絵に感動した話
子供の頃は絵のことはまるで分からなかった。教養として鑑賞眼を身につけたいとも思わなかった。分かったらいいなくらいだったと思う。生活に関係ないものだからそれで済ませていた。
大人になって、あるとき辛い時期がやって来た。私は考えごとを深めるために一層本を読んだり図書館に通ったりしはじめた。ちょうど同じ頃にNHKで迷宮美術館という番組がやっていて、バラエティのようなクイズ形式で名画や画家のことを伝えてくれるので毎週楽しく見ていた。それがあって画家の名前を少しだけ知ったので、図書館で画集を借りてみようと思った。
その頃の私の街の図書館は、かつて高校だった校舎をそのまま利用していて、その一階の、壁際の最下段に大きくて重い画集はたくさん並んでいた。私が借りたのはピカソとシャガール、そして、せっかくもっと借りられるのだからと欲張ってユトリロも抱えた。その三冊だった。自転車をこいで家に帰って、机に広げて見始める。ピカソか、なるほど。シャガールは、全然良いと思わないな。そして、三冊目のユトリロを開いた。
パリのモンマルトルの、なんでもない民家の白壁と重そうな色の空が描かれている。それだけだった。私がすぐに感じたのは、彼の絵には想像の入り込む余地がないということだった。本当に、全くなかった。そのことがひどく私を感動させた。どの絵だって、普通の絵なら必ずこちらの想像の入り込む余地がある。こんな場所があったなとか、こういう世界に行ってみたいなとか、なんて美しいんだろうとか、そういったファンタジーを持てるように描かれている。要は絵と鑑賞者が行き来する、交流することができるようになっているのが普通だが、ユトリロの絵にはないのだった。
これは、彼の絵が完全に独立している証ではないか。完璧なスタンドアローン。見る者を黙殺している。どこに飾られているかとか、いつの時代だとか、どういった人々が見るのかとか、そういった相対的な条件の雲を抜けて、絶対に達している。だから、本当の意味での対象物であり、一個の物体、物である。それまでの私が漠然と抱いていた絵に対する考えと、まるで違うものが、その画集の一ページ一ページに現れる。私は、これこそまさに芸術だと思った。感動は全身に充満していた。
それ以来、私は絵を見ることに抵抗がなくなった。審美眼がついたということではなく、平たい意味で自分なりに見ることが出来るようになったから。だから、今も絵を見ることは楽しいし、嬉しいことの一つである。
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