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シロクマ文芸部|彼女が聴こえても聴こえなくても-Summer weekend

波の音はまだ聴こえそうもない。
ボクは伶奈レナの映像仲間と連れ立って七人乗りのワゴンで海に向かっていた。ぎゅうぎゅう詰めの後部座席で、よくわからないメンツと週末を過ごさなくてはならなくて憂鬱だけど、彼女ひとりで行かせたらまた変な奴がつきまとうに決まってる。

ロケハンというバカンスらしい。運転は全身タトゥーの男だった。無造作に見えて実はものすごく手入れをしていそうな顎髭がワイルドで、喧嘩も強そうに見える。
窓の外は都心と地方をつなぐ道路に、アウトレットモールとビニールハウスと工場とインド風のモーテルが流れていった。
ボクは気持ちよさそうに揺れている伶奈に肩を貸したまま、窓ガラスに頭をもたげた。

借りていたのは中庭のある大きな貸別荘で、建物の屋根からぶら下がった小さな裸電球のせいで鄙びた海辺の宿がそれらしく見える。
夏の午後の光の洪水の中から突然室内に入ると、まぶたの奥がチクチク痛んだ。

「朝焼けを撮影しに来たの」

伶奈はうれしそうに荷物を解いた。
彼女と同じ部屋に泊まれたのはラッキーとしか言いようがない。自分が男としてみられていなくてよかったと思うときは、こんなシチュエーションだ。
新作を撮るの? と訊くと、映像フェスに出すのと花びらみたいなまつ毛でウィンクした。陽射しにさらされたそばかすがチャーミングだ。星空みたいで。

中庭は海に通じていて、遠くに帆を立てた小さな船が水平線に浮かんでいた。波の音がリズムよく胸に届く。砂浜の岩にハマユウのつる草が螺旋を描いて宙を彷徨っていて、夜はそこでバーベキューをした。
仲間はいい奴ばかりだった。専門用語で話題を独占したり、言葉の端々にマウントが埋まっている人もいなかった。
伶奈みたいにフリーの映像作家もいれば、会社員をしながら音楽をやってる女の子もいて、組織に属さない人ばかりだ。焚火を囲みながらゆったりと話すだけなのに、なんとなく周波数が合うかもしれないと感じた。

途切れることのない波の音。気だるい曲が流れるラジオFM。ラム肉や野菜が焼ける香ばしい匂い。
岩場にフジツボがびっしりとこびりついているのを指差して、全身タトゥー男が表情を変えずに言った。

「フジツボって雄雌胴体で、あの穴から細長いムチのような性器をしゅるしゅるっと出してセックスするんだって。で、同じ場所でずっと動かずに一生終えるらしい」
隣に座った女の子が、
「ダルくない? 浮気もできないじゃん」本当に嫌そうに顔をしかめた。
「だね。相手をいちいち選ばずに隣にいるいちばん近い奴ととりあえず性交して、ジ・エンドってな」

一瞬ボクは、自分がフジツボになった気がした。そんなふうに一生を終えるのもいいのかもしれない。もちろん口に出したら一斉にブーイングされるから黙っていたけれど。

焦げたトウモロコシに夢中になってる時だった。
「わたしこの曲好き」伶奈が急に立ち上がった。FMから古いロックが浜辺に流れている。歌詞がいい。
〈Nobody ever seems to remember life is a game we play
- 人生がただのゲームだということを誰も覚えていないさ〉 のところで合唱した。

伶奈は仲間のひとりを引っ張り出して焚火の前で踊っていた。酔っぱらって手足をフラフラ動かすだけだったけれど、それがかわいくて目が離せない。

こんなふうにいつでも自然体で躰が動く人だから、好きな曲が流れてくると我慢できないような人だから、みんな伶奈と一緒にいたがるのだろう。

「なぜ彼女といるの?」 
のばした黒髪を後ろでひっつめた中性的な男がボクに近寄ってきて尋ねた。
理由なんてないよ、と応えると、「俺はね」と訊いてもいないのに意味ありげに微笑んだ。
バミューダパンツから覗く白い脚が滑らかで、焚火でオレンジに染まった横顔が引くほどきれいだ。きっと脱毛サロンなんか行かないのだろうな。ボクはカミソリで剃った自分の脚の毛穴という毛穴が恥ずかしくなって、ビーチサンダルに入った砂を手で払った。

「俺さ、伶奈と五年も続いているんだ。例えはかなり変だけど、惑星みたいだって思ってる。遠くに行ったつもりでも、気がつくと楕円を描いてまた同じところへ還ってくる。なぜかわかる?」

黒髪は言った。
なぜ、という字はつる草が螺旋状に絡まる姿に似ている。
なぜふたりは一緒にいるの? なぜここにいるの? なぜフジツボみたいな人生でいいの? なぜ?
黙ってると彼は続けた。
「彼女、耳がよくないよね」
え? 首を傾げたボクに、しょっちゅう一緒にいるのになんで知らないんだよ。顔を近づけてきた。
「突発性かな。ときどき難聴みたくなるでしょ」
彼は相手にいっさい考えさせずに質問にだけ応えさせる妙な才能があるみたいだ。将来、警察にでもなればいいと思う。
「彼女はなにも言わないから、まわりも気づかない」

そうか。クリアに思い起こせないけれど、伶奈の反応が急に無になることがあった。あれははぐらかしているんじゃなくて、本当に聴こていなかったのかもしれない。
でもさ、と少し声を大きくして彼が言う。
「その代わり、物凄いデリケートな音が聴こえたりするよね。たとえば、波に流されるときの砂の音とか」

ボクは相手の表情を細かく読み取ることはもうあきらめた。火の粉が爆ぜるかすかな明かりを頼りに、彼がどんな気持ちで話しているのかを肩の傾きやわずかな息遣いの変化から感じ取ろうとした。
「で、聴こえないときがあっても、わかった? とか言っちゃダメだよ」
てっぺんには満月には三日足りない楕円の月が輝いていて、銀色の人工衛星がすーっと横切った。

「だからキミがちゃんと見守ってあげてよ」
ぐいぐい近づいてきたり、パッと遠ざかったり、彼の距離の取り方に戸惑う。うん、わかったよ、と応えながら掌の中でもて遊ばれているような気もした。悪いヤツじゃないんだろう。きれいな顔に細い髪の束がひとすじ落ちていた。
彼も彼女に夢中なんだろうか。ボクの知らないところで彼女の胸に顔を埋めたことだってあるかもしれない。妄想でしかないのに、ボクは嫉妬していた。

太陽系が銀河系の中を秒速二百キロメートル以上で移動している、なんて誰も実感しない。星は地球の裏側をゆっくりと移動し、また明日の夜ここへ戻ってくる。
ボクたちは止まっているつもりでも、猛烈な速度で未知の空間を切り裂いている。なにかに夢中になっている時間だけ、そのおそろしい移動速度から解放されるみたいだ。

花火が赤や緑へと色彩を変えるたびに伶奈の頬が変化する。その光景を見て、これから先もずっとこんなふうに生きていければいいのにと思った。
伶奈にとって都合のいいことだけが聴こえ、どうでもいいことなど耳に入れず、気ままに映画を撮って、カメラを抱いて呑気に生きていければいいのに。花火みたいにパッと踊って、人工衛星を見上げて、ぐっすり眠れることができたらどんなに素敵だろう。

それを隣で見ることができたらボクはどんなに幸せか。じゃあ、なんでそうしないんだよ。もうひとりの自分がせつない声で叫んでいた。

部屋に帰ると伶奈は電池が切れたように眠った。
ボクはベッドに近づき、寝息をたてて眠る伶奈の前髪を撫でてやった。耳にかけてもすぐに落ちてきてしまう。無邪気な寝顔を見ていると幸せで涙が出そうだった。

彼女はまだボクを恋人だと呼んだことはない。
ボクが生きている世界から飛び降りて、こっちの世界に来てと言ったこともない。ただ、フジツボみたいな曖昧な性と一緒にいてくれるだけだ。

〈人生がただのゲームだということを誰も覚えていないさ〉
真っ暗な部屋で、ひとり口ずさむ。

そう。ボクは、一晩中彼女を一人占めして眠った姿を愛でていたいだけなんだ。伶奈の耳になにが聴こえているのか隣で確かめ、彼女の粘膜から涙や体液が溢れるのを一瞬も逃さずにずっと見ていたい。
惑星が猛スピードで移動する夜も。
すべてが聴こえても聴こえなくても。これからもずっと。



                               (了)

シロクマ文芸部「波の音」



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