ずい・ずい・ずころっばし
ツクツクボウシ
ツクツクボウシ
ツクツクボウシ
・・・・・・
ツクツクボウシが鳴きだすと、夏の終わりがきたことを実感する。それと呼応するかのように、ツクツクボウシには鳴き方に終わりがある。
「ツクツクボウシ」と鳴く間隔が狭くなって、最後に…
ツクツクヒーヨー
ツクツクヒーヨー
ツクツクヒーヨー
だいたい3回鳴いて、ジジジ…と突然終わる。
終わりを歌う蝉が出ると、夏の終わりが来る。自然はなんとも不思議なものだ。
そうした自然に「ラ」という神を感じた人々がいた。
夏がやってくると、私は、半村良の「太陽の世界」が無性に読みたくなってくる。
・・・遠い昔、ムーと呼ばれる大陸があった。ムーは海中に没した・・・
半村良は古代から伝わる木簡の記録をもとにこの小説を書いたようだ。ムー大陸の終わりまで書こうとしたのだろうが、未完のまま終わっている。それでも全18巻ある。若いころ夢中になって読んで、今でも夏になると読み返す。
その小説の中でムーの言葉と日本語のみならず世界中の言葉が異常にマッチしていて面白い。
空=ソラ 原=ハラ 宝=タカラ
「ラ」は自然にある神のことだ。
空に神を感じて、ソ「ラ」といい、野原に神を感じてハ「ラ」といい、貴いモノに神を感じてタカ「ラ」と言った。
また、「ハレ」の日とは、ラ・ムーに到着したことを祝う年に一度の大切な祝日のことだった。その日は、新年の始まりであり、成人式なども兼ねていた。
ほかにもいろいろと面白い符号があるのだが、私が特に面白いと思ったのは、
「スイ・スイ・クルバシ」
(吉兆・吉兆・吉兆極まれり)
という吉兆を喜ぶ、叫び方である。本当にうれしいときに、みんなで唱和したらしい。
この言葉、昔の童謡
「ずい・ずい・ずっころばし」
を連想させる。
童謡というのは、実に不思議でどこかから降りてくるんじゃないと、思うことがある。
日本人にムー大陸のアーキタイプ(集合的無意識の元型)があり、それが童謡となって現れたのかもしれない。そんなふうに感じるのだ。
この童謡は、ネズミを歌った歌で、以下全文はこんな感じだ。
ずいずいずっころばし
ごまみそずい
茶壺に追われて
とっぴんしゃん
抜けたら、どんどこしょ
俵のねずみが米食ってちゅう、
ちゅうちゅうちゅう
おっとさんがよんでも、
おっかさんがよんでも、
行きっこなしよ
井戸のまわりで、
お茶碗欠いたのだぁれ
歌詞自体は、一見意味不明なのだが、リズムがとても小気味よく、なんとなく愉快な歌なのだ。私は、この歌がネズミを歌っていることと、出だしの「ずい・ずい・ずっころばし」がムー大陸の言葉で「スイ・スイ・クルバシ」という吉兆を喜ぶ、叫び方と一致している点で昔から妙に気になっていた。
半村良は、未完の「太陽の世界」をどのように書き終えるつもりだったか不明だが、そこには必ず、デギルとのかかわりがあるはずだ。
デギルとは、英語でいうデビルの語源とされ、文字通り「悪魔」を表す。ムー大陸の歴史の本格的な始まりは、イムドワコ(聖なる双子:イハムとサハム)とデギルの戦いから始まると言っても過言ではない。
ムー大陸の歴史は、単純化すると、神と悪魔の織り成すタペストリーのようなものだ。
イムドワコ(聖なる双子)の片方である天を司るイハムが霊化して、死を乗り越えて神のような存在になり、もう片方の地を司るサハムが王の系譜を作っていく。しかし、サハムと愛人との間にもうけた次男が不幸にもデギルとなり、悪霊化して、これもある意味では死を乗り越えて、悪魔のような存在となっていく。
この神と悪魔、二つの霊力が対峙しながら、歴史を刻んでいく。
だから、ムー大陸の最後に、力を及ぼすのは、ラ・ムーを滅ぼそうとした悪魔デギルの影響が強く出た結果にほかならないだろう。ムー大陸の終わりに必ず、デギルの影響が色濃くでたと思われる。
そこで、この「ずいずいずっころばし」の歌だが、ネズミが現れる。
ここがポイントで、ネズミは、ムー大陸では、デギルの眷属とされていた。
実際にそういう記録が残っている。
少し長いが「太陽の世界」の本文から引用させてもらうと------------
この時代に関するひとつの挿話を記しておこう。遠い過去の国ラ・ムーの記録は、こうした挿話のおびただしい集積であり、歴史の破片とも言えるものである。筆者はそれを取捨選択し、過去の世界の再構築の素材にしているが、朽ちた木の、今まさに泥に化さんとする破片のひとつが学者の研究室に持ち込まれたとして、学者はその木の種類や、命さかんだった頃の年代を割り出すことは可能かも知れない。しかし、その木の枝々が見た風景や、梢が仰いだ空の色、葉を揺らせた風の匂いや、翼を休めて囀った鳥たちの声までを、その破片から読みとることは不可能である。これから記す挿話の一つは、その木片に似た標本の一つにほかならない。筆者はこの挿話を本編の構成から捨ててしまうつもりでいるが、ごくありふれた標本の例として、読者に示しておく。
(整理番号) 3761-002227-31006
最初の王の頃、サグロの角にピツマがいた。ピツマは男で両親は平民であった。ピツマはチャンギンの言葉を聞いて一年の半分を倉庫の中で過ごし、鼠を追いかけた。鼠は石の床さえ走り、貴重なものを荒らした。そこでピツマは箒で鼠を集め、怒りをこめて睨んだ。すると鼠が死んだ。そこでピツマは箒を捨て、いつも鼠を睨んだ。鼠はいつも死んで、倉庫を汚した。ピツマは上司になぜ倉庫を汚すのかと問われ、それに答えた。すると上司は、鼠を殺さずに倉庫から追い出せと言った。ピツマは倉庫の一番奥へ入って、怒りで倉庫を満たした。すると鼠はみな倉庫から逃げ出し、倉庫の扉は閉じられた。だが、次に倉庫の扉があけられたとき、デギルの鼠が牛ほどにも体を肥らせて現われ、人々は戦ってデギルの鼠を殺した。この日から鼠はデギルの手下だったことが知られ、許しなく殺される者になり、ピツマは貴族になった。
以上
-------------------------「太陽の世界」12巻 霊界の支配者 第一章 より
ラ・ムーの世界には、普通に超能力者がおり、それがのちに貴族と呼ばれるようになった。イムドワコ(聖なる双子)のイハムとサハム、そして、デギルも並外れた超能力者だった。
半村良は、このエピソードは物語の本流にはならないと紹介しているが、私はこの部分こそが何故か記憶に残って消えなかった。
とにかく、「俵のネズミ」はデギルの使いだった。
日本で「俵のネズミ」といえば何を思い浮かべるだろう?
私は、あの方が浮かんでくる。
俵のネズミの上に乗って、打ち出の小槌を持ったお方!
そう、大黒天さんである。
日本で大黒天といえば、福の神だが、もともとインドでの大黒天は、忿怒の神であり、人を喰らう悪魔のような神である。日本では、福の神だが、インドでは、マーハー・カーラ(大いなる暗黒)と呼ばれ、破壊神とされている。
そして、日本においては、大黒と大国と音が同じことから大国主と同一視されることが多い。
これ単なる語呂合わせかと思いきや、なかなか説得力のある暗号を見つけてしまった。
今、この大黒天は、仏法と仏教徒を守るきわめて重要な「護法善神(ごほうぜんしん)」となっている。
仏教と大黒天にはどんな関係があるのだろうか。
仏陀を貶めようとした「ナムヂ」という悪魔がいた。ナムヂは7年間も付きまとったが、仏陀には貶める欠点が全くなく、最後は意気消沈して、消え去る。
この悪魔の名前が「ナムヂ」、大国主命の名「ナムジ」とほぼ一致しているのだ。
つまり、この悪魔こそ、大黒天であり、のちの大国主命だ……まぁ、私の妄想だが、おつきあい願いたい。
悪魔ナムヂは、完全に仏陀に敗北した。そして、消え去った。
でも、その後、どこかで仏陀に完全に帰依して、日本の大黒天になったのではないだろいうか・・・改心した悪魔が日本の大黒天ということだ。そして、悪魔ナムヂは、ムー大陸ではデギルと名のっていたとしたら・・・
先ほども述べたように悪魔デギルの眷属はネズミであった。仏陀に、完敗して、後に帰依した悪魔は、マハーカーラ=大黒天(ナムヂ)であり、日本に大国主命(ナムジ)として転生した後、護法善神となり、仏教の守護神となったとしたら・・・
日本の大黒天は、俵の上に立って、打ち出の小槌をもっている。多くの場合、その俵には小さなネズミが何匹がついている。
この大黒天はナムヂであり、日本に人間として転生して「ナムジ」=大国主命となる。
そしてまず、悪業のカルマの報いを受けることになる。
兄弟たちにいじめられ、何回か殺されかける。
そればかりでなく、最後は国を奪われるーーー国譲りの神話。
まさに、ムー大陸のデギルの悪業の報いとも言える。
また、ネズミとの縁も深い。
試練の中で、火に囲まれた大国主命(ナムジ)を救ったのもネズミだった。
また、大黒天は、けっして僧侶が食事にこまることのないようにとり計らう天神である。ムー大陸の時代に、人々の米を盗んだ罪業の消滅ともとれる。
実は、悪魔デギルの使いにもう1人メインキャラクターがいた。
「ずいずっころばし」は二重メタファーになっている。
ネズミという動物のメタファーがデギルの存在を暗示し、一見意味不明なの歌詞の内容が、ムー大陸の伝説となった悪魔デギルの使徒、トマの人生を表しているように感じる。
「ずいずいずっころばし」の歌にトマという言葉は出てこないが、暗示として、「茶壷」が出てくる。
トマは、イムドワコ(聖なる双子)の片方、地を司るサハムの長男ヨハムと次男デギルとの戦いで国が荒らされたムートの出身で、火山の噴火で住む土地を追われ、さまよっていた私生児だった。
そして、ラ・ムーにたどり着くと、「壺」(ポト)を作る陶芸家の夫婦の養子となる。トマはもともと頭がよく、天才的能力を発揮して、その陶芸家夫婦の作品を、芸術品のレベルにまで高めていく。
「茶壷(の方向に)に追われて、ドッピンシャン(落ち着く、養子になる)」
国を追われ、壺を作っている夫婦の子の養子となり、その才能がしっかりドンピシャで開花する。
トマの発想で作られた壺が、周りの壺を抜きんでて、芸術品と認められて、大出世をしていく。その後、超能力にも目覚め、ラ・ムーの超能力を持った僧侶しか入れない聖域にも許可を認められる。
つまり、「抜けたら(出世しだしたら)ドンドコショ(とことんまで進む)。」
「俵のネズミが米食ってチュー
チュー チュー チュー」
食事の配給係のラ・ムーの貴族に腰巾着のようについて回って、周りの人達に、いろいろと口利きして出世したのがトマだった。
トマは、私生児であるから、お父さんもお母さんの名も知らない。実の父母は、ちゃんと名前をよんで、愛してくれなかったことになる。あるいは、陶芸家の養父母には本当の姿を見せなかったともとれる。
「おっとさんがよんでも、
おっかさんがよんでも、
行きっこなしよ」
陶芸家の養子としての前半生は、特に問題のないトマであったが、ある時、黒いツバの籠を見た瞬間に、デギルの霊に目覚め、今まで、貴族にしか使えなかった超能力が自分にもあることに気づく、それからは服装も黒っぽくして、闇夜に紛れて、夜な夜な隠れながらに超能力を使って悪事を遂行するようになる。
最後には、暗黒世界の悪の王のような立場になる。かつてのデギルと同じように、地下の暗黒洞窟に、淫乱な自分の王国を築く。
闇の王国の主としての絶頂期に、ラ・ムーの王家に、再び双子の赤ちゃんが産まれ、イムドワコ(聖なる双子)の再来の危機を悟ったトマは、手下を使って、超能力で片方の赤ちゃんを誘拐する。
それを奪還するために、立ち上がったラ・ムーの僧侶と貴族(ともに超能力者)集団と、トマは対決することなる。
結局は、多勢に無勢で、洞穴の入り口で、ラ・ムーの僧侶と貴族の連合と壮絶な超能力勝負に敗れ、討ち死にする。
「井戸のまわりで
お茶碗欠いてのだ~れ」
「井戸」は、洞穴、洞窟のメタファーであり、デギルの使途トマの王国は地下の洞窟にあり、壮絶なエリート僧侶たちとの念力合戦は、洞窟の入り口、つまり、洞穴=「井戸のまわり」で行われた。
「お茶碗を欠く」は敗北を表しているのだろう。しかし、その時に王家の跡取りの双子のうちの一人の赤ちゃんを闇に紛れて行方不明にさせている。その後、その王子は不幸な最後を遂げる。王家の器(茶碗)を欠いたことも表している。
最後の「だ~れ」とは、ラ・ムーを滅ぼそうとして、後に日本に転生して、改心した人物は「だ~れ?」と聞いているように思える。
「井戸」は、覗けば、真っ暗である。暗黒=マハーカーラ=大黒天とつながる。
また、「ずいずっころばし」には、カゴメの歌のように遊び方もあった。
それは、オニを決める選び方だった。
全員が円になって、片方の手を、軽くグーにして、真ん中に穴を開けておく、みんなで歌いながら、オヤとなる子が順番に、その手の穴に、人差し指を入れていく。歌い終わりに、人差し指が入った子が、オニになる。
これも示唆的である。なぜなら、デギルは「オニ」のような存在であるし、地下の洞窟に王国を持ち、有尾人(バルバル)を使って、地上につながるいくつかの穴を使って、神出鬼没の行動で、ラ・ムーの僧侶(超能力者)と戦ったからだ。
穴から出て来るデギルの様子と、オニを確定するところが面白いほど暗示的だ。
ここで大事なことは、「ずいずいずっころばし」自体が軽快な歌であり、「スイスイスイクルバシ」と同じ、吉兆この上ない、という意味だということだ。
これは、昔デギルであった今の日本の大黒天は、吉兆この上ない、という意味の歌になる。
童謡のカゴメの歌の「だ~れ?」が「饒速日」を暗示していると過去の記事(後ろの正面)に書いたが、「ずいずいずっころばし」の「だ~れ?」は改心した悪魔「オオナムジ」大国主を暗示しているのかもしれない。
それが吉兆極まれり!というのだから、日本の大黒天=大国主命は、地球人類のアセンションのキーパーソンなのかもしれない。

