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校歌・応援歌指導という「暴力」

一部の公立高校(特に旧藩校・旧制中学校からの伝統を持つ高校)では、毎年4月に校歌・応援歌指導が行われる。これは、学校全体の一体感や帰属意識を育む「通過儀礼」とされ、事前説明や同意なしに、上級生が新入生たちに大声や罵声を浴びせながら、無理やり校歌や応援歌を絶叫させるという手法が取られる。

私自身、福岡の旧制中学校の伝統を持つ公立高校出身で、入学してすぐに行われた校歌指導の怒気に怖れをなして初日からひとりで校外に逃走した。5日間続いた校歌指導に私は一度も参加せず、学校生活への影響を案じたが、幸い咎められることは一度もなく、直接的な不利益もなかった。私はあんなものは人生に必要はなかったし、心細い気持ちでひとり逃げ出したあの時の自分をほめてやりたい気持ちさえある(当時誰もほめてくれなかったから)。

それにしても、これだけ多様性が尊重される時代に、いまだにこうした「伝統」が継承されていることには驚きを禁じ得ない(「伝統」とは言っても、実際には古い慣習を無批判に引き継いでいるに過ぎないが)。上級生による罵声や恫喝(どうかつ)といった暴力的行為が公然と容認されているだけでなく、それが事前説明なく新入生全員が「巻き込まれる」形で行われる事実上の強制参加であることに恐怖を覚える。私は校歌指導をきっかけに学校に行けなくなった生徒や、長期の心身不調に陥った生徒をこの目で見てきたので、今年も該当校に入学する生真面目な生徒には「無理に適応しようとしないでいい」と強く念押しした。

恐怖を「乗り越える」ことで学校の一員と認められる「通過儀礼」は、空疎なだけでなく、権威主義的支配に屈服する経験を与える点で極めて有害である。また、このような苦行に「耐えること」の有意義性をキャリア形成の観点から語る人もいるが、人生の手段であるキャリアを目的化するのは自己疎外を招き、それが人間の不幸なのである。だからこそ、そうならないための自由の思想を授けることが教育の役目ではないだろうか。

先日、校歌指導の後に激しく泣いていたSさんに、心配した担任の先生は「あなたみたいに優しい子には辛いわよね」と慰めたそうだ。だが、Sさんが泣いていたのはSさんが「優しい」からでは決してない。まさにここには現代の学校教育の課題が凝縮されている。

(西日本新聞 2025年5月6日)

*以下はもう18年も前のものだが、福岡の代表的な伝統校である修猷館高校の大運動会において、学生たちが館歌を歌う動画。校歌/館歌指導の成果が存分に発揮されていて、個人的には極めて胸糞が悪くなる。(トラウマがある方は見ない方がいいです。)


現在連載中の「学校後遺症」(大和書房WEB)に、この後日談を書いたので、その箇所を以下に掲載する。

私は昨年、西日本新聞の連載記事で、一部の公立高校(旧藩校・旧制中学校の伝統を引く高校に顕著)に残る校歌・応援歌指導を取り上げた(注10)。この指導は、学校全体の一体感や帰属意識を育む通過儀礼と説明されるが、実際には事前の説明や同意がないまま、上級生が新入生に大声や罵声を浴びせ、校歌や応援歌を絶叫させる手法が取られることが多い。恫喝や威圧が公然と容認され、新入生全員を逃げ場のない形で巻き込む事実上の強制参加が前提化される。

私は、校歌指導を契機に登校困難に陥った生徒や、長期の心身不調に至った生徒を複数見てきた。問題は決して個々の生徒の弱さではない。恐怖や羞恥といった身体反応が「乗り越えるべきもの」として処理される構造そのものである。恐怖に耐え、それを「克服」することで承認される通過儀礼は空疎であるばかりか、権威主義的支配に屈服する経験を内面化させる点で有害である。

記事の読者からは賛否両論が寄せられたが、その批判のなかには、こうした苦行に耐えることの有意義性を、将来のキャリア形成と結びつけて語る声もあった。私からすれば、苦行に耐えることで形成されるキャリアなど、初めから願い下げである。そもそもキャリアとは、人生の意味や方向性と複雑に絡み合う、開かれた概念のはずであり、単線的に意味づけられるべきものではない。にもかかわらず、「将来のため」という語りが自己目的化すると、現在の痛みや違和感は、いずれ克服されるべき障害へと還元されてしまう。

ここで起きているのは自己疎外である。すなわち、いま、ここで感じ取られている身体的・感情的な現実が、抽象的な未来像の名のもとに切り捨てられていくのである。しかし、教育の役割が、自己疎外を正当化する物語を与えることではなく、それに抗する自由の思想、つまり自分独特の生を歩んでいく面白さと勇敢さとを子どもたちに手渡すことでなければ、他に何があるというのだろうか。

高校に入学してすぐに、校歌指導を理由に一時的に登校困難になった男子生徒がいた。ところが高2になって彼に話を聞くと、「大したことじゃなかった。いまは楽しくやっているし、学校を批判的に考えたくない」と答えた。私は彼が自らを立て直した力に敬意を抱きつつも、同時にこれこそが「学校後遺症」として残る一つのかたちなのではないかとも感じた。人は生き延びるために傷を否認する。傷は日常を維持するうえでノイズとなるため、意識の前景から押しやり、聞こえないものにする必要が生じるのだ。

制度に適応できた者ほど制度批判を自分の努力や犠牲の否定と感じ、抵抗を抱きやすい。耐えてきた経験を無意味にしたくない心理が働くからだ。その感情は、ときに他者にも同じ抑圧を引き受けさせようとする衝動へ転じ、その復讐心によって支配は連鎖する。

学校後遺症 第4回 大和書房WEB

身体が沈黙する学校——ジェンダーの再生産と男性性、ケアの問題 |鳥羽和久 


他の高校生たちにもいろいろと話を聞いたが、そもそも校歌指導に対してネガティブな感情を抱いていない生徒もいるし、むしろ体育大会などで校歌・館歌を大声で歌ったことが、高校生活の思い出のハイライトの一つになっている生徒もいる(驚いた)。そうした声に触れるたびに、私はこの問題について、悪習をぶっつぶさなければならないという思いを抱きながらも、同時にもう少し複雑な感情を抱かざるをえない。

また、この問題に対して「そんなに目くじらを立てるようなことではない」と考える人が多いという現実も、やはり重く感じている。私をはじめとする一部の人たちにとっては切実な問題であるにもかかわらず、それが容易に相対化されてしまうのだ。

まあ、そういう「そんなに目くじらを立てるようなことではない」と考える人たちこそが、いわゆる世間というものを形づくっているのだ考えると、その力は思った以上に大きいのは当然のことで、それでもなお、このような暴力はおかしいということを、はっきりと声に出す人は絶対に必要だと思う。

では、現実的にどのような抵抗が可能なのか。単純に外から否定するだけでは届かないし、かといって沈黙すれば何も変わらない。だからこそ、メディアの方たちとも協力しながら、まずは現役の生徒たちの声を聞き取ることから始めるしかないのだと思う。

もっとも、一部の学校ではこれらの問題について、かん口令が敷かれているような状況もあるという。どこの独裁国家かと言いたくなるような実態がそこにある(こういうことを言うと「何を大げさに」と反発されるが、決して大げさではない)。

だからこそ、うちの教室のように、学校の外で学生がたくさん集う場所だからこそできること、考えることができることを、学生たちと真剣に考えていきたい。

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