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ぼちぼちでいきましょう


シンと冷えた空気のなかに、
お日様のような声がひとつ、ぽんと灯りました。

そこは、小児外科の待合席。
息子の診察を待つ私の、少し離れたところで
ハリのある、元気な声が響いたのです。


「あら、〇〇さん、おはようございます」


声の主は、受付のクラークさんでした。
センターで分けた軽やかなショートボブに、
目尻の深い笑い皺。
いつも気さくなその方は、声をかけつつ、
長椅子に座っていたひとりのお母さんと
ベビーカーの前に、
スッとしゃがみ込みました。


「調子はどうですか」
クラークさんの問いかけに
お母さんは、はじめ「おかげさまで……」と
つとめて何気ない口調で
言葉を返していらっしゃいました。


ベビーカーの小さなお子さんは、
2歳くらいでしょうか。
鼻に、細い管をつけ、
その瞳は、どこか遠くのそら
うつろに見つめています。

クラークさんは、そんなお子さんの様子にも
やさしく目を細めながら、
お母さんの言葉に、うん、うん、と
深く頷いていらっしゃいました。

けれど、会話を重ねるうちに、
お母さんの声は、ぽつり、ぽつりと
間遠になり、か弱くなっていきました。
最後は吐き出す息のようになって、
言葉が途切れます。
やがて小さな沈黙が流れました。

見ると、お母さんは、すっと肩を丸めて
あふれるものを
手で拭っていらっしゃるのです。

「この子も頑張ってくれているんだと
頭では分かっているんです……。
でも私は……
もう、なんだか、疲れてしまって……」

それは、限界まで涙を吸い込んで
重たくなっていた心が
やさしい声に触れて
とうとう堪えきれずに
溢れだしてしまったかのような姿でした。

クラークさんは、お母さんの二の腕あたりに
そっと手を当てて、
自分の娘をなぐさめるように
ゆっくりとさすりました。

「この子も頑張ってる。
けれど、お母さん。あなたも十分頑張ってるよ。
大丈夫。そんなに自分を責めなさんな。
ぼちぃぼち。ぼちぃぼち。
お母さんが笑っていることが、いちばんだもの。」


ベビーカーのお子さんは、
そんな大人の葛藤を知る由もなく、
なにかまた遠くのほうを見ては
あどけない笑顔を見せています。


「ぼちぃぼち、ぼちぃぼち。」
クラークさんは、その言葉を
お母さんの、
心の深いところに送り込むかのように
何度も、何度も
繰り返していらっしゃいました。


とん、とん、とん、とん…
ゆっくりとした手のひらのリズム。

親になってからというもの、
子どもを「あやす側」ばかりになっていた
お母さんが、
この瞬間だけは
「あやされる側」に戻らせてもらえた。
そんなふうに見えました。

クラークさんの手のひらの温もりが触れるたび、
お母さんの、
爪の先まで硬くこわばっていた力が
じんわりと抜けていくようでした。

親子はやがて
診察室に呼ばれていきました。


待合席には、また元の静けさが戻っています。

いまごろ、あのお母さんのこころの荷物は、
少しだけ軽くなっているでしょうか。
せめて今夜、あたたかいお茶を一口でも
ゆっくりと味わう時間がありますように。
窓外の雨空を見つめながら、
胸のなかでそっと願いました。


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