上智大学とICUは成功し、なぜ獨協大学は「凋落」したのか?――「語学の名門」がMARCH級ブランドを維持するために、1990年にできたこと ※業務終了後の投稿
※本記事は、獨協大学を一方的に批判するものではない。むしろ、応援の気持ちを込めて、「今からでも改革しないといけない」という気持ちで執筆した。
大学のブランドは、意外なほど動く。
現在の受験市場では、
早慶
上智・ICU
MARCH
成成明学獨國武
日東駒専
といった大学群のイメージがかなり定着している。
しかし、この序列が昔から固定されていたわけではない。
特に興味深いのが、獨協大学である。
現在の獨協大学は、河合塾のボーダー偏差値を見ると、おおむね40台後半から50台前半が中心である。
MARCHとは明確な差がある。
ところが1980年代から1990年代にかけて、獨協大学、特に外国語学部は今とはかなり違う位置にいた。
過去の偏差値資料は予備校・模試母集団・算出方法が現在と異なるため、数字を単純比較することはできない。
それでも複数の資料を見ると、
獨協大学外国語学部は、MARCHの文系・国際系学部と十分に競合する大学だった
と考えてよい。
1980年代後半には60台前半。
1990年代前半にも、青山学院大学国際政治経済学部などと比較される水準にあった。
では、なぜ現在はこれほど差が開いたのだろうか。
もちろん、
「獨協大学の教育の質が落ちた」
という単純な話ではない。
ここで考えたいのは、
受験市場における相対的ポジションが、なぜ低下したのか
という問題である。
そして歴史のIFとして、
1980年代から1990年代初頭に、獨協大学は何をしていれば、MARCH級のブランドをより長く維持できたのか。
この問いを考えてみたい。
調べていくと、これは単なる偏差値の話ではない。
企業が、過去の強みを次の強みにどう変換するか
という、経営戦略そのものの問題に見えてくる。
獨協大学は、もともと非常に強い歴史資産を持っていた
獨協の源流は、1883年に設立された獨逸学協会学校にある。
当時の日本では、ドイツの影響力が非常に大きかった。
医学。
法律。
哲学。
行政。
科学。
近代国家を作ろうとしていた明治日本にとって、ドイツは重要なモデルの一つだった。
したがって、
ドイツ語ができること自体に、高い希少価値があった。
1964年、獨協大学は埼玉県草加市に開学する。
当初は、
外国語学部
経済学部
を置き、その後、
経営学
法学
フランス語
などへ拡大した。
つまり早い段階から、
外国語+経済・経営+法律
というかなり面白い組み合わせを持っていた。
さらに情報教育への取り組みも早かった。
後に情報センターを整備し、1989年にはBITNETへ参加し、1994年にはTCP/IP接続へ進んでいる。
つまり獨協は、
語学だけの大学
ではなかった。
語学
経営
法律
情報
という、後から見ると非常に有望な素材をすでに持っていた。
問題は「ドイツ語を守ったこと」ではない
獨協について、
「ドイツ語にこだわったから時代遅れになった」
と説明するのは簡単だ。
しかし私は、少し違うと思う。
問題は、
ドイツ語という強い資産を捨てなかったことではなく、それをより大きな市場概念へ変換する速度が遅かったこと
ではないだろうか。
企業でいえば、
優れたコア技術は持っていた。
しかし、それを次世代製品へ展開できなかった。
という状態に近い。
獨協にとって、1980年代末から1990年代はまさに転換点だった。
1989年。
ベルリンの壁崩壊。
1990年。
ドイツ再統一。
1992年。
マーストリヒト条約。
1993年。
EU発足。
ここで、
German Studies
から、
European Studies
へブランドを広げる余地があった。
ただし、
「何でもヨーロッパ」
ではブランドがぼやける。
だから、
ドイツを核として、欧州政治・欧州経済・EU法・欧州企業研究へ広げる
という形がよかったと思う。
つまり、
「ドイツ語の名門」
から、
「ドイツを起点に欧州を理解する大学」
への進化である。
上智大学は「外国語を商品からインフラへ変えた」
ここで上智大学を見ると、違いが分かる。
上智も外国語教育が強い。
しかし、外国語そのものを最終商品にはしなかった。
1980年には法学部に国際関係法学科を設置。
1987年には、英語で専門分野を学ぶ比較文化学部を設置した。
つまり、
英語を学ぶ
から、
英語を使って法律・政治・文化・社会を学ぶ
へ移った。
これを一言でいえば、
外国語を「商品」から「インフラ」へ変えた
のである。
これは大学ブランドとして非常に強い。
なぜなら、
「英語ができます」
という能力は社会に普及すると希少価値が低下する。
しかし、
「英語を使って国際法を学ぶ」
「英語を使って経済を学ぶ」
なら、
外国語+専門性
という新しい価値になるからだ。
ICUはさらに別の道を取った
ICUも、単なる英語の大学ではない。
日英バイリンガル環境。
少人数教育。
リベラルアーツ。
文理横断。
海外志向。
つまり、
教育モデルそのものがブランド
になっている。
整理すると、
上智
Global Comprehensive University
ICU
Liberal Arts University
である。
獨協には、
European International University
という独自ポジションがあり得た。
ただし、ここには注意が必要である。
「欧州特化」は就職市場を狭める危険もあった
1990年代、日本企業の国際化の中心は英語圏であり、米国だった。
商社。
金融。
コンサルティング。
IT。
外資系企業。
こうした世界では英語が共通言語である。
だから、
「ドイツ企業に強い大学」
まで狭くすると、市場は小さい。
そこで欧州は、
就職先の限定
ではなく、
知的ブランドの源泉
として使うべきだったと思う。
学生は、
EU統合
国際政治
国際経済
比較法
社会的市場経済
環境政策
欧州製造業
などを学ぶ。
就職先は、
商社
メーカー
金融
IT
コンサル
外資
まで広く取る。
つまり、
European Studiesを学ぶことと、European Companiesだけへ就職することは違う。
この設計なら、獨協独自のブランドと就職市場の広さを両立できる。
実は1980年代に、すでに「危険信号」は見えていた
ここが重要である。
現在から、
「1990年に国際化すればよかった」
と言うだけなら、後知恵である。
しかし競合大学の動きを見ると、そうとも言い切れない。
1980年。
上智が国際関係法学科を設置。
1982年。
青山学院大学が国際政治経済学部を設置。
1987年。
上智が比較文化学部を設置。
つまり1980年代にはすでに、
「外国語だけではなく、外国語+国際政治・国際経済・専門教育」
という方向が競合大学から明確に出ていた。
そして獨協自身も1989年には大学イメージ調査を行い、1990年には将来構想に関する基本計画をまとめている。
つまり、
獨協経営陣が将来を考えるタイミングと、競合の国際化が進むタイミングは重なっていた。
これは大きい。
獨協が未来を予言できなかったのではない。
Weak Signalはすでに目の前に存在していた。
もう一つ重要だったのが「情報」と「経営科学」
現在から振り返ると、
「情報学部を作ればよかった」
と言いたくなる。
しかし1985年の大学経営者に、
「将来はAIとデータサイエンスだから情報科学部を作りなさい」
と言うのは後知恵である。
当時は、
情報
国際
環境
福祉
など、さまざまな成長分野が見えていた。
どれが30年後まで伸びるかは分からない。
だから、
情報学部を作らなかったこと自体を失策と断定するのはフェアではない。
しかし、
経営+数理+情報
なら話は違う。
東京理科大学は1993年に「数理で経営を学ぶ」道を取った
東京理科大学は1993年に経営学部を設置した。
理工系大学らしく、
数理・数量的・実証的アプローチで経営を分析する
という方向である。
これは突然の思いつきではない。
東京理科大が持っていた、
数学・理工学
という資産を、
経営学
へ展開した。
つまり、
Science × Management
である。
では獨協なら何ができただろうか。
私は、
Language × Management Science
だったと思う。
例えば、
英語+統計+マーケティング
ドイツ語+OR+生産管理
英語+計量経済+国際金融
英語+会計+情報システム
である。
統計。
OR。
管理会計。
MIS。
計量経済。
これらは1990年時点ですでに存在していた。
未来予知ではない。
私なら「情報学部」ではなく、まず経済学部を改造する
1990年にいきなり新しい理系学部を作れば、教授会の抵抗も設備負担も大きい。
そこで既存の経済学部を使う。
例えば、

そして、
国際経営情報コース
あるいは、
経営科学コース
を作る。
人気が出れば、数年後に学科へ昇格させる。
この方が、
「獨協大学を全く別の大学にします」
ではなく、
「既存の経営教育を高度化します」
と説明できる。
大学改革では、この違いは大きい。
そして「草加」は本当に不利だったのか
ここも重要である。
獨協大学は1964年、埼玉県草加市に開学した。
現在から見ると、
「東京に作っておけばよかったのでは」
と思うかもしれない。
しかし1960年代から1980年代初頭までは、郊外型キャンパスが珍しくなかった。
中央大学多摩キャンパス。
法政大学多摩キャンパス。
青山学院大学厚木キャンパス。
当時は学生数も増加し、広いキャンパスを確保すること自体に大きな価値があった。
したがって、
1964年の草加開学そのものが間違いだった
とは思わない。
問題は「草加を選んだこと」ではなく「草加だけだったこと」
国際系大学の場合、
大使館
商社
外資系企業
金融機関
国際文化機関
出版社
外国人コミュニティ
が集まる都市そのものが教育資源になる。
上智大学の四谷キャンパスは、
国際性という大学ブランドと、東京都心という立地イメージが一致している。
ここは強い。
一方、
国際・外国語
を売りにする獨協大学が、
埼玉県草加市
だけで勝負する場合、
ブランドの物語と立地イメージが少しずれる。
物理的には都心から極端に遠いわけではない。
しかし大学ブランドでは、
物理的距離と心理的距離は違う。
「東京・四谷」
と
「埼玉・草加」
では、全国の高校生が受ける印象は違う。
中央大学多摩キャンパスと似た構造
中央大学も1978年に多摩へ大規模移転した。
当時としては合理的だった。
広いキャンパス。
教育環境。
学生数増加への対応。
ところが、その後大学の都心回帰が進むと、郊外立地が学生募集上のハンディとして意識されるようになった。
中央大学は2023年、看板の法学部を茗荷谷へ移した。
獨協と中央は同じではない。
草加は駅近で、東京北東部からのアクセスも比較的よい。
したがって、
立地ハンディは中央多摩の方が大きい
と思う。
それでも、
「建設時には合理的だった郊外キャンパスが、後に相対的な弱点になる」
という構造は似ている。
1980年代なら、全面移転ではなく「東京拠点」が現実的だった
では、
「草加を売って東京へ移転すればよかった」
のか。
私はそこまで単純ではないと思う。
バブル期には東京都心の地価も高騰していた。
また大学施設の新設・拡張には制度的制約もあった。
全面移転は重い。
しかし、
都心サテライトキャンパス
なら話は違う。
例えば、
Dokkyo Tokyo Center
を1985~1990年ごろに設置する。
そこへ、
国際関係大学院
EU・ドイツ研究センター
国際経営教育
外資系企業との寄附講座
社会人教育
就職・インターンシップ支援
国際会議
を置く。
草加は、
教育・学生生活の本拠地。
東京は、
世界・企業・行政との接点。
この二拠点体制なら、草加という既存資産を捨てずに済む。
ただし、最大の障壁は「教授会」だったかもしれない
大学改革は企業より難しい。
外国語学部。
経済学部。
法学部。
それぞれに教員組織がある。
突然、
「外国語を専門教育と統合します」
と言っても簡単には動かない。
そこで重要なのが、
人 → 制度 → ブランド
という順番である。
1990年から10年間で改革するなら
1990~1992年
まず教員採用を変える。
国際政治。
国際経済。
EU法。
統計。
OR。
情報システム。
海外PhD取得者。
こうした分野を少しずつ増やす。
1992~1995年
次に、
European Studies
International Business
Management Science
といったコースを既存学部内に作る。
1995~2000年
人気・成果が確認できたら学科化する。
そして初めて、
Languages × Europe × Business × Information
を獨協大学全体のブランドとして打ち出す。
大学組織では、この順番の方が実行可能性は高い。
実際の獨協も、全く改革していなかったわけではない
ここは公平に見なければならない。
獨協は、
情報センター
国際交流センター
海外大学との交流
国際関係法学科
言語文化学科
国際教養学部
などを順次整備してきた。
つまり、
方向そのものが間違っていたわけではない。
むしろ、
最終的にはかなり正しい方向へ進んだ。
問題があったとすれば、
それらを大学全体のブランド転換として統合する速度と規模
だったのではないかと思う。
偏差値の変化を見ると、「一気に落ちた」わけではない
大まかに見ると、

という流れに見える。
つまり、
1990年に改革しなかった瞬間に落ちた
わけではない。
むしろ、
1990年代までは過去のブランド資産で持ちこたえた。
その間に、
青山学院
法政
立教
明治
などが国際系教育を強化した。
競合が動いた結果、
同じ場所にとどまること自体が、相対的な後退になった。
そして、もう一つ見逃せないのが「女子受験生」の存在
ここからは、大学側の供給戦略ではなく、
誰が大学を受験していたのか
という需要側の話になる。
1980年代後半、日本では女性の四年制大学進学が大きく伸びていた。
1986年には男女雇用機会均等法が施行された。
バブル景気もあり、
四年制大学を卒業して企業で働く女性
というキャリアが以前より現実的になった。
この時代、
英語・外国語・国際性
は、女性にとって非常に分かりやすい人的資本だった可能性がある。
航空。
旅行。
商社。
金融。
外資系企業。
メーカーの海外部門。
こうした職業イメージと、
英語ができる
という能力は結びつきやすかった。
すると、
高学力女子 → 上智・ICU・獨協
という受験市場が成立する。
なぜ上智・ICU・獨協は、早慶ほど巨大でなくても難化できたのか
早稲田や慶應には、
圧倒的な知名度
大規模OBネットワーク
長い総合大学の歴史
多数の学部
がある。
上智・ICU・獨協には、その規模はない。
それでも国際・外国語系で高い難易度を持てた。
その一因として、
1980~90年代に急増した、高学力で職業キャリア志向の女性受験生を強く引きつけた
という仮説はかなり面白い。
特に獨協外国語は、
上智外国語は難しい。
しかし、
本格的に外国語を学びたい。
という受験生にとって、非常に自然な選択肢だった可能性がある。
すると、
女性四大進学増
↓
語学・国際系需要増
↓
上智・ICU難化
↓
獨協外国語にも需要波及
↓
MARCH級の受験難易度
という循環が成立する。
これは現段階では仮説だが、検証する価値は高い。
ところが現在、その市場そのものが変わっている
ここが、現在の獨協にとって重要である。
現在も高学力女子は増えている。
しかし、
高学力女子=文系・外国語
ではない。
女子受験生の理系志向も強まっている。
情報。
AI。
データサイエンス。
建築。
バイオ。
医療。
工学。
昔よりはるかに多くの進路が選択肢になる。
つまり、
1980年代に獨協を押し上げた可能性のある市場そのものが、分散している。
上智・ICUと獨協では、この変化への耐性が違う
ここが今後かなり重要だと思う。
上智大学には理工学部がある。
したがって、
国際志向+理系志向
の学生も大学ブランドの中へ取り込める。
ICUも、
数学
物理
化学
生物
情報科学
をリベラルアーツの中に持つ。
文理をまたぐ高学力層を吸引できる。
一方、獨協大学の学部構成は、
外国語
国際教養
経済
法
である。
完全に人文・社会科学系である。
だから、
女子受験生の理系化
は、獨協にとって単なる社会変化ではない。
かつて強かった顧客セグメントが、別市場へ移動するリスク
なのである。
「語学の獨協」は、今後さらに厳しくなる可能性がある
1985年なら、
英語ができる
だけでも高い価値があった。
しかし現在は違う。
企業が欲しいのは、
英語+Python
英語+統計
英語+AI
英語+会計
英語+工学
英語+医療
のような人材である。
つまり外国語は、
単独の商品
ではなく、
専門能力を増幅するインフラ
へ変わった。
これはまさに、上智が何十年も前から進めてきた方向である。
獨協自身も、その危機には気づいている
現在の獨協大学は、
文系の専門知識+データサイエンス
という方向を強く打ち出している。
人工知能。
プログラミング。
統計学。
数学。
アルゴリズム。
データベース。
ネットワーク。
こうした情報科学教育を全学的に提供している。
これは非常に重要である。
なぜなら、
Language × Data
という方向は、これまでこの記事で考えてきた1990年代のIFとかなり似ているからだ。
つまり、獨協が現在向かっている方向そのものは、かなり合理的である。
しかし「プログラム」だけで受験生に伝わるのか
ここで、また同じ問題が出てくる。
大学内部では、
AIも学べます。
統計も学べます。
Programmingもあります。
と充実していても、
高校生から見た大学の看板が、
外国語・国際・経済・法
のままなら、
「獨協=語学系文系大学」
という認識は簡単には変わらない。
これが重要である。
1990年代にも、
情報教育はあった。
国際交流もあった。
経営科学もあった。
しかし、それらが、
一つの強いブランドとして統合されなかった。
現在も同じ問題が再現する可能性がある。
今度こそ「外国語を掛け算の左辺」にする必要がある
これからの獨協が生き残るなら、
語学教育をさらに強化する
だけでは足りないと思う。
必要なのは、
Language × X
である。
例えば、
Language × Data Science
Language × Finance
Language × Economics
Language × Law
Language × Healthcare
Language × Technology
である。
外国語を捨てる必要はない。
むしろ、
外国語をすべての専門領域を世界へ接続する共通基盤にする。
これなら、1883年以来の獨協のDNAを残せる。
獨協の本当の問題は「二度目の同じ失敗」かもしれない
ここまで考えると、獨協大学の歴史は非常に興味深い。
1980年代。
語学・国際への需要が急増した。
獨協はその波に乗った。
しかし競合が、
外国語+専門
へ進む中で、
獨協のブランド転換は十分に速くなかった。
そして現在。
AI。
データサイエンス。
女子理系進学。
少子化。
再び巨大な環境変化が起きている。
ここで、
「データサイエンス科目もあります」
という追加だけで終わるのか。
それとも、
大学全体を「外国語×専門×情報」というブランドへ変えるのか。
この違いは非常に大きい。
だから、過去の話だけではない
この歴史IFを最初に考えたとき、
「1990年の獨協大学がどうすればよかったか」
という過去の話だった。
しかし調べていくと、もっと面白い問題が見えてきた。
獨協大学はいま再び、
1990年前後と似た戦略的分岐点
に立っているのではないか。
当時は、
国際化
欧州統合
情報化
18歳人口減少
だった。
現在は、
AI
データサイエンス
女子理系化
少子化
文理融合
である。
本当に重要なのは未来を当てることではない
1990年の大学経営者に、
「30年後はAIだから情報学部を作れ」
と言うのは簡単だ。
しかし、それは後知恵である。
経営戦略とは、未来を完璧に予言することではない。
重要なのは、
すでに見えているWeak Signalと、自分たちが持っている資産を結びつけること
である。
1990年の獨協には、
外国語
ドイツ
経済・経営
法律
情報教育
という資産があった。
目の前では、
上智・青学の国際化
欧州統合
情報化
18歳人口減少
が進んでいた。
これらを統合できていれば、
Languages × Europe × Business × Information
という独自の大学になれた可能性がある。
そして2020年代にも、同じ問いが突きつけられている
現在の獨協には、
外国語
国際教養
経済
法
データサイエンス教育
がある。
目の前では、
AI
女子理系化
少子化
文理融合
が進んでいる。
ならば今度は、
Language × Data × Professional Knowledge
へ変換できるか。
そこが勝負になる。
獨協大学の歴史で本当に惜しかったのは、
ドイツ語を守ったことではない。
草加に大学を作ったことでもない。
問題があったとすれば、
かつて正しかった戦略を、環境が変わった後に十分な速度で再定義しなかったこと
である。
ドイツ語を欧州へ。
語学を国際ビジネスへ。
経営を数理・情報へ。
草加一拠点を草加+東京へ。
そして今なら、
外国語をAI・データ・専門知識へ接続する。
もし獨協大学が、この二度目の転換をうまく実行できれば、
「かつて人気だった語学の名門」
ではなく、
「外国語を武器に、世界と専門領域をつなぐ大学」
として、新しいポジションを作れるかもしれない。
逆に、
昔の成功モデルだった「語学の獨協」をそのまま磨くだけ
なら、少子化と女子理系化が進む今後の受験市場では、むしろ相対的な苦戦が強まる可能性がある。
獨協大学の歴史は、
一度成功したブランドを、いつ捨て、いつ変換し、何を残すべきか
という問いを私たちに突きつけている。
これは大学だけの話ではない。
企業にも、人にも、同じことが言えるのだと思う。
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