猿払電話中継所跡@猿払村 2016年8月
明日、終戦の日を迎えます。第二次世界大戦において北海道は主要な戦場にはなりませんでしたが、戦争の悲劇を伝える遺構などは道内各地に多く残されています。
その一つである猿払電話中継所跡を2016年8月に訪れた時の様子です。他社旧ブログには2018年8月15日に投稿した記事の再掲です。
TITLE: 猿払電話中継所跡@猿払村 2016年8月
DATE: 2018年08月15日
今日迎えた73回目の終戦記念日。戦時中は空襲や艦砲射撃により北海道でも甚大な被害を受けました。アメリカ軍の上陸が想定された道内の太平洋沿岸地域では多くのトーチカが建設されましたが、最終的に沖縄のような地上戦を経験することはありませんでした。
アメリカ軍との地上戦は回避された北海道ですが、日本の無条件降伏直前に日ソ中立条約を破棄して宣戦布告してきたソ連軍による南樺太・千島列島への侵攻は、8月15日の降伏以降にも多くの悲劇を生むことになりました。
稚内にほど近い道北地方の猿払(さるふつ)村の海岸にある猿払電話中継所跡は、南樺太における悲劇の記憶をひっそりと今に伝えています。

2016年8月上旬、夏季休暇中に道北を旅した時のこと。浜猿払の海岸に立ち寄った時にたまたま通りかかった電話中継所跡。背後に見えている堤防は浜猿払港。ここから宗谷岬まで40kmもない、まさに国内最北の地域です。
この地にはかつて電話中継所が設置され、樺太まで電話回線用の海底ケーブルが布設されていました。
建設された1934年(昭和9年)から約30年の間、さらに札幌を経由して東京まで結ばれていましたが、戦後は樺太との回線が不要になったこと、国内ではマイクロ波による無線回線が普及したことで1964年(昭和39年)にその役割を終えました。
1975年(昭和50年)頃の航空写真はやや不鮮明ですが、この場所にまだ建物が残されているように見えます。


1945年8月20日、ソ連軍が上陸した真岡(現在のホルムスク)にて電信電話の通信業務に就いていた女性電話交換手9名が集団自決しました。
自決前の女性電話交換手の最後の声を日本に届けたのがこの樺太からの海底ケーブルでした。集団自決した女性達を含めて19名の局員が犠牲となったこの悲劇は真岡郵便電信局事件と呼ばれています。
事件は激しい戦闘の混乱の最中に起こった出来事であり、いくつかの証言が錯綜し真相が不明な部分もあるようです。真岡郵便電信局事件を解説するサイトは多数ありますので興味を持たれた方はぜひ読んでみて下さい。

海底ケーブルで結ばれていた浜猿払とプリゴロドノエの距離は約160km近く、さらにホルムスクまでは約80kmあります。宗谷海峡で隔てられた遠い地から届いた女性の最後の言葉を聞いた猿払電話中継所の職員は何を思ったのでしょうか。


海底ケーブルと聞くと大陸間を結ぶ光ケーブルのような近代的な通信技術を想像してしまうのですが、その歴史は思っていたよりも古く、1850年にイギリスとフランスを隔てる直線距離34kmのドーバー海峡に敷設されたものが最初の海底ケーブルです。
このケーブルは新種の藻類と勘違いした漁師により切断されるというちょっと変わった終わり方をしています。その16年後の1866年にはイギリスとアメリカ大陸を結ぶ大西洋を横断する海底ケーブルも布設されています。

合計5本のケーブルが布設されていたようです。最も古いのは猿払電話中継所が運用を開始した1934年(昭和9年)のものです。長さを海里で表記していますが、1海里は1.852kmなので最も長いものは105.895海里=約196kmもありました。

跡地に残された古いマンホール。蓋にあるマークはNTTの前身である旧・電電公社のものです。

旧・電電公社のマークのある標石。海底ケーブルはこの下に埋設されていました。電電公社(日本電信電話公社)が設立されたのは1952年(昭和27年)のことです。猿払電話中継所が閉鎖される1964年(昭和39年)までは電電公社が管理していたようです。樺太までの海底ケーブルはその後どうなったのか不明ですが、全てを撤去するのは困難と思うのでそのまま海底に眠っているのかもしれません。

かすれていて読みにくいですが、「このマンホールの中に収められている海底ケーブルが海側の標石の下を通って樺太(サハリン)にのびていた」と書かれています。


猿払村はホタテの漁獲量が日本一であり、住民平均所得が全国自治体の上位に入るのもホタテ漁によるものです。
近年の実績では、2017年と2015年は第3位、2016年は第4位となっています。
(猿払村 2016年8月)
