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人は物自体を知れないのか

とりあえず、カントが専攻したような哲学は、
自然哲学と呼べそうですね。
人間同士の関係より、
人間対自然、人間対世界を志向しているので、
そう呼んで差し支えないと思います。

それはさておき、
カントは、
人は物自体を知れないと、そう断言しましたが、
実際のところどうなのでしょう。
カントの時代、科学はまだ黎明期であり、
現代のように観測機器が飛躍的に進化した時代を予期していなかったのではないでしょうか。

もし、人間が物自体を認識や観測できなくとも、
観測機器に反応があれば、
それは存在することにできます。
そうやって、世界の実態を知ることは、
物自体を知ることでは、ありませんか?
なら、人間は努力によって、物自体を知ることができるわけです。

これを僕は否定したくありません。
科学者たちの努力によって、
世界の謎は少しずつですが、
確実に解明されていきます。
それが科学革命の本質だと思います。

カントはそこから目を背けていたのでしょうか。
彼にさほど詳しくない僕ですから、
僕の言うことはピントが外れているかも知れません。

でも、科学は推論、理論と実験、観測の両輪で、
認識範囲を拡めてきたことは間違いのない事実です。
これにカント哲学はどう答えるのでしょうか。

僕には分かりませんが、
物自体を努力によって、知れないなら、
科学者たち努力は何だったのでしょう。

物自体とは何でしょうか。
世界の真理、真実でしょうか。
それは人間は知れないと、言うことでしょうか。
いえ、知れる気がします。

ブッダにしたって、
人間がこの世界にいることの意味を朧気ながらに掴んでいたことでしょう。
それは人間の存在価値は何かと心を巡らす人々には、
がんばれば、こうではないか、
ああではないかとある程度、掴むことのできるようなことに、僕には感じられます。

それはカントにとって、どうだったのでしょう。
カントは科学に関心を寄せていたはずです。
科学の進歩により、真実は時とともに明らかにされ、
文明は次々とステージを進めていきます。
そのことはカントにとって、考えられないことだったのでしょうか。

ドイツの一賢人が何を言おうとしたのか、
そんなことは遠い異国で暮らしていて、
彼にそんなに関心を持たない僕ですから、
カントの言うことを安易には肯定できないのです。
そんなつもりになります。

そのことはどう決着をつけたらいいのでしょうか。
カントはただ単に不可知論者という立場をとってみただけのことでしょうか。
同時代かは知らないですが、ロックやヒュームに、
そうではない、と異論を申し立てたカントです。

そのことから察するに、
自分も完璧でなく、いつかは彼らのように、
異論を挟まれる存在になると、
そんな立場に甘んじたのでしょうか。

僕はカントがどれだけ偉大な哲学者かは知りません。
というか、よく分かりません。
彼の著書は長大すぎて、
僕如きには読めません。
一度、挑戦したのですが、断念しました。
いずれまた再挑戦して、
読破して、その意味を知れば、
彼の心を分かるようになるのでしょうか。

やってみれば、その通りかもしれません。
ただ彼の文章が読みにくくて、敬遠している自分にとって、彼がどれほどの人物かは察しかねます。

カントとしても、おそらく自分が完璧であるとまでは、思っていなかったでしょう。
そこまでの傲慢さはないとおそらくは思います。

いずれにせよ、
この事は純粋理性批判とか、判断力批判とかを読み込むことで、彼を知らなければ、
決着はつかないのでしょう。
僕は、いずれ、そのことを確かめたいと思います。

それがいつになるか、分かりませんが、
まあ、気負わずに勉強していこうと思います。

余談ですけど、
アインシュタインは神はサイコロを振らないと、
言ったらしいです。
完璧な存在である神がサイコロを振る必要は確かにない気がします。
アインシュタインは確か、カントから一定の影響を受けていたとか、見聞したことがあります。

カントとしてはどうなのでしょう。
彼は魂の不死を確定事項としたのでしたかね。
でも、そんな世界は神のみが知るところで、
そこまでは人間は知れないということでしょうか。
それなら、確かに世界自体、物自体を知ることはできない気がします。
なぜ物があるのかと問われれば、
その理由はわかりません。
物自体を知れないとはそんな意味なのでしょうか。
それなら、それで腑に落ちる気もします。

それはそれとして、また彼の著書にも再挑戦します。
また、その時に続きを書いて見たいと思います。

また、脱線します。
カントはそこにただ机があるとして、
それがそこにある意味を人が知ることは無理だと言いたかったのでしょうか。
それなら、確かに神のみぞ知るということにはなるでしょう。
そういうことなのでしょうか。
彼に詳しくない、僕には分かりませんが、
とりあえず、僕に考えられるのはこれくらいです。

が、端的に言うと、物自体とは神なのですかね。
それなら、認知できない気がしますね。
なぜなら、人間は神がどんなものかを知らないですから、そうなるでしょう。
神が目の前にいても、気づく訳ないし、
それを神と認識することもありません。
これで自分的には納得できないこともないです。

スピノザ的には、世界は神秘に溢れており、
そのこと自体が神の存在証明だったのでしょうか。
それなら、彼の方がわかりやすいですね。
パスカルとスピノザはある程度、似ている気がします。
見た目だけでなく、あるいは、思想も通じている、
もしかして、そうかもしれませんね。

カントは人間の知性や理性に限界はあると言ったのでしょう。
限界がないなら、もう神ですからね。
でも、限界は訓練を経ることで、
向上しませんか?
するものでしょう。
だから、訓練次第で、知性や理性は限界を突破できると、僕は思います。
だから、理論上は、限界はないことにもできます。
しかし、人間の寿命は限られているため、
無限の知性や理性を手に入れることはできないでしょう。
なら、やはり死とは神に至る道なのでしょうか。
人間は死ぬことで神になるのでしょうか。
それは神のみぞ知るところですね。
なにしろ、人間は死後の世界を認識できないです。
これは確実です。
なら、つまり、物自体とは死後の世界なのでしょうか。
かもしれません。
でも、もう終わりにしたいです。
しんどくなってきました。

でも、さらにさらに余談します。
突き詰めると、我と我ならざるものとの差とは何でしょう。
境界とは実在するのでしょうか。
境界とは、ただ存在するであろうと誰かが考えた、ただの観念に過ぎなくもありませんか?
なら、自分と自分でないものも区別できないということですね。
ということは、自分すら確かなものではなく、
自分自身、自分自体も物自体である可能性がありますね。
人間は自分を間違いなく認識していると、大抵いうでしょうけど、
それも確かなものでしょうか。
つまり、自分すら確かなものではありません。
そうではありませんか?
ただ認識が不変であるから、
自分とは絶対的なものと認識されるのであって、
その認識が正しいかどうか、誰にも保証できません。
やはり、物自体はあるようですね。
自分自身すらそれである可能性があるようですから。
これくらいにします。

お疲れ様でした。
という訳で、
最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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