【第26話】The First Step Forward ★第1章 完★
前回の続き。。
駐在条件の最終決断が下されたその夜──
帰宅した俺は、作業着を脱ぐ間も惜しんでリビングへと向かった。
テレビからはバラエティ番組が流れていたが、K美は画面を見ることなく、薄手のルームウェア姿でソファに体を預けていた。
ゆったりとしたその背中が、少し遠くに感じる。
「……何か決まった?」
彼女の言葉は短く、そして静かだった。
俺は軽く深呼吸をしてから、タイ駐在の条件をひとつずつ伝えていった。
給料は現状維持。駐在期間は未定。生活費がどれほど必要になるかも、まだ分からない。
そして家族の合流については「俺が現地の生活に慣れてから、3ヶ月後を目安に呼ぶ」と説明した。
会社から強制されたわけではない。最終的にそう決めたのは、俺自身だった。
だが、その部分まではK美に話さなかった。
もし立場が逆なら、不安になってもおかしくない。
けれどK美は、肩の力を抜いたように笑ってみせた。
「会社が大丈夫って言ってるなら、大丈夫でしょ」
「生活できなきゃ帰ってくればいいだけじゃん」
「で、会社がブツブツ言うようなら転職すれば?」
「はいっ、じゃあ3ヶ月後までに住まいと生活環境の準備、よろしくお願いしまーす」
ポン、と手を叩いて笑うその姿に、俺は思わず吹き出しそうになった
(…… この女、やっぱ強ぇな)
さすが、タイ行きを一瞬で「いいよ」と言ってのけた人間だ。
感覚で生きてる。計算じゃない。でも、だからこそ俺は惹かれたのかもしれない。
けれど、そんな彼女のノリの良さに惹かれて結婚したのを思い出す。
しっかり者というわけじゃない。むしろ、行き当たりばったりの感覚派。
でもそれが、どこか俺には眩しくてたまらなく魅力的だった。
今となっては、仮面夫婦な日々だけど(苦笑)
隣の部屋から、スヤスヤと寝息が聞こえる。
小さなベビーベッドの中で、我が子が両手を天に向けて寝ていた。
(……かわいいな)
まだ0歳。言葉で気持ちを伝えることはできない。
それでも、俺たちが言い争う声や、家の中に流れる張りつめた空気を、幼いなりに感じ取っていたのかもしれない。
俺がいなければ、少なくとも夫婦喧嘩は起こらない。K美にも子供にも、しばらく穏やかな時間が戻るはずだ。タイで合流してからは、今に増していっぱい遊んでやるからな。
そう考える一方で、久しぶりの自由を楽しみにしている自分もいた。家族のためなのか、自分のためなのか。これはどちらも本音だった。
しかし俺はこのタイ生活が家族のために良い方向に進むことを願っていた。いや、絶対に俺たちにとって良い経験になると踏んでいた。
駐在メンバーの中で、家族を帯同するのは俺一人。
家族の合流後は明らかに、生活スタイルが変わってくるだろう。
でも最初の3ヶ月は、久しぶりの独身生活が待っている。
疲れ切った夫婦関係に一旦区切りをつけて、束の間の羽を伸ばさせてもらおうじゃないか。
もちろん仕事はやる。絶対に手は抜かない。会社の看板を背負っていく以上、結果を出すつもりだった。
タイへ赴任するのは、俺、I先輩、M先輩、直属上司となるKTさん、そして工場全体を統括するNさん。この5人だった。
タイで直属上司になるNさんが言った。
「ワシらは五人のサムライや」と。
でも、格好をつけたところで週末がくれば、たまには息抜きにも行くだろう。
バンコクのネオン街をぶらつく夜。
ソイカウボーイ、ナナプラザ、タニヤ── 聞いたことはあっても、まだ未体験の世界。
あぁ、ワクワクが止まらない。
けれども、そのワクワクの裏に、皆とは別の責任や指名も背負っている。
家族の住まいを整え、生活に必要な物を一つずつ用意していく… 他のメンバーが駐在仲間として連れ立って飲みに行く夜、俺は一人で見送らなければならない日もあるだろう。
家族がタイに来たら、夜遊びなんてまず無理だということは、最初から分かっていた。
だが、他のメンバーにとっては、日本に残していく家族の存在が大きな悩みの種となっている。
家族帯同、単身、どちらが正しいのか?どちらが幸せなのか?そんなことを軽々しく外野が口にできるはずもないが、その残される家族に対してさえ、役員たちの言葉や対応は、最後まで冷たかった。
「保険は会社がつけるから、今のを解約すれば生活費が浮くでしょう」
「家族が一人減るんだから、食費も当然安くなる、電気も水道も」
「今乗ってるクルマを家族が乗らないなら、売って現金化すれば?」
全部、行かない側の論理にウンザリだ。
しかし俺はK美と同じく、なんとかなるさ精神に完全シフトしていた。
そして、会社から最後に提示された特別条件は、まるで大きな恩恵であるかのように伝えられたが、その実態は、他社であれば当然のように支給されている”住宅手当”だった。
給料据え置き + 特別手当 1万バーツ(約3万円)+ 家賃補助
その内容を記した契約書を手にし、俺はハンコを押した。
── 28歳。勤続10年。恥ずかしながら手取り20万円にも届いていない現実。
それでも俺は“希望”という名の飛行機に乗る。
とにかく現地に行ってやってみるんだ。
たとえ言葉が通じなくても、文化が違っても俺は、自分の足で立ってみせる。家族のため、自分の未来のため、やるべきことは決まっている。
こうして俺はK美と子供を日本に残し、先にバンコクへと飛び立った。
果たしてこの一連の決断が、吉と出るか凶と出るか──、
どうなる?!俺のバンコク駐在生活!!こうご期待!
「第1章 -完-」

▶️次回は第1章のあとがき、となります
