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【てんまの歴史】冷害と飢饉の記憶

実りを奪ったのは、怠けではなく風だった

てんまの歴史を語るなら、冷害と飢饉は外せません。
この土地は、ただ米をつくってきた土地ではありません。何度も、その米が思うように実らない苦しさと向き合ってきた土地です。七戸町の公式計画でも、旧天間林村は「相次ぐ凶作に見舞われ、冷害常習地帯として甚大な被害を受けた」と整理されています。

冷害の主な原因は、東北北部で恐れられてきた偏東風、いわゆるヤマセでした。旧天間林村史は、自然的原因の最大のものとして、この冷たい風を挙げています。春が寒く、雪どけが遅れ、夏にも気温が上がらず、稲の生育が狂う。秋には暴風雨や早霜まで重なる。これでは、いくら人がまじめに働いても、実りは簡単に裏切られます。

しかも、凶作は一度きりの災難ではありませんでした。旧天間林村を含む南部地方では、元和年間から幕末までの二百五十余年間に、不作以上が実に七十八回、ほぼ三年に一回の割合で起きていたと村史は記しています。これでは「たまに悪い年がある」のではありません。悪い年が来ることを前提に生きるしかない土地だった、ということです。

その中でも、村史が最も惨状が激しかったとするのが天保の飢饉です。南部の四大飢饉の一つとして記されるこの時期は、ただ収穫が減ったという程度では済みませんでした。米価は跳ね上がり、暮らしは崩れ、人びとの命そのものが脅かされました。飢饉とは、食べ物が足りないというより、人の尊厳が削られていく状態です。

しかも村史は、ここで厳しいことを書いています。
凶作は人災でもあった。
自然のせいだけではなかった、というのです。藩の農政の貧困、凶作に備える生産指導の弱さ、そして貢租の過重が、被害をさらに深くしたと村史は述べています。作物が取れない年にも取り立ては続く。これでは、翌年の立て直しまで潰れてしまう。凶作が次の凶作を呼ぶ構造があったのです。

この歴史は、明治や昭和になっても消えませんでした。旧天間林村史下巻によれば、戦後の開拓地も「夏は偏東風がふき冷害になりやすく、冬は降雪量が多い」という厳しい条件に置かれていました。そして昭和29年には、冷害と霜害による凶作で、天間林村は「日本一の凶作村」とまで呼ばれるほどの大打撃を受けています。昔話ではありません。ついこの前まで、冷害は村を本気で追い詰めていたのです。

だから、てんまの人びとにとって農業とは、ただ種をまいて秋を待つ仕事ではありませんでした。ヤマセに備え、水を確保し、少しでも被害を減らす工夫をし、冷害に強い土地の使い方を考え続ける仕事でした。村が天間ダム建設を強く求めた背景にも、こうした冷害と水不足の記憶が重く横たわっていました。安定した収穫を得たいという願いは、贅沢ではなく、生き延びるための願いだったのです。

いま田んぼを見ると、静かな風景に見えます。
春に水が入り、夏に青くなり、秋に黄金色になる。
けれども、その景色の下には、何度も実りを奪われた記憶があります。

てんまの人は、楽な土地に住んでいたのではありません。
厳しい土地を、何とか暮らせる土地にしてきたのです。
冷害と飢饉の歴史は、その苦しさの記録であると同時に、それでも耕すことをやめなかった人びとの記録でもあります。

てんまの歴史を見るとき、豊作の年だけを見ていては足りません。
むしろ、実らなかった年をどう耐えたか。
そこに、この土地の本当の強さがあります。


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