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「木漏れ日」を英訳したら sunlight filtering through the leaves

以前、「新聞に掲載されたエッセイが、AIに書かせたと思われた件」というエッセイで、地元紙に掲載された文章の中で、「AI」という言葉に「(人工知能)」という注釈が付いていたことに触れた。

「AI」という言葉自体、すでに日本語として定着しているのに、あえて「人工知能」という、堅苦しい和訳を当てることで、かえって冷たく、SF的な印象を与えてしまっているのではないかと感じた。

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その後、逆のパターンについても、考えるようになった。

日本語では、たった一つの言葉で表現できるのに、英語に訳そうとすると、複数の単語からなる、長いイディオムになってしまう言葉が、実はたくさんある。

例えば、「木漏れ日」。
英訳すると、「sunlight filtering through the leaves」となる。
「木の葉のすき間から漏れてくる太陽の光」という、説明的な、長い表現になってしまうのだ。

日本語の「木漏れ日」という、たった4文字の言葉には、あの、木々の間から零れ落ちる光の粒の、儚さや、美しさが、すでに凝縮されている。
でも英語では、その情景を、いちいち説明しなければ、伝えることができない。

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「もったいない」や「積読」も、同じような構造を持つ言葉だ。
日本語の一語には、その文化の中で育まれてきた、独特の感性や、価値観が、ぎゅっと凝縮されている。

逆に、「AI」のように、英語では一語で済むのに、日本語に訳すと、「人工知能」という、やや硬い言葉になってしまうものもある。

「ニュアンス」という言葉も、和訳しようとすると、「言葉に含まれる、微妙な意味合い」というような、説明的な表現になり、あのカタカナ語が持つ、柔らかな響きが、失われてしまう。

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言葉は、単なる記号ではなく、その言語を使う人々の、感性や、文化そのものも内包している。

一語で表現できるか、それとも複数の言葉を重ねなければ伝えられないか。
その違いの中に、それぞれの文化が、何を大切にしてきたのか、その手がかりが、静かに眠っているのかもしれない。

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