速度。撫でられたい時の、文字には起こせない微細な鳴き声のグラデーション。私がPCに向かっている時だけ見せる、絶妙に邪魔で、かつ邪険にできない位置取りのセンス。
外から見れば、どれも「猫あるある」と呼べる仕草なのかもしれない。けれど、その同じ仕草が、暮らしの内側では、その日の機嫌や要求や拒絶として立ち現れる。
私が頭の中で理解していたはずの「猫」という言葉は、彼が日々更新していく具体の前に、少しずつ輪郭を失っていった。
辞書に載っている説明はまちがっていない。けれど、今目の前で私のスリッパを理不尽に攻撃しているこの生き物を、それだけで説明することはできない。
ぴーちゃんは、生物学的にはまちがいなく猫である。だが、私が日々向き合っているのは、「猫」という言葉で括れるものではない。
彼には彼固有の反応があり、気配があり、不機嫌のルールがあり、彼だけの沈黙がある。
もし誰かに「猫だから好きなんでしょう」と問われたら、私は少しだけ言葉に詰まってしまうだろう。入口だけを言えば、たしかにそうだった。けれど今の実感は、もうその一文には収まりきらない。
私が惹かれているのは、猫という概念の美しさというより、ぴーちゃんという一匹が持っている癖や履歴や気配そのものなのだ。
もちろん、ここで少し距離を取って考えることはできる。
私は猫という生き物の持つ仕掛けに反応し、彼の気まぐれに一喜一憂している。そうした自分の認知の働きを、ある程度まで説明することも不可能ではない。
だが、その理解は彼の具体性を少しも減らさない。むしろ、そうした一般論を知ったうえでなお、目の前の一匹に振り回されているという事実のほうが、私には切実だ。
一匹と暮らすということは、一般名詞への好意とは別の場所へ進んでいくことなのだと思う。出会いの入口は「猫」でよかった。けれど、時間が経つほど、その言葉は私の実感に追いつかなくなる。
「猫」という言葉はまちがっていない。だが、それだけでは、私が知っている彼には届かない。
私が毎日見つめ、触れ、時にため息をつきながら世話を焼いているのは、猫一般ではなく、ぴーちゃんという具体的な一匹である。
猫という一般論は、ぴーちゃんを説明しない。
そして、その説明しきれなさのままそこにいることが、私にとっての彼なのだと思う。
