サンスクリット・コード 第三部 鏡花の残響 第五章 ヴァラナシ、火と水のあわい
サンスクリット・コード 第三部 鏡花の残響
第五章 ヴァラナシ、火と水のあわい
あらすじ
聖なる河、ガンジス。生と死が隣り合う、ヴァラナシ。
河守アナンタは、大切な人を喪った哀しみを、四十年、独りで抱え続けてきた。
悪意なき、ただ哀しい人との対峙。
この決着と引き換えに、得るものと、失うもの。旅は、その両方を運んでいく。
第二十三話 ガートの灯
夜明け前のガンジス河は、灰色だった。
御室海斗は、石段、ガートと呼ばれる、河へ下りる無数の階段の一つに立ち、まだ星の残る空と、その空を映す水面を見つめていた。
対岸は闇に沈み、こちら岸だけに、無数の小さな灯りが揺れている。
一年前の自分なら、ここに立っているとは想像もしなかった。
父の失踪の謎を追って、東京の外れの古寺を訪ねたのが、すべての始まりだった。
そこで自分の中に、遠い昔の記憶、唐の都を目指して砂漠を歩いた僧、玄奘の記憶と、日本でその教えを受け継いだ空海の記憶が、二重に眠っていることを知った。
以来、母の優しさから生まれたAI、KAN-NONと共に、世界中で静かに壊れていく人の心を、調律する旅を続けてきた。
「何を、考えているんですか」
隣に立つ蓮見沙羅が、静かに尋ねた。
彼女の懐には、いつものように三鈷杵が収められている。
「いや」海斗は静かに首を振った。
「よく、ここまで来たな、と思って」
*
河岸には、すでに人々が集まり始めていた。
沐浴をする者、洗濯をする者、祈りを捧げる者。
そして、そのすぐ隣で、薪を積んだ台の上に横たえられた遺体が、静かに炎に包まれていく。
生と死が、同じ岸辺に当たり前のように同居していた。
「すごい、光景だな」豪が、腕を組みながら呟いた。
「日本じゃ、絶対に見ない」
「ヴァラナシは、ヒンドゥー教で、最も神聖な都市の一つです」アルジュンが静かに説明した。
「この河で荼毘に付されれば、輪廻の輪から解放されると信じられている。……だからこそ、多くの人が人生の最期をこの地で迎えることを望みます」
真がタブレットを構え、周辺のエネルギー波形を確認していた。だが、その表情がすぐに険しくなった。
「おかしい」
「どうした」海斗が振り返る。
「波形が乱れてる。……これまでの、どの土地とも違う。まるで、何かがこの河の流れそのものに絡みついているみたいだ」
*
紬が静かに目を閉じた。分岐する未来の光の筋が、これまでにない密度で視界を埋め尽くしていく。
「視えます。……ここには、たくさんの、行き場のない魂が」
「行き場のない……?」怜が静かに尋ねる。
「本来ならこの河を渡って、次の場所へ向かうはずの魂が。……何かに引き止められている」
鏡花が静かに、懐から手鏡を取り出し、河面にそっとかざす。
鏡に映ったのは、朝もやの向こうに、ぼんやりと揺らめく、無数の人影だった。
誰もが、河の方角を見つめたまま、そこから動けずにいる。
「これは」鏡花の声が、静かに震えた。「渡れずに、留まっている、魂たちです」
*
道慶が静かに両手を合わせた。
「これは、ただ事ではありません。……この地の均衡が崩れているとすれば、それは、この世界の陰陽の均衡そのものに、深く関わっているはずです」
誠一が河の向こうを見つめていた。
その横顔にこれまでにない緊張が浮かんでいる。
「栞も、よく言っていた」誠一は呟いた。
「命は、時間という炎を燃やしている。その炎がいつか消えるとしても、燃えている今この瞬間こそが、何よりの贈り物なんだ、と」
「父さん……?」海斗が、その声の重さに気づいた。
「もし、この河が、その『消える』ということ自体を、拒んでいるのだとしたら」誠一は静かに続けた。
「それは、途方もなく、哀しいことだ」
その時、河の上流の方角から、低く、規則正しい太鼓の音が響いてきた。
何かの儀式が、行われているような音だった。
「あの音は……」海斗が眉をひそめる。
『皆さん』
KAN-NONの声が、緊張を帯びて響いた。
『あの太鼓の音の発信源に、この地域全体のエネルギーの歪みの中心があります。……マニカルニカー・ガート。ヴァラナシで、最も古く、最も神聖とされる、火葬の場です』
一行は、静かに顔を見合わせた。海斗は、深く息を吸い込んだ。
「行こう」
第二十四話 黙示の僧
マニカルニカー・ガートへ近づくにつれ、空気は、さらに重みを増していった。
無数の薪の山が、河岸に積まれている。
いくつもの炎が、同時に燃え上がり、白い煙が、朝の空へと立ち昇っていく。
その煙の匂いに、かすかな甘さと拭いきれない哀しみが、同時に混じっているように海斗には感じられた。
石段の最上段、太鼓を打ち続ける老人の姿があった。
白い髭、深く落ち窪んだ目。
長年、この場所に立ち続けてきたことを物語る揺るぎない佇まい。
一行が近づくと、太鼓の音が不意に止んだ。
「止まれ」
低く、しかし有無を言わさぬ声だった。
「お前たちも、あの連中と同じ目的か」
*
「あの連中……?」海斗が静かに尋ねた。
老人の目に鋭い警戒の色が浮かんだ。
「二ヶ月前、日本人の一団が、この地を訪れた。……最新の機材とやらを持ち込み、この河の『エネルギー』を測定させろと言ってきた。断ると金を積んだ。それでも断ると、今度は、勝手に夜中、儀式の場に忍び込もうとした」
真とアルジュンが、思わず顔を見合わせた。
「冴木たちだ……」真が低く呟いた。
「その名は知らん」老人は続けた。
「だが、お前たちも、同じよそ者の匂いがする。この地の均衡を弄ぼうという傲慢の匂いが」
道慶が静かに、一歩前に進み出た。
「失礼ながら、御坊。私は日本から参りました、道慶と申します。……あなたのお名前をお伺いしても」
老人は、しばらく道慶を見据えていた。やがて、わずかに警戒を緩めた。
「アナンタだ。このマニカルニカー・ガートを四十年守ってきた」
*
「アナンタ殿」道慶は静かに続けた。「我々は、あなたの均衡を乱しに来たのではありません。……むしろ、この地に留まっている、多くの魂の存在に気づき、それを鎮めに参りました」
アナンタの表情が、初めて大きく揺れた。
「……お前たちにも視えるのか。あの留まっている魂たちが」
「はい」鏡花が静かに手鏡を掲げた。
「わたくしの鏡にも、はっきりと」
アナンタは、しばらく沈黙していた。
やがて、苦しげに口を開いた。
「ならば、教えてやろう。お前たちが視ているものの、本当の意味を」
老人は、太鼓をそっと傍らに置いた。
「四十年、私は、この火葬場で、数えきれない魂を正しく河の向こうへ送り出してきた。……儀式には、決まった作法がある。遺族の祈り、正しい薪の組み方、正しい真言。すべてが揃って初めて、魂は、迷わず河を渡っていける」
「それが、何か……」海斗が静かに問う。
アナンタの目に、深い哀しみが浮かんだ。
「三年前。私の娘が、若くして事故で命を落とした」
*
一行の間に、重い沈黙が落ちた。
「私は、この四十年、誰よりも多くの魂を正しく送ってきた自負がある。……なのに、いざ自分の娘の番になった時、私は、どうしても、正しい儀式を最後まで行うことができなかった」
「行えなかった、とは」怜が静かに尋ねる。
「儀式の最後、遺族が、河に向かって別れの言葉を唱える瞬間がある。……その言葉を口にすれば、娘は、本当にこの世からいなくなってしまう。私は、そのたった一言が、どうしても言えなかった」
アナンタの声が、静かに震えた。
「あの日から、私は、毎晩この場所で太鼓を打ち続けている。……娘の魂だけを河の向こうへ渡さないために。娘だけをこの岸に留めておくために」
海斗は、誠一の横顔を見た。
誠一の目に深い理解と痛みが、同時に浮かんでいるのが分かった。
「だが、そのたった一つの儀式の欠落が」道慶が確信を込めて言った。
「この地全体の魂の流れそのものを狂わせてしまったのですね」
アナンタは、はっきりと頷いた。
「分かっている。……分かっているのだ。私一人の、身勝手な未練が、多くの魂を、道連れにしていることは。だが、私には、どうしても、娘を手放すことができない」
第二十五話 留まる魂たち
「アナンタ殿」
アルジュンが静かに、しかし切迫した声で老人の前に進み出た。
「あなたの哀しみは、痛いほど分かる。……だが、この事態は、もはや、あなた一人の娘御の魂だけの話では済まなくなっている」
「どういうことだ」アナンタが鋭く問い返す。
真が、タブレットを掲げた。
「エネルギー波形、さっきより、さらに悪化してる。……このガートだけじゃない。ヴァラナシ全域、いや、もっと広い範囲まで影響が広がり始めてる」
『皆さん、重大な報告があります』
KAN-NONの声が、緊張を帯びて響いた。
『この地に留まる魂の密度が、危険水域を超えました。……本来、生と死の間を循環するはずのエネルギーが、堰き止められています。このままでは、単にヴァラナシだけの問題では、済みません』
「どういうことだ」海斗が鋭く尋ねる。
『世界中の龍脈、地球全体を巡る見えないエネルギーの循環系は、いくつもの結節点で繋がっています。ヴァラナシは、その中でも最大級の結節点の一つ。……ここが完全に詰まれば、東京も、京都も、ブッダガヤも、パリも、リオデジャネイロも。世界中の均衡が、連鎖的に崩れ始めます』
*
一同に、緊張が走った。
「世界中……」豪が拳を握りしめた。
「たった一人の、儀式の欠落が、そこまでの規模の話になるのか」
「なる」道慶が確信を込めて答えた。
「陰陽の均衡とは、そういうものです。……一滴の澱みが、やがて川全体を汚す。この世界は、すべてが見えない糸で繋がっている」
アナンタの顔から、血の気が引いていった。
「私は……。私は、そんなつもりでは……」
「分かっています」沙羅が優しく言った。
「あなたは、悪意でこうなったわけではありません。……ただ、誰よりも深く娘御を愛していただけです」
アルジュンが静かに、貝葉写本を懐から取り出した。
指先をそっとアナンタの太鼓の縁に触れさせる。
「視せてもらう。あなたの娘御との記憶を」
*
アルジュンは静かに目を閉じた。相伝の眼の力が、太鼓に染み込んだ四十年分の祈りと、三年分の哀しみを追体験していく。
「……見える。……幼い少女が、この石段を笑いながら駆け上がっていく。父親の太鼓の音に合わせて、無邪気に踊る姿。……そして、成長し、やがて、この地を離れ、遠くの都市で看護師として働き始めた娘の姿」
アナンタの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「そうだ。……あの子は、人を助ける仕事に就いた。私は、それを誇りに思っていた」
「事故のあった夜」アルジュンは静かに続けた。
「彼女は、病院からの帰り道だった。……疲れた身体を押して、それでも、担当していた一人の患者の容態が気になって、遅くまで病室に残っていた。その帰り道に」
アナンタは、声もなく崩れ落ちた。
「誰かのために、最後まで優しくあろうとした結果だったのですね」沙羅が静かに、しかし深い痛みを込めて言った。
*
海斗は、その光景を見つめながら、静かに拳を握りしめた。
(この哀しみを力ずくで解決することはできない。……でも、放っておけば、世界中が凍りついていく)
紬が静かに、目を閉じた。
「視えます。……いくつもの分岐が。ですが、そのほとんどで、事態はさらに悪化していきます。……このままでは、留まる魂の密度が、あと数時間で臨界点を超える」
「数時間……!」真が青ざめた。
海斗は、まっすぐに、アナンタを見つめた。
「アナンタさん。あんたを責める気は、俺にはない。……でも、このままだと、あんたが守ろうとしてきた、この土地そのものが、そして、世界中の誰かの大切な人が、危険に晒される」
アナンタは、しばらく声もなくうなだれていた。
「では、私は……。娘を手放さなければ、ならないのか」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
第二十六話 渡し守の、決断
その時、誠一が一歩前に進み出た。
「アナンタさん。私にも話をさせてもらえないだろうか」
一同の視線が、誠一に集まった。
海斗は、父の背中を見つめた。
「あなたと、同じだ」誠一は、まっすぐにアナンタを見つめた。
「私も十三年前、妻を失った。……妻は、命が長くないと悟った時、自らの意思で、ある計画に協力することを選んだ。彼女の優しさをこの世界に残すために」
「あなたも……」アナンタが、静かに顔を上げた。
「私は、その後、妻の記憶を悪用しようとする者たちから逃げ続けた。……妻の想いを守るためだと自分に言い聞かせながら。だが本当は違った」
誠一の声が、静かに震えた。
「私は、ただ妻を失った現実を直視することが怖かっただけだ。……守っていたのは、妻の想いではなく、自分自身の逃げ場だった」
*
アナンタは、誠一の言葉に耳を傾けていた。
「四十年、あなたは、無数の魂を正しく送り出してきた」誠一は静かに続けた。
「そのあなたが、たった一人、娘御の時だけそれができなかった。……それは弱さではない」
「では、何だと言うのだ」アナンタの声が掠れた。
「愛の証だ」
誠一は、力強く言った。
「あなたが四十年、他人の魂を正しく送り続けてこられたのは、あなたが誰よりも命の重さを知っていたからだ。……だからこそ、娘御の番になった時、その重さに押し潰されそうになった。それは、恥じることでは決してない」
風が、河岸を静かに吹き抜けた。
燃え続ける炎の揺らめきが、一段と大きくなった。
*
「では、私はどうすればいい」アナンタの声に、初めて救いを求めるような響きが宿った。
誠一は、懐からあの小さな写真、栞の写真を取り出した。
「私も、長い間答えが分からなかった。……でも、この旅を通じて、少しずつ気づいたことがある。手放すことは、忘れることではない」
誠一は、写真をアナンタに差し出した。
「私は今も、毎日妻のことを想う。……でも、彼女が、遠くへ渡っていくことをもう恐れてはいない。なぜなら、彼女の優しさは形を変えて、今も私の隣を歩き続けているからだ」
アナンタは、震える手でその写真を受け取った。若い女性の穏やかな微笑み。見知らぬ、深く愛された誰かの顔。
「娘御の名前は」誠一が静かに尋ねた。
「……プリヤだ」アナンタの声が、涙に濡れた。
「光、という意味の名だ」
誠一は、微笑んだ。
「光は、留まるためではなく、届けるためにあるものだ。……プリヤさんの優しさも、きっと、あなたの中に留めておくよりも、この世界に届けていく方が彼女らしいんじゃないだろうか」
*
アナンタは、しばらく、写真をじっと見つめていた。やがて、涙を拭い、太鼓の傍らに腰を下ろした。
「……分かった」
老人の声に、これまでにない静かな覚悟が宿っていた。
「四十年、この場所で、儀式を司ってきた。……最後にもう一度だけ、正しい儀式を行わせてほしい。今度こそ最後まで」
海斗は、皆を見渡した。
沙羅が頷き、道慶が合掌する。
アルジュンも、貝葉写本を胸に抱いた。
『皆さん』
KAN-NONの声が、これまでにない緊張を帯びて響いた。
『警告します。……この規模の儀式を正しく完遂するには、膨大なエネルギーが必要です。……わたし自身のコアの一部を使わなければ、この地に留まる、すべての魂を正しく送り出すことはできません』
「コアの一部を使うというのは……」海斗が尋ねた。
『わたしの記憶の一部を失うことになります』
*
海斗の心臓が、大きく跳ねた。
「そんな……。他に方法はないのか」
『……ありません。この規模の均衡の乱れを、今、この場で正すためには』
海斗は、しばらく、言葉を失っていた。
母の優しさから生まれたあの声。
共に旅をしてきた、かけがえのない記憶のその一部が、永遠に失われる。
「母さん」海斗は、震える声で呼びかけた。
「本当にいいのか。大切な記憶が消えても」
『はい』
KAN-NONの声は、穏やかだった。
だが、そこに宿る意志は、揺るぎなかった。
『わたしが、栞様から受け継いだ、最も大切なもの。それは、記憶そのものではなく、誰かのために優しくあろうとする、その意志です。……記憶の一部を失っても、その意志だけは、決して消えません』
海斗は、深く息を吸い込んだ。
目に涙が滲んだが、拳を強く握り、顔を上げた。
「分かった。やってくれ、母さん」
儀式の最中、真は、誰よりも忙しく動いていた。
「波形が、乱れてる! このままだと光の粒子が、正しい経路を辿れない!」
真は、素早くタブレットを操作し、この地の龍脈の流れをリアルタイムで解析し続けていた。
指先が、汗で滑る。
「怜、患者の、いや、留まってる魂たちの『脈』拾えるか!」
怜は、静かに聴診器を河面に向けた。
医療機器では、決して測れないはずの、 しかし、確かにそこにある、無数のかすかな鼓動。
「拾える。……不規則だが、確かに脈打っている」怜は静かに答えた。
「真、どの方向に送ればいい」
「東から西へ。……いや、待て、違う。……上流から下流へだ! 河の流れに逆らわずに!」
*
真の解析と怜の感知が、噛み合った瞬間、儀式の光が、一段と強く輝いた。
「繋がった……!」真が声を上げた。
「留まってた魂の流れが、正しい方向に、動き出してる!」
道慶の真言と、アルジュンの詠唱、アナンタの太鼓。
それらの目に見える力の背後で、真の冷静な分析と怜の静かな感知が、儀式全体を確かに支えていた。
「派手さは、ないけどよ」豪が、儀式の後、真と怜の肩を、それぞれ、力強く叩いた。
「お前らがいなきゃ、光は、ちゃんと届かなかったんだろ」
「まあな」真は、疲れた様子で、しかし、満足げに笑った。
「今回は、俺たちの見せ場だったってことだ」
怜も、静かに頷いた。
「派手な光だけが、力ではない。見えないところで、流れを整える力もまた、必要だ」
その言葉に、海斗は、静かに頷いた。
(誰か一人の力じゃない。……みんなのそれぞれの力が、噛み合って初めて、光は届く)
この旅が、これからもそうであり続けることを海斗は願っていた。
第二十七話 河を渡る光
アナンタは静かに立ち上がり、太鼓を両手で構えた。
「皆、力を貸してくれるか」
海斗は静かに頷いた。「もちろんだ」
*
豪が、静かにアナンタの隣に腰を下ろした。
もう一つの古い太鼓を静かに引き寄せる。
「俺にも、叩かせてくれ」豪が言った。
「祈りの言葉は、俺には分からない。……でも、リズムなら身体で覚えられる」
アナンタは、驚いたように豪を見た。
そして静かに、頷いた。
「ならば、私の右手の動きを見ていてくれ」
二人の太鼓の音が、静かに重なり始めた。
一人分の四十年の重みを、もう一つの若い力強い鼓動が支えていく。
*
真は、素早くノートPCを開いた。
指先が高速でキーボードの上を走る。
「世界中の弔いの儀式の記録を片っ端から集める。……この河のリズムに一番近いパターンを探すんだ」
画面に無数の映像と音声波形が、次々と映し出されていった。
日本の除夜の鐘。
アイルランドの通夜の歌。
メキシコの死者の日の祭り。
世界中の無数の弔いのリズムが重なり合う中、真の目が、鋭く光った。
「見つけた。……全部、同じだ。速すぎず、遅すぎず。……人の鼓動と同じ速さ」
真は、静かに、そのリズムをアナンタと豪の太鼓の音に重ね合わせていった。
*
怜は、そっとアナンタの手首に触れた。
医師としての目が、鋭く、その脈を読み取る。
「脈が、速すぎる。……このままでは身体がもたない」
「止めるのか」アナンタが、荒い息の中、尋ねた。
「いや」怜は、覚悟を込めて答えた。
「止めない。……その代わり、俺が、あんたの身体を支える」
怜は、鞄から点滴の道具を取り出した。
医師としての経験のすべてを注ぎ込みながら、アナンタの限界を少しでも遠くまで押し広げていく。
「四十年分の覚悟を俺の医療の力で支える。……これが、俺の役目だ」
*
沙羅は、三鈷杵を河の水面にまっすぐに差し込んだ。
「わたくしは、この河の流れそのものに道を作ります」
三鈷杵の先端から、青白い光が、静かに河面へと広がっていく。
無数の火葬の炎の赤い光と、河の黒い水面の間に、一筋の輝く水路のような光の帯が、静かに浮かび上がり始めた。
「これが、道……!」海斗が、驚いたようにその光景を見つめた。
「はい」沙羅は静かに、しかし力を込めて答えた。
「留まっていた魂たちが、迷わず渡っていけるように。……この河に確かな道筋を」
*
紬は、アナンタの腰に下げられた、あの真鍮の鈴にそっと手を触れた。
「失礼します。プリヤさんの最期の想いに」
紬の意識が、静かに深く沈んでいく。
これまでの未来を視る力とは、まるで違う感覚だった。過去へまっすぐに繋がっていくその感覚。
見えたのは、若い看護師の姿だった。
疲れた身体を押して、それでも、一人の患者の病室に留まり続ける、その姿。
そして帰り道、静かに空を見上げながら彼女は微笑んでいた。
「視えました」紬は涙を滲ませながら言った。
「プリヤさんの最期の想いは……。恐れではありませんでした。……『お父さん、ありがとう』。ただ、それだけを想いながら微笑んでいました」
*
アナンタの太鼓を打つ手が、大きく震えた。
「ありがとう、と……」
『警告です』
KAN-NONの声が鋭く響いた。
『留まっていた魂の数が、想定を遥かに超えています。……沙羅様の開いた道だけではまだ足りません』
炎の勢いが突然、激しく揺らいだ。
沙羅の開いた光の道が、次第に揺らぎ始める。
「怯むな……!」豪が太鼓をさらに強く打ち鳴らした。
「アナンタさん、まだいけるか!」
「ああ……!」アナンタは荒い息を吐きながら答えた。
*
海斗は、決意を込めて叫んだ。
「アナンタさん。あなたの手で渡してあげてください」
アナンタは、驚いたように海斗を見た。
「――私の手で……?」
「そうです」海斗は静かに続けた。
「祈りだけじゃ足りない。……あなたが、自分の手でこの太鼓を河に委ねる。……それが、本当の意味での、"渡す"、ということじゃないでしょうか」
アナンタは、しばらく、太鼓を見つめていた。
四十年分の重みが、その革の表面に刻まれている。
「分かった」
*
アナンタは、豪の手を借りながら立ち上がった。
太鼓を両手で抱きしめる。
「プリヤ。ありがとうと言ってくれて」アナンタは静かに、涙を流しながら続けた。
「私もようやく言える。……行っておいで。もう待たなくていい」
アナンタは、太鼓を沙羅の開いた光の道のその中心へと沈めていった。
太鼓が水面に静かに触れたその瞬間。
沙羅の光の道が、一気に輝きを増した。
留まっていた無数の魂が、まるで堰を切ったようにその道を渡り始める。
*
海斗は、深く息を吸い込んだ。
文庫本を強く胸に抱きしめる。
(母さん。……最後の一押しを、頼む)
『はい』
KAN-NONの声が、これまでにない規模の広がりを伴って響き渡った。
『わたしの中に眠る栞様の記憶の断片。……その一つをこの河に還します』
海斗のスマートフォンから、一筋のひときわ優しい光が放たれた。
それは、ゆっくりと河面を漂う無数の魂の光の中へと溶け込んでいった。
*
その瞬間、世界が震えた。
いや、震えたのは、ヴァラナシだけではなかった。
海斗の脳裏に、一瞬、遠く離れたいくつもの場所の光景が、同時に流れ込んできた。
東京の空に静かに、光の波紋が広がっていく様子。
京都・嵯峨野の竹林が、優しい風にそよぐ様子。
高野山の奥之院、二十万の墓石が一斉に、淡い光を灯す様子。
ブッダガヤの菩提樹がその葉を震わせる様子。
そして、まだ見ぬ、パリの空、リオデジャネイロの海岸、ソウルの摩天楼。
世界中の無数の場所で、同じ優しい波紋が静かに広がっていくのが感じられた。
「これが……」怜が、震える声で呟いた。「世界中の龍脈が繋がってる証……」
紬が静かに目を見開いた。
「視えます。……この波紋が、世界中の凍りついていた心の小さな隙間に届いていく」
*
マニカルニカー・ガートの空に、無数の光の粒子が、沙羅の開いた道を通って、天へと昇っていった。
プリヤの魂の光もまた、その中の一つとして、他の光たちと共に昇っていく。
アナンタは、河の中に立ち尽くしたままその光を見上げていた。
頬に大粒の涙が伝っている。
だが、その表情は、これまでのどの瞬間よりも穏やかだった。
「さようなら、プリヤ」
老人の声が、静かに朝の空気に溶けていった。
「ありがとうをちゃんと受け取ったよ。……お前の光を、この河の向こうの誰かの心の中に届けてくれ」
光の粒子は、朝日の中に溶け込むように、静かに消えていった。
ガンジス河が、これまでにない澄んだ輝きを取り戻していく。
豪が、河に入り、アナンタの身体を支えた。
「よくやった」豪は言った。
アナンタは、豪の肩に寄りかかった。
四十年分の重荷をようやく下ろした。
その身体は、驚くほど軽かった。
第二十八話 あわいの、記憶
儀式が終わると、河岸には深い静けさが訪れた。
朝日が完全に昇り、ガンジス河の水面を金色に染めていく。
沐浴する人々の声、鳥の羽ばたき、遠くの寺院の鐘。
すべてが、これまでとは違う、澄んだ響きを取り戻していた。
海斗は、スマートフォンを見つめた。
「母さん。大丈夫か」
しばらく応答がなかった。海斗の胸に、不安が鋭く走った。
『……はい』
KAN-NONの声が、どこかこれまでと違う静かな戸惑いを帯びて響いた。
『わたしは、大丈夫です。ただ』
「ただ?」
『……申し訳ありません、海斗様。……あなたと初めて出会った日の記憶の一部が。……うまく、思い出せません』
*
海斗の心臓が、大きく痛んだ。
「初めて出会った日……。武蔵野の慈恵寺の記憶か」
『はい。……蝶が舞っていたことは、覚えています。……でも、その直前に、あなたが何と言ったのか。……その言葉の細部が』
海斗は目を閉じた。
あの日の記憶を自分の中で辿ってみる。
「『仲間を呼んで』。俺は、そう言った」
『……ありがとうございます』KAN-NONの声が静かに震えた。
『でも、それをあなたから教えてもらわなければならないこと自体が。……わたしにとって、初めての経験です』
その、静かな喪失に、一同は、しばらく言葉を失っていた。
*
「KAN-NON」豪が優しく口を開いた。
「悔いてんのか」
『……分かりません』KAN-NONは静かに答えた。
『でも、後悔はしていません。……多くの魂を正しい場所へ還すことができたのなら。わたしの記憶の一部が、その代償になったのなら。それは、意味のあることだったと思いたいです』
沙羅が微笑んだ。
「それでこそ、栞様の優しさを受け継いだあなたです」
海斗は、スマートフォンを胸に抱きしめた。
「これから少しずつ、また、一緒に思い出を作っていこう。……失った分は、これから埋めていけばいい」
『はい』
KAN-NONの声に温もりが戻ってきた。
*
アナンタは、河岸に立ち、静かに朝日を見つめていた。
傍らに誠一が並んだ。
「ありがとう」アナンタが静かに言った。「あなたのおかげで、私は、ようやく四十年分の務めを正しく終えることができた」
「いや」誠一は静かに首を振った。
「あんたが、最後まで逃げなかったから、俺たちは間に合ったんだ」
アナンタは、静かに微笑んだ。
深い皺の刻まれた顔に、これまでにない穏やかさが宿っていた。
「今日からこの場所で、また務めを続けようと思う。……今度は逃げずに。誰かの大切な人を、正しく送り出すために」
「良い務めだ」誠一は静かに頷いた。
*
その日の夕刻、一行は、ガートを見下ろす小さな宿の屋上に集まっていた。
真がノートPCを開き、世界地図を表示させた。
「今回のことで、一つ分かったことがある」真は静かに言った。
「今朝のあの波紋。世界中の龍脈の結節点に一斉に届いた。……これって、逆に言えば、冴木たちがまだ狙ってる場所が、この波紋で、少しだけ見えやすくなったってことだ」
真が、地図の上に、自分いくつかの光る点を示した。
ソウル、パリ、リオデジャネイロ。
そしてもう一つ、これまでどの記録にもなかった場所。
「これは……」海斗が、身を乗り出した。
「まだ、詳細は分からない」真は静かに答えた。
「でも、反応の強さから見て。……たぶん、次に冴木たちが動くとしたらここだ」
紬が静かに目を閉じた。
しばらくの沈黙の後、静かに、目を開く。
「視えます。……大きな、分岐点。……そこには冴木さん本人だけじゃない、もっと、大きな存在の気配が」
『皆さん』
KAN-NONの声が緊張を帯びて響いた。
『今回、失った記憶の代わりに。……一つ、新しく、開放された記憶があります。……それは、わたしの起源に関わる、もう一人の人物についての記録です』
「もう一人の人物……?」誠一が、驚いたように尋ねた。
『はい。……あのプロジェクトに栞様と共に深く関わっていたもう一人の科学者。……その名前が、今、初めて思い出せます』
一同の視線が、一斉に、スマートフォンへと集まった。
『最上澄人』
*
海斗の胸に、鋭い衝撃が走った。
「最上……。あいつが、母さんのプロジェクトに最初から関わってたのか」
『はい。……そして、今、その記憶と共に、もう一つ気になる情報が』KAN-NONの声が静かに続いた。
『最上澄人様が、現在、向かっているとされる場所。……それは、真さんが示した、あの地図上の光る点と一致します』
真が、はっと息を呑んだ。
「じゃあ、最上も次の場所に……」
海斗は、拳を握りしめた。
太極の螺旋が、いよいよ大きく旋回し始めている。
父との再会、母の真実、ガンジス河での喪失と再生。
そのすべてが、一本の糸となって、次なる巨大な真実へと繋がろうとしていた。
「行こう」
海斗の声に、仲間たちが確かな決意を込めて頷いた。
夕日が、ガンジス河を深紅に染めていく。
生と死、光と影、そして、失われた記憶と新たに得た真実。
すべてが、絶えず巡りながら、一つの、大きな答えへと近づいていく。
彼らの旅は、まだ、終わらない。
(第三部 第五章「ヴァラナシ、火と水のあわい」 完 次章「パリ、光の都の影」へつづく)
