【世界のオンチェーンプロジェクト File.022】 Project Agorá Update
トークン化預金と中央銀行マネーは、実価値で国境を越えたのか
プロトタイプからReal-Value Testingへ——Agoráが越えた次の壁
最終更新:2026年8月
Project File 04でProject Agoráを取り上げた時点では、プロジェクトは大きな節目に到達していました。
BISとIIFは2026年5月、商業銀行預金と中央銀行準備をトークン化し、複数通貨をアトミックに決済する共有プログラマブル基盤のプロトタイプを完成させました。
プロトタイプでは、
トークン化商業銀行預金
トークン化中央銀行準備
複数通貨
コンプライアンス確認
資金ロック
Atomic Settlement
プライバシー
を一つの取引フローへ統合できることが確認されました。BISは、各国中央銀行が通貨と中央銀行準備に対する統制を維持しながら、複数法域をまたぐ決済を「all-or-nothing」で実行できると報告しました。
しかし、そこで一つの問いが残っていました。
模擬的な残高では動いた。では、本物のお金を使っても動くのか。
2026年7月、Project Agoráはこの次の壁を越えました。
BISによると、アジア、欧州、北米の金融機関と中央銀行28機関が参加し、実価値を使ったReal-Value Testing、RVTを実施しました。
17の取引シナリオを通じて処理された金額は、合計で約80万スイスフラン相当。
個々の取引は、約9,000スイスフランから12万5,000スイスフラン相当でした。
金額自体は大きくありません。
しかしAgoráにとって重要なのは、取引額ではありません。
「共有台帳上でトークンを動かせる」から、「実際の金融機関の価値を、法務・運用・ガバナンスを含む条件下で動かせる」へ進んだ
ことです。
Project Update Card
プロジェクト
Project Agorá
前回の到達点
2026年5月:共有プログラマブル基盤のプロトタイプ完成
今回の更新
2026年7月:Real-Value Testing実施
参加
金融機関・中央銀行28機関
地域
アジア、欧州、北米
取引シナリオ
17
総取引価値
約CHF 800,000相当
1取引当たり
約CHF 9,000〜125,000相当、または現地通貨相当額
使用するマネー
Tokenised Commercial Bank Deposits
Tokenised Central Bank Reserves
検証対象
技術
オペレーション
ガバナンス
法務
現在地
PrototypeからControlled Real-Value Testingへ。テストは今後も継続予定。
何が新しかったのか
「実価値取引」と聞くと、
本番サービスが始まった
ようにも聞こえます。
しかし、そこまで進んだわけではありません。
BIS自身もAgoráを完成したプロダクトとは位置付けておらず、研究・実験プロジェクトであることを明確にしています。
今回のRVTはcontrolled environment、管理された環境で行われました。
それでも、通常のUser Acceptance Testingとは意味が違います。
5月までのプロトタイプテストは主に、
ワークフローが正しく動くか
Path Discoveryが機能するか
各銀行のValidationを同期できるか
複数台帳の資金をロックできるか
Commit-or-Cancelを実行できるか
Timeout時に正常終了できるか
といった機能確認でした。
BISの最終報告でも、この段階のテストにはPerformance Benchmarking、Stress Testing、Security Assurance、Operational Resilience Assessmentは含まれていなかったとされています。
今回のRVTでは、そこから一歩進み、
実際の価値を持つ決済を、現実に近い運用条件の下で処理する
ことを検証しました。
対象も技術だけではありません。
BISはRVTのテストフレームワークに、
operational, technical, governance and legal
の4側面を含めたと説明しています。
ここが今回の更新の核心です。
Agoráでは、何を「実価値」にしたのか
Agoráの構造をもう一度整理します。
顧客が持つのは商業銀行預金です。
銀行間最終決済に使うのは中央銀行準備です。
Agoráでは、この二つをプログラマブルな形で扱います。
概念的には、
顧客Xの銀行A預金
↓
銀行AのTokenised Commercial Bank Deposit
↓
銀行Aから銀行Bへの銀行間支払義務
↓
Tokenised Central Bank Reservesによる決済
↓
銀行BのTokenised Commercial Bank Deposit
↓
顧客Yの銀行B預金
という流れになります。
重要なのは、
一種類の「Agorá Coin」を送る
仕組みではないことです。
銀行Aの預金は銀行Aの負債。
銀行Bの預金は銀行Bの負債。
中央銀行準備は中央銀行の負債。
この法的な違いを維持しながら、一つの取引として同期します。
5月の報告では、この構造について技術的・法的成立可能性が示されました。
7月のRVTでは、それを実価値で動かしたわけです。
「国境を越えた」のは何か
タイトルでは、
トークン化預金と中央銀行マネーは、実価値で国境を越えたのか
と問いを置きました。
ここは正確に理解する必要があります。
例えば、日本の預金債権そのものが外国へ移転し、そのまま外国銀行の預金になった、という意味ではありません。
各銀行・各法域のマネーは、それぞれの法的性質を維持します。
国境を越えたのは、
複数法域にまたがる支払取引の状態
です。
誰が支払うのか。
どの銀行を通るのか。
何通貨を交換するのか。
コンプライアンス条件を満たしたか。
資金がロックされたか。
全レッグを同時に確定できるか。
これらを同じプログラマブル・ワークフローとして処理します。
これは単なる「国際送金の高速化」とは少し違います。
国際送金を構成する複数の銀行・通貨・台帳・規則を、一つの取引状態として扱う
ことがAgoráの本質です。
17の取引シナリオが意味するもの
BISは今回、17のTransaction Scenarioを実施したと公表しています。
ただし2026年8月時点で、17シナリオそれぞれについて、
どの通貨ペアだったのか
どの金融機関だったのか
何ホップのコルレス関係だったのか
FXをどのように提供したのか
各シナリオの処理時間
費用
失敗率
といった詳細一覧は、公開ページでは示していません。
したがって、
「17種類のユースケースを実証した」
と表現するのは少し違います。
正確には、
17の取引シナリオを使い、Real-Value Paymentを検証した
ということです。
ここは過大評価しない方がよいでしょう。
80万スイスフランは「小さい」のか
総額約80万スイスフラン。
世界のホールセール・クロスボーダー決済の規模と比べれば、極めて小さい金額です。
しかし、今回の実証目的はVolumeではありません。
Agoráが確認しようとしているのは、
一日に何兆円処理できるか
ではなく、
実際の価値を用いたとき、複数法域の法律、中央銀行ルール、銀行オペレーション、共有台帳を矛盾なく同期できるか
です。
したがって、80万スイスフランという数字から、
「まだ市場規模が小さい」
と評価するのは適切ではありません。
反対に、
「80万スイスフランの国際決済に成功したから商用化可能」
とも言えません。
現在地はその間です。
本当に重要なのは「Real Value」より「Operational Reality」
今回のUpdateでもう一つ重要なのは、
実価値になったことで、技術以外の問題を避けられなくなった
ことです。
模擬トークンなら、
間違えても戻せる
法的債務は発生しない
会計処理を考えなくてよい
流動性を本当に確保する必要がない
破綻時の損失を考えなくてよい
場合があります。
実価値になると違います。
銀行は、
誰が取引を承認するのか
誰が秘密鍵を操作するのか
どの口座から価値を拠出するのか
どの時点で会計計上するのか
法的ファイナリティはいつ成立するのか
障害時にどう取り消すのか
各中央銀行の規則とどう整合するのか
を決める必要があります。
そのためRVTの価値は、
Real Value Testingというより、Real Operating Model Testingへの入口
と捉える方が本質に近いでしょう。
それでもAgoráは「本番」ではない
ここは明確にしておく必要があります。
今回の結果から、
「Agoráによる国際銀行決済が開始された」
とは言えません。
BISは、Agoráを依然としてPrototype/Testingのプロジェクトとして位置付けています。
本番FMIとして必要な、
大量取引時の性能
ピーク負荷
サイバー攻撃耐性
障害復旧
24時間365日のオペレーション
流動性節約
フェイルオーバー
商用料金
恒久ガバナンス
運営主体
などは、まだ実証されたわけではありません。プロトタイプ段階では性能ベンチマーク、ストレステスト、セキュリティ保証、運用レジリエンス評価も対象外でした。
したがって、現在地は、
Proof of Conceptではない。
しかしProductionでもない。
その間にある、
Controlled Real-Value Prototype
と見るのが適切です。
Bank of Canadaが加わった意味
もう一つ、Project File 04以降に変わったのが参加中央銀行です。
従来は7中央銀行でした。
Banque de France:Eurosystem代表
Bank of Japan
Bank of Korea
Bank of Mexico
Swiss National Bank
Federal Reserve Bank of New York
Bank of England
2026年5月、Bank of Canadaがプロジェクトへ加わりました。
現在BISは、Agoráを8中央銀行、40超の金融機関によるプロジェクトと説明しています。
カナダドルが今回のRVTで実際に使われたかどうかは、公開ページからは確認できません。
したがって、
「8通貨で実価値取引を実施した」
とは書けません。
しかし、主要準備通貨を含む中央銀行ネットワークが広がったこと自体は、Agoráを将来的な多通貨FMI候補として考えるうえで重要です。
Project AgoráとSWIFT Ledgerの距離が近づいた
Project File 21では、HSBCとStandard CharteredがSWIFT Ledgerを使い、初のライブ銀行間トークン化預金取引を実行したことを取り上げました。
SWIFTとAgoráは、同じ問題に違う方法で答えています。
SWIFT Ledger
銀行預金は各銀行に残す。
中央銀行マネーも既存決済システムに残す。
SWIFTは銀行間の取引状態を同期する。
Project Agorá
トークン化預金とトークン化中央銀行準備を、共有プログラマブル基盤上で一つの取引として同期する。
整理すると、
SWIFTはSeparate LedgersをSynchroniseする。
AgoráはMoneyをProgrammable Shared Platformへ近づける。
という違いがあります。
しかし今回、両方が実価値へ進んだことで、議論は「どちらが技術的に可能か」ではなくなりつつあります。
次に問われるのは、
どちらがより少ない移行負荷で、十分なAtomicity、Liquidity、Finality、Governanceを提供できるか
です。
オンチェーン金融の競争は、Blockchain Technologyの競争からOperating Modelの競争へ移り始めています。
mBridgeとの違いも、より明確になる
mBridgeはすでに2022年から実価値CBDC取引を行ってきました。
ではAgoráの実価値テストは、単にmBridgeへ追いついただけなのでしょうか。
そうではありません。
mBridgeは、
複数の中央銀行マネーを共通基盤上で直接交換する
設計です。
Agoráは、
商業銀行預金を顧客マネーとして維持し、その裏側で中央銀行準備を同期する
設計です。
つまりmBridgeの主役はmulti-CBDC。
Agoráの主役は二層型銀行制度そのもののトークン化です。
銀行による信用創造、顧客預金、コルレス銀行関係を残しながら、その取引プロセスだけを再構成します。
BISも2026年のAnnual Economic Reportで、Agoráを中央銀行準備をアンカーとした二層型通貨制度の高度化事例として位置付けています。
「コルレス銀行をなくす」プロジェクトではない
Agoráについて、もう一度重要な点があります。
目的はコルレス銀行を消すことではありません。
クロスボーダー決済では、銀行は依然として、
顧客を知る
送金目的を確認する
外国為替を提供する
受取銀行との関係を持つ
AML/CFTを実行する
必要があります。
Agoráは、この既存の役割を、
sequential process
から、
coordinated programmable workflow
へ変更します。
つまり、
中間銀行をなくすのではなく、中間銀行間の処理を同期する
プロジェクトです。
この点は、実価値テストへ進んでも変わっていません。
次にAgoráが証明しなければならないこと
今回のRVTで、一つの大きな壁は越えました。
しかし、本当に金融市場インフラとして成立するには、さらに高い壁があります。
1|Scale
数十取引ではなく、数万、数十万の同時取引を処理できるか。
2|Liquidity
即時グロス・アトミック決済を増やしても、各通貨の流動性負担を増やさないか。
3|24/7
台帳だけでなく、中央銀行・銀行・FX・コンプライアンス・サポートまで24時間動かせるか。
4|Operational Resilience
ノード、ネットワーク、鍵、参加銀行の一部が停止した場合でも市場を維持できるか。
5|Governance
BIS Innovation Hubの実験が終わった後、誰が運営するのか。
6|Commercial Model
参加銀行はいくら負担し、既存コルレス決済と比べてどれだけ価値があるのか。
7|Migration
現在動いているSWIFT、RTGS、コルレス口座からどう移行するのか。
おそらく、ここから先は技術問題より、
金融市場インフラを誰が、どのルールで、どの責任を負って運営するか
の問題が中心になります。
Project File 04から何が変わったのか
Project File 04を書いた時点では、Agoráについてこう整理しました。
「国境を越える銀行決済を、一つの取引にできるか」
プロトタイプは、
できる可能性が高い
と答えました。
今回のRVTによって、その答えは一段強くなりました。
限定された実価値環境でもできた。
しかし、まだ、
世界の銀行決済インフラとしてスケールできる
とは言えません。
したがって成熟度は、
Concept
↓
Prototype
↓
Functional Testing
↓
Real-Value Testing ← 現在
↓
Controlled Production
↓
Commercial FMI
という位置です。
Agoráはようやく、技術実証から金融インフラ候補の検証へ入ったと考えるのがよいでしょう。
Project Agorá Updateが示したこと
今回のニュースで最も重要なのは、80万スイスフランではありません。
28機関でもありません。
17シナリオでもありません。
最も重要なのは、
トークン化された商業銀行預金と中央銀行準備を組み合わせる二層型の金融システムが、実価値でも動き始めた
ことです。
トークン化金融を考えるとき、
ステーブルコインへ銀行マネーを置き換える必要はない。
中央銀行がすべての顧客へCBDCを発行する必要もない。
既存の、
Central Bank Money
+
Commercial Bank Money
という構造を維持したまま、その間の取引をプログラマブルにすることもできます。
Project Agoráが試しているのは、まさにそのモデルです。
タイトルの問いへの答えは、現在こうなります。
トークン化預金と中央銀行マネーは、管理された環境では実価値で国境を越え始めた。
ただしAgoráが証明したのは「本番金融インフラの完成」ではない。
二層型銀行制度を維持したまま、実価値の多通貨決済を一つのプログラマブル取引として成立させられる、という次の段階である。
Project File 04では「設計」を見ました。
Project File 22では、その設計に実際のお金が入りました。
ここからAgoráが本当に越えなければならない壁は、Blockchainではありません。
Scale、Liquidity、Resilience、Governance、Migration。
つまり、金融市場インフラそのものの問題です。
主な参照資料
BIS, Project Agorá: exploring tokenisation of wholesale cross-border payments, updated 30 July 2026.
BIS, Project Agorá shows how tokenisation can improve wholesale cross-border payments; work will advance to real-value testing, 27 May 2026.
BIS, Project Agorá: A shared programmable platform for wholesale cross-border payments, 27 May 2026.
BIS, Annual Economic Report 2026, Chapter III: Anchoring trust in money: innovation beyond stablecoins.
