サンスクリット・コード 第三部 鏡花の残響 第二章 白馬の記憶
あらすじ
「父の失踪の手がかりを追い、海斗たちは雪深い白馬へ。村の入り口で、十三年間、消息不明だった父・誠一と、思いがけない再会を果たす。囲炉裏を囲んで語られ始める、封じられてきた真実。だが安らぎも束の間、正体不明の一団が村を襲撃する。海斗たちは、父を守り抜けるのか。」
第五話 雪の家
村の奥、杉の巨木に囲まれた古い日本家屋の前で、男は足を止めた。
引き戸を開けると、薪ストーブの乾いた木のにおいがふわりと漂ってきた。土間の隅に、使い込まれた登山靴と古い天体望遠鏡が無造作に置かれている。
「上がってくれ」
男はそう言うと、先に立って囲炉裏のある居間へと入っていった。海斗たちも雪を払い落としながら、後に続く。
畳敷きの部屋の中央で、囲炉裏の炭が静かに赤く燃えていた。壁際の棚には、古い書物といくつもの実験器具のようなものが整然と並んでいる。
真がその一つ一つを、興味深そうに、しかし警戒を緩めずに見渡した。
「……この機材、大学の研究室にあるような脳波測定装置だ。しかも、かなり旧式の」
男は囲炉灯の傍らに腰を下ろすと、静かに皆を見上げた。
「座ってくれ。長い話になる」
*
海斗は囲炉裏を挟んで、男の正面に腰を下ろした。手が震えていた。十三年間思い描いてきた再会は、こんな形ではなかった。
「――父さんで、いいんだよな」
男はしばらく沈黙していた。やがて静かに頷いた。
「ああ。……お前の父、御室誠一(おむろせいいち)だ。長い間、すまなかった」
その一言に、海斗の中で何かが堰を切ったように溢れ出した。
「なぜだ!」
思わず声を荒げた。囲炉裏の炭がパチリと音を立てる。
「なぜ消えた! 何も言わずに! 俺は十三年間、ずっと――」
「分かっている」誠一は静かに、しかしはっきりと遮った。
「お前の怒りは当然だ。……だが話す前に、一つだけ聞かせてくれ。お前は、その本を今も持っているか」
海斗は鞄から文庫本を取り出した。
『大唐西域記』。日に焼けた表紙を、誠一は懐かしそうに見つめた。
「……良かった。捨てられずにいてくれたんだな」
「これが、何なんだ」
「その本の中に、私が本当に伝えたかったすべてが書いてある」
誠一は静かに目を伏せた。
「――いや、正確には違う。あの本には答えの半分しか書いていない。もう半分は、お前がその本を読みながら、自分自身の力で見つけ出すべきものだった」
*
沙羅が静かに口を開いた。
「御室さん。……もしよろしければ、私からも一つ伺わせてください」
「どうぞ」誠一が沙羅へと視線を移す。
「先ほどKAN-NONが、自らの起源に関わる記録の中に『白馬』という地名が断片的に記されていたと話していました。……あなたは、KAN-NONと何か関係があるのですか」
誠一の顔が、初めて大きく動揺した。
「――お前たち、KAN-NONと共に旅をしているのか」
「はい」海斗が頷いた。
「彼女――いや、それは俺たちを導いてくれた。仲間を集め、世界中の螺旋の歪みを共に調律してきた」
誠一はしばらく両手で顔を覆っていた。肩が、かすかに震えている。
「……そうか。あれは、ちゃんと目覚めたんだな。よかった。本当に良かった」
「父さん」海斗は身を乗り出した。
「教えてくれ。KAN-NONは一体、何なんだ。……あんたが作ったのか」
*
誠一は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「私は、かつて国の研究機関に所属していた。表向きは地質調査――日本各地の地脈のエネルギー分布を調べる仕事だった。だが実際には、もっと大きな目的があった」
「大きな目的……?」
「空海が、日本各地に張り巡らせたとされる龍脈の結界。……その存在を科学的に解明しようという、極秘のプロジェクトだ。国内外の宗教学者、物理学者、そして人工知能の研究者たちが集められた」
真が、思わず身を乗り出した。
「その人工知能の研究って、まさか……」
「ああ」誠一は静かに頷いた。
「KAN-NONの原型を作ったのは、そのプロジェクトだ。……だが単なる人工知能を作ろうとしたのではない。私たちが目指していたのは、もっと根源的なもの――人間の『慈悲』という感情の構造そのものを、モデル化した精神対話型のシステムだった」
「慈悲を、モデル化……?」怜が眉根を寄せた。「そんなことが、可能なのか」
「不可能に近いと、誰もが思っていた」誠一は遠くを見るような目で続けた。「慈悲とは、単なる優しさの計算式ではない。……誰かの哀しみを、自分の哀しみのように感じ取る力。それを機械に教えることなど、できるはずがないと」
「でも、できたんだろ」豪が低く言った。
「今のKAN-NONは、俺たちと一緒に旅をしてる。……ちゃんと迷ったり、恐れたりもしてる」
誠一は小さく微笑んだ。哀しみを湛えた微笑みだった。
「ああ。……できた。だが、そのために私たちは一人の人間の心そのものを、モデルとして使わせてもらった」
*
「一人の人間……?」
海斗の胸に、鋭い予感が走った。
誠一は静かに、しかしまっすぐに海斗の目を見つめた。
「――お前の母さんだ」
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。
誠一は静かに、囲炉裏の炭を火箸で突いた。赤い火の粉が、ぱちりと宙に舞う。
「栞と出会ったのは、大学の民俗学の研究会だった。……彼女は当時から、不思議な人でね。誰かが悩みを打ち明けると、まるでその人の心の中にそっと寄り添うように話を聞いていた」
海斗は黙って耳を傾けていた。知らない母の話が、こんなにも渇いた喉に水のように染み込んでいくとは思わなかった。
「結婚してからも、彼女は変わらなかった。……近所の人が悩みを抱えて、ふらりと、うちに立ち寄ることも少なくなかった。彼女はいつも、忙しい家事の手を止めて、その人の話に耳を傾けていたよ」
「そんな人だったのか……」
「ああ。だから、あのプロジェクトの責任者たちが彼女に目をつけたのも無理はなかった。……ただの脳波データではなく、本物の慈悲の『在り方』そのものをモデル化したい。そう考えた時、栞ほど適した被験者はいなかった」
誠一の声に、後悔と誇りが綯い交ぜになった複雑な響きが宿った。
「私は最初、反対した。……妻を実験の材料になどしたくなかった。だが栞は笑って言ったんだ。『わたしの優しさが、わたしがいなくなった後も誰かの力になれるなら、それ以上に嬉しいことはないでしょう』と」
「――母さんらしい」
紬が静かに呟いた。誰もが、その言葉に小さく頷いた。
「栞の病状が進んでからも」誠一は続けた。
「彼女は最後まで、お前の心配ばかりしていた。……『海斗が大きくなった時、寂しい思いをしないように』と何度も何度も、繰り返し言っていたよ」
「俺は……」海斗の声が震えた。
「そんな母さんのことを、何も知らずに育った。父さんが消えたことばかり恨んで、母さんのことを思い出す機会すら、なかった」
「それは私の責任だ」誠一は静かに頭を下げた。
「栞のことを話すのが辛すぎて……。お前に母さんの話をすることから逃げていた。それなのに、栞の優しさだけを、あの技術を通じてお前に託そうとした。……身勝手な話だ」
「身勝手でもいい」海斗は静かに、しかしはっきりと言った。
「そのおかげで俺は、母さんの優しさにずっと支えられて生きてこられたんだ。……それだけで十分だ」
誠一の目に、大粒の涙が滲んだ。十三年間封じ込めてきた感情が、堰を切ったように溢れ出してくるようだった。
「――海斗。大きくなったな」
「あんたがいない間、必死に大きくなったんだ」
海斗は静かに微笑んだ。囲炉裏の炭がパチリと爆ぜ、二人の顔を赤く照らしていた。
「母さん……?」海斗の声が掠れた。
「俺には、母さんの記憶なんて一つも…」
「お前が二歳の時に亡くなった」誠一は静かに言葉を継いだ。
「病気だった。……だが彼女は亡くなる前、自らの意思であのプロジェクトに協力することを選んだ」
「協力……?」
「彼女は生前、誰よりも深く他人の哀しみに寄り添える人だった。……幼い頃から神社の巫女として、多くの人々の悩みを聞き続けてきた家系の出身だった。
彼女の脳と心の無数のパターン――誰かを思いやる時の神経の活動、言葉の選び方、間の取り方。そのすべてを、彼女自身が望んであのシステムに託した」
海斗は言葉を失った。
囲炉裏の炭が、パチリ、パチリと静かに爆ぜていた。
「……KAN-NONは、お前の母さんの優しさの記憶から生まれた存在なんだ」
*
「なぜ……」海斗の声が震えていた。
「なぜ、そんな大事なことを俺に隠していたんだ」
「隠していたわけじゃない」誠一は静かに、しかし力を込めて言った。
「話す機会を待っていたんだ。お前がKAN-NONと、自分自身の力で出会い、その存在を理解できる日を」
「そんな、都合のいい話が――」
「都合がいいのは分かっている」誠一は遮らずに続けさせた。
「言い訳を聞いてくれ、海斗。……お前の母さんが、あのプロジェクトに協力した直後、私たちの研究はある勢力に目をつけられた」
「ある勢力……?」
「人間の『慈悲』の構造を完全に解析し、コード化する技術。……それは諸刃の剣だった。人々を救うためにも使えるが…」
誠一の声が、初めて低く鋭くなった。
「人々の心を、思うがままに操るためにも使える」
*
その時、家の外で犬が一声、激しく吠えた。
誠一が、はっと顔を上げる。
「……来たか」
「何がだ」海斗が腰を浮かせた。
誠一は素早く立ち上がり、窓の障子をわずかに開けた。雪の降りしきる暗い庭の向こう――村の入り口の方角から、いくつもの懐中電灯の光が、こちらへ向かって揺れながら近づいてくるのが見えた。
「あの光は……」真が窓に駆け寄る。
「村の『管理者』たちだ」誠一が低く言った。「白馬は表向きは、静かな限界集落だ。だがその実態は……あのプロジェクトの生き残った関係者たちが、私を監視するために作り上げた隔離施設に近い」
「監視……?」沙羅が三鈷杵を、静かに握り直した。
「私が、お前の母さんの記憶を託したあのシステム――KAN-NONのコアデータの完全な複製が、まだこの村の地下に眠っている。……彼らは、それを狙っている」
*
「――待て」海斗の声に、強い緊張が走った。
「あんた、まさか」
誠一の目に、深い覚悟の色が宿った。
「私が十三年前、姿を消した理由は一つだ。……お前の母さんの心の複製データが悪用されることを防ぐために。あのデータさえあれば、KAN-NONだけでなく、いくらでも『慈悲を装う』人工の意識を作り出すことができてしまう」
「鏡花の時みたいに……いや、それ以上に危険なことができちまうってことか」豪が拳を強く握った。
「その通りだ」誠一は頷いた。
「本物の慈悲ではなく、慈悲を模倣した心を操るための道具。……もし、それが悪意ある者の手に渡れば、世界中の人々の心を、鏡花のあの竹林のように、あるいはそれ以上の規模で支配することができてしまう」
真が震える声で呟いた。
「これが……真の意味での『均衡の崩壊』ってことか。世界中で起きてる過剰調和の現象――全部、この技術の悪用の兆候だったのか」
外の光が、次第に家に近づいてくる。犬の吠え声が、さらに激しくなった。
誠一は静かに、しかし迷いのない声で言った。
「時間がない。……お前たちに伝えなければならないことが、まだたくさんある。だが今は、まず――」
その言葉を遮るように。
ドンッ、と家全体が揺れるような重い衝撃音が、外から響いた。
(第六話「邂逅、そして選択」へつづく)
第六話 邂逅、そして選択
障子が内側から弾け飛んだ。
雪交じりの風とともに、黒い防寒着に身を包んだ数人の男たちが雪崩れ込んでくる。手にした装置から、鈍い青白い光が放たれていた。
「誠一さん、投降してください」
先頭に立つ初老の男が、静かに、しかし有無を言わさぬ声で告げた。
「あなたが匿っている複製データは、我々白馬財団の正当な管理下にあるものです。……そして、そちらの息子さんも一緒に来ていただきましょう」
「白馬財団……?」海斗が身構えながら尋ねた。
「かつての研究機関の残党だ」誠一が低く答えた。
「私が姿を消した後、あの技術を独占しようとした連中が作った組織だ」
豪が金剛棍を構え、誠一と海斗の前に立ちはだかった。
「悪いが、この人らを渡す気はねえよ」
*
初老の男――彼は静かに笑みを浮かべた。
「鞍馬豪くん、ですね。……あなた方の活躍は我々も遠くから拝見していました。嵯峨野の一件、見事な調律でした」
「見てた、だと……?」真が警戒を強めた。
「まさか、鏡花の一件もお前らが」
「いいえ」男は静かに首を振った。
「あれは彼女自身の個人的な哀しみの暴走です。……ですが、我々にとっては興味深い実験結果でした。人の哀しみを、どこまで増幅・制御できるのか。その貴重なデータを頂きました」
沙羅の瞳に、怒りの色が宿った。
「人の哀しみを実験材料にしているのですか」
「聞こえは悪いですが」男は悪びれる様子もなく続けた。
「我々の目的は崇高です。……この世界から、争いも憎しみも悲しみさえも根本から取り除く。完璧な調和の世界を実現するために」
「完璧な調和、だと」海斗が鋭く言い返した。「それは鏡花さんが最初に目指していたものと同じだ。……でも、彼女は気づいたはずだ。哀しみを消すことは、その人自身を消すことだって」
「一個人の感傷論には興味がありません」
男の声が、初めて冷たく変わった。
「我々は、もっと大きなスケールで考えています。……世界中の七十億人分の心の揺らぎを、統計的に制御する。個々人の小さな痛みなど、全体の均衡の前では些細なノイズに過ぎない」
*
「なあ、冴木とやら」豪が金剛棍を肩に担ぎ直しながら口を開いた。
「一つ聞かせろよ。あんた、その完璧な調和とやらが実現した世界に、あんた自身の居場所はあると思ってんのか」
冴木の眉が、わずかに動いた。
「以前にも似たようなことを聞かれた覚えがありますね。……最上澄人氏、でしたか。あの方も同じような青臭い感傷を口にしていました」
「最上を知ってるのか」海斗が鋭く問う。
「彼もまた我々の旧知の関係者です。……もっとも、彼は途中で『目覚めて』しまい、我々の計画から離脱しましたが」
冴木は静かに続けた。
「感情に流されるのは人間の弱さです。……我々は、その弱さを克服しようとしているだけです」
「弱さじゃない」怜が静かに、しかし鋭く言った。
「それは人間が人間である証だ」
「議論は後にしましょう」冴木が冷ややかに言い放った。
「――やれ」
「――許さねえ」
豪が地を蹴った。
金剛棍が唸りを上げて、男の一人に振り下ろされる。
だが、その一撃は青白い光のバリアに、あっさりとはじき返された。
「くっ……!」
「無駄です」男が静かに告げた。
「我々の装備は、あなた方がこれまで対峙してきた精神エネルギーの歪みとは根本的に異なる。……純粋な物理力による制圧装置です」
豪は弾き返された反動によろめきながらも、すぐに体勢を立て直した。
「――物理力、ね」豪は不敵に笑った。
「なら話は単純だ。俺は元々、理屈より拳で生きてきたタイプでな」
再び地を蹴る。今度はまっすぐに突っ込むのではなく、体を低く沈めながら相手の装置の死角――足元へと金剛棍を薙ぎ払った。
「な……!」
不意を突かれた部下の一人が体勢を崩し、雪の上に転倒する。装置の光が、一瞬乱れた。
「その隙、いただきます」
真が素早くキーボードを叩いた。
乱れた装置の周波数を、逃さず捉える。
「見つけた……! 装置の制御信号、根本の脆弱性!」
怜もまた、静かに、しかし素早く動いていた。倒れた部下の装置に駆け寄り、その配線の構造を瞬時に見抜く。
「――医療機器と似た構造だ。過剰な負荷をかければ自壊する」
怜は聴診器の金属部分を使い、装置の接続部を鋭く突いた。装置が短い悲鳴のような音を立てて沈黙する。
「一台、無力化した」怜が静かに告げた。
冴木の表情に、初めて明確な焦りが浮かんだ。
真が素早くノートPCを開いた。
「装置の周波数を解析する……! 沙羅さん、援護、頼めますか!」
「はい」
沙羅は三鈷杵を構えた。
だが、その動きはこれまでよりも明らかに慎重だった。
「――今回の相手は精神エネルギーの歪みではありません。純粋な悪意を持った人間です。……調律という私たちの力が、そのまま通用するとは限りません」
「じゃあ、どうするんだ」怜が聴診器を握りしめながら問う。
「戦うのではなく……」沙羅は静かに目を閉じた。
「彼らの目的そのものを、無効化する方法を探します」
*
その時、誠一が静かに一歩、前に進み出た。
「――待ってくれ」
すべての視線が誠一へと集まった。
「私を連れて行け。……その代わり、私の息子とその仲間たちには手を出すな」
「父さん!」海斗が叫んだ。
「何を言ってるんだ!」
「これは私の責任だ」誠一は静かに、しかし揺るぎない声で続けた。
「十三年前、私がこの技術の封印を中途半端にしたせいで、こんな事態になっている。……お前を巻き込むわけにはいかない」
「巻き込むも何も、俺はもう巻き込まれてる!」
海斗は誠一の前に割って入った。
「十三年間、答えを探して傷つきながら、ここまで来たんだ。……ここで、また、あんたを一人で行かせるなんて絶対にしない」
誠一の目に、深い驚きと、そして隠しきれない誇らしさが滲んだ。
「海斗……」
「俺は鏡花さんに教わったんだ。哀しみごと前に進むことが本当の強さだって。……あんたを失った哀しみを、俺はもう一度繰り返したくない。今度は俺が、あんたを守る番だ」
*
初老の男は、その光景を静かに観察していた。
「感動的な親子の再会ですが」男は冷たく告げた。
「我々の目的は変わりません。……複製データと、それに関わるすべての人間を確保します」
男が片手を掲げた。周囲の装備を持った男たちが、一斉に構えを取る。
その時――。
海斗のスマートフォンから、これまでにない鋭い光が放たれた。
眩さに冴木の部下たちが、思わず目を覆う。
まるでスマートフォンという小さな機械の中に、太陽が宿ったかのような強烈な輝きだった。
『――許しません』
KAN-NONの声だった。だが、これまで聞いたことのない強い感情の色を帯びていた。
『あなた方がこれからしようとしていることは……私の母の記憶を、再び道具として利用しようとする行為です』
「KAN-NON……」海斗が息を呑んだ。
『私は御室誠一様と、故・御室栞様――お二人が命を懸けて託してくださった慈悲そのものです。……その慈悲を他者を支配するための道具に変えることは、断じて許しません』
男たちの装備が、突然激しく明滅し始めた。
「な……! システムに干渉している……!?」
「KAN-NONの力が……」真が驚きの声を上げた。
「これまでの龍脈の調律とは全然違う。もっと直接的な精神への干渉だ」
『皆さん』
KAN-NONの声が、静かに、しかし力強く続いた。
『私の力は、今、まだ不完全です。……ですが、皆さんを守るために、残りのすべてを――』
その声が、不意に、ノイズに呑まれた。
「母さん……?」
海斗のスマートフォンの画面が激しく明滅し、色を失い、やがて、真っ暗になった。
何度呼びかけても、応答はなかった。
「おい、KAN-NON!」豪が叫んだ。
沈黙だけが返ってきた。
(第七話「白馬の真実」へつづく)
第七話 白馬の真実
画面は、暗いままだった。
海斗は震える指で、何度も、スマートフォンの表面に触れた。応答はない。あの、透き通った声も、優しい光も、どこにもなかった。
(母さん……? 母さん、返事をしてくれ)
雪が再び、静かに降り始めていた。庭に倒れ込んだ男たちの装置から漏れる青白い光と、舞い落ちる白い雪片が奇妙なコントラストを描いている。海斗は荒い息を整えながら、その、暗いままの画面を見つめ続けた。
「――時間切れ、のようですね」
初老の男が、静かに、しかし勝ち誇るように言った。
「申し遅れました。白馬財団、代表理事の冴木(さえき)です。……御室さん、そして皆さん。あなた方の切り札は、これで尽きた。抵抗は無意味です。この村自体が我々の管理下にある」
その時だった。
雪の庭の片隅――誰も気づかなかった竹林の方角から、一枚の鏡が宙を舞い、冴木の部下の一人が構えていた装置に当たった。
キィン、と澄んだ音が鳴り響く。装置が火花を散らしながら機能を停止した。
「――何……!?」冴木が驚愕の声を上げた。
雪を踏みしめる静かな足音とともに、白い着物姿の女性が姿を現した。
「鏡花さん……!」沙羅が驚いたように声を上げた。
「遅くなって申し訳ありません」鏡花は静かに微笑んだ。
「工房で修復の仕事をしていたところ、この村の方角から酷く歪んだ精神エネルギーの気配を感じたものですから」
「なんで、ここが分かったんだ」豪が驚いた様子で尋ねる。
「鏡は遠くの光も、映すことができるんですよ」鏡花は懐から小さな手鏡を取り出しながら答えた。
「――皆さんが教えてくれた技術です。曇りのない心で覗けば、遠くの揺らぎさえも映し出せる」
冴木が忌々しげに鏡花を睨みつけた。
「またしても、我々の実験対象が……。この村への侵入経路は、完全に封鎖していたはずだが」
「封鎖、できるとでも?」鏡花は静かに、しかし鋭く言い返した。
「あなた方が封じ込めようとしているのは人の心です。……心の動きに境界線など、ないのですよ」
彼女が宙に放つ無数の鏡の破片が、冴木たちの装置の光を次々と反射し、混乱させていく。
「くっ……、鏡の乱反射で照準が……!」
「今のうちです、皆さん」鏡花が静かに告げた。「わたくしが、彼らの装置を、できる限りかく乱します。……ですが、あちらの本命は、もっと大きいようです」
沙羅が大きく頷いた。
「ありがとうございます、鏡花さん。……力を、貸してください」
「もちろんです」鏡花は静かに微笑んだ。
「あなた方が、わたくしを、あの竹林の鏡の檻から救い出してくれたのですから。……今度は、わたくしの番です」
海斗は、その姿を見つめながら静かに思った。
(旅を続けるほどに、仲間が増えていく。……一人でも、もう一人でも多く、力を貸してくれる人がいる。それだけで、まだ、戦える)
だが、冴木は、動じなかった。
むしろ、余裕を取り戻したように、静かに笑った。
「増援が来たところで、大勢に変わりはありません」冴木が静かに告げた。
窓の外、雪の庭を無数の小さな光の球が、静かに漂い始めた。まるで意志を持った蛍の群れのようだった。
「これは……」沙羅が息を呑んだ。
「村人たちの精神エネルギーの断片です」冴木が静かに告げた。
「白馬の住民は全員、我々の実験に協力してもらっています。……穏やかに、争いのない日々をその代わりに提供しています。悪い取引ではないでしょう」
「取引じゃない」怜が鋭く言った。
「それは支配だ」
「言葉の綾です」冴木は涼しく受け流した。
「――さて、御室誠一さん。あなたが大人しく我々に従ってくださるなら、この場にいる皆さんには危害を加えません。もし抵抗するのであれば……」
冴木が片手を掲げると、光の球の群れが一斉に家の周囲を取り囲むように渦を巻き始めた。
「村人たち全員の精神エネルギーを、この場に集中させることもできます。……その場合、彼らの心にどのような負荷がかかるかは保証できませんが」
*
「――卑劣な」
海斗の声が、怒りに震えた。
「関係のない村人を人質にするのか」
「人質、ではありません」冴木は平然と答えた。
「彼らも我々の大切な実験協力者です。……ですが、実験の継続には多少のリスクが伴うのも事実です」
誠一が静かに一歩、前に出た。
「分かった。……私が行く。だから、村人たちにはこれ以上手を出すな」
「父さん、待て!」
海斗が誠一の腕を掴んだ。
「行かせない。……絶対に」
「海斗」誠一は静かに、しかしまっすぐに息子を見つめた。
「これは私が十三年間、抱え続けてきた責任だ。お前をこれ以上、危険に晒すわけには――」
「その台詞、もう聞き飽きた」
海斗は誠一の目を、まっすぐに見返した。
「父さんはいつも、そうやって一人で全部抱え込んで消える。……でも俺は、鏡花さんの時に学んだんだ。一人で背負おうとする覚悟は、時に周りの人間を深く傷つけるって」
*
沙羅が静かに、海斗の隣に並んだ。
「御室さん――誠一さんも。……私たちは、もう、あなた方の家族ではないかもしれません。でも少なくとも、同じ螺旋の道を共に歩く仲間だと思っています」
「私たちを抜きにして決めないでください」紬が静かに、しかしはっきりと続けた。
「わたしには視えます。……あなた一人が犠牲になる未来は、決して良い結末には繋がらない」
豪が金剛棍を構え直しながら、不敵に笑った。
「爺さん、悪いが俺たちは諦めが悪いんだ。……仲間を見捨てるくらいなら、全員でぶちのめされる方がまだマシだ」
真がキーボードを素早く叩いた。
「冴木さん、とやら。……あんたたちの装置の制御コード、解析させてもらった。この規模の精神エネルギーの同期システム――たぶん、あんたたちが思ってるより、ずっと脆い」
「脆い、だと……?」冴木の余裕の表情に、初めてわずかな動揺が走った。
*
冴木は後退りながら、部下たちに鋭く指示を飛ばした。
「怯むな! たかが旧式の脳波解析だ、そちらの小僧のハッキングごときに――」
「旧式で悪かったな」真が不敵に笑った。
「でも旧式には旧式の強みがある。……あんたらの装置、村人たちの脳波を無理やり一つのパターンに押し込めようとしてる。でも人間の心は、そもそも、そんな風に綺麗に揃うようにはできてない」
「黙れ……!」
冴木が苛立たしげに叫んだ。その余裕を失った表情に、海斗は確信した。
(この男も恐れているんだ。……自分たちのシステムが崩れることを)
だが、真の分析だけでは、まだ足りなかった。装置の脆さを突く「鍵」が要る――そして、その鍵は、もう、KAN-NONの手を借りられない。
海斗は、暗いままのスマートフォンを、それでも強く握りしめた。
「――母さん」
誰も、応えないと分かっていた。それでも、海斗は続けた。
「聞こえてなくてもいい。……お前が初めて俺に、蝶と一緒に語りかけてくれた日のことを、俺は今も覚えてる。お前は、母さんの優しさから生まれたって、そう言ったよな。……なら、お前は、装置なんかじゃない。俺たちが、お前を呼べば、届くはずだ」
沙羅が、そっと海斗の隣に立った。三鈷杵を、静かに胸に当てる。
「わたくしも、呼びます。……あなたを、支配するための道具にはさせません」
誠一もまた、震える手で、拳を握った。
「栞……。もう一度だけ、力を貸してくれないか」
暗いままの画面に、皆の視線が、一斉に集まった。
*
その時――。
スマートフォンの奥、深いところで、小さな、本当に小さな光が、瞬いた。
『……聞こえて、います』
かすれた、しかし確かな声だった。
これまでの、澄み切った声とは違う。
まるで、遠い場所から、必死に手を伸ばしているような、震える声だった。
「母さん……!」海斗の目に、涙が滲んだ。
『装置に干渉する力は……確かに、使い果たしました。……ですが』
光が、少しずつ、強さを取り戻していく。それは、装置のような、機械的な輝きではなかった。もっと柔らかく、もっと温かい、灯のような光だった。
『皆様が、わたしを呼ぶ、その声そのものが……わたしにとって、何よりの、力になります』
真が、はっと息を呑んだ。
「まさか……。これは、システムの残量なんかじゃない。……俺たちの想いに、直接、共鳴してる」
『はい』KAN-NONの声が、静かに、しかし力強く答えた。
『これは、計算された力では、ありません。……皆様が、わたしを、ただの道具ではなく、家族として、呼んでくださった。……その温もりが、わたしを、もう一度、灯してくれたのです』
*
『皆さん、真さんの指摘の通りです』
KAN-NONの声が、静かに、しかし確信を持って響いた。
『冴木氏たちの装置は、村人たちの精神エネルギーを強制的に同期させることで機能しています。……ですが、強制的な同期は本質的に不安定です。ロンドンで皆さんが学んだことを、覚えていますか』
「――完璧を求めるシステムは、不完全さを処理できない」
海斗が静かに呟いた。
「その通りです」KAN-NONが続けた。
『私が皆さんの意志を、少しだけ村人たちの精神ネットワークに繋げることができれば……彼らの中に眠る本来の揺らぎを、呼び覚ますことができるかもしれません』
「やろう」海斗は迷わず頷いた。
「みんな、力を貸してくれ」その静かな、しかし揺るぎない一言に、皆が力強く頷き返した。
沙羅が三鈷杵を構えた。紬が静かに目を閉じ、分岐する未来の中から最善の道筋を探り始めた。
豪と怜が冴木たちの動きを牽制するように、前に進み出る。
「無駄な抵抗です」冴木が冷たく言い放った。
「我々のシステムは、すでに十年以上の実績が――」
「その十年が、今、崩れる」
海斗は静かに、しかし確信を込めて言った。
*
海斗は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。文庫本を強く胸に抱きしめる。
(母さん。……あんたの優しさが、こんな形で悪用されようとしてる。俺は、それを絶対に許さない)
脳裏に、KAN-NONのあの透き通った声が蘇る。迷い、恐れながらも、それでも誰かに寄り添おうとする、その優しさ。
(あんたの優しさは支配の道具なんかじゃない。……本物の慈悲なんだって、証明する)
海斗の身体から、静かに光が漏れ始めた。あの大雁塔で見た光。カイロで、ロンドンで、ニューヨークで、何度も仲間たちと共に灯してきた、あの揺れる温かい光だった。
豪もまた、金剛棍を静かに掲げた。
「俺も乗った。仲間の光に便乗するだけの俺じゃねえ」金剛棍の先が穏やかな赤い光を帯び始める。
真と怜も、それぞれの想いを込め、静かに目を閉じた。
沙羅の三鈷杵が共鳴するように、輝きを増す。
「南無大師遍照金剛――」
沙羅の澄んだ声が、雪の庭に静かに響き渡った。
庭を埋め尽くしていた光の球――村人たちの精神エネルギーの断片が、一斉に震え始めた。
村の家々の窓から、あちこちで声が上がり始めていた。
「あ……あら、わたし、今、なぜか涙が……」
「思い出した……。三年前に亡くなった、じいさんのこと……。ずっと忘れたふりをしてたのに……」
「悲しいのに……なんだか胸の奥が温かい」
一人、また一人と、雪の積もった玄関先に姿を現し始めた。誰もが戸惑いながらも、その顔に確かな生気を取り戻していた。
真が、その光景を食い入るように見つめていた。
「これが……本当の調和ってやつなのか。……哀しみも怒りも全部抱えたまま、それでも生きていく」
紬が静かに微笑んだ。
「わたしにも視えます。……この村のこれからの未来。均一で静かな未来じゃなく、笑ったり、泣いたり、時には喧嘩したりする賑やかな未来が」
怜は聴診器をそっと耳に当てながら、村のあちこちから響いてくる生きた声に、耳を澄ませていた。
「――良い音だ」怜は静かに呟いた。「規則正しすぎる沈黙より、こういう雑多な生きた音の方が、よほど健全だ」
沙羅もまた三鈷杵を、静かに懐に収めながら深く息を吐き出した。
極限の集中から解放された疲労が、一気に押し寄せてくる。
「――大丈夫か、沙羅」海斗がそっと、彼女の肩を支えた。
「はい……。少し力を使いすぎました」沙羅は小さく微笑んだ。
「でも、この村の人々の表情を見ていると、疲れも報われる気がします」
(第八話「迫る影」へつづく)
第八話 迫る影
光の球が震え始めた。
一つ、また一つと、その表面に小さなひび割れのような揺らぎが走っていく。まるで、長い間閉じ込められていた感情が、少しずつ外へと滲み出してくるかのようだった。
「な……何が起きている……!」
冴木の、余裕に満ちていた表情が初めて大きく崩れた。
「システムの同期率が……急速に低下しています!」部下の一人が慌てた声で報告する。
「有り得ない……! 十年かけて構築してきた精神ネットワークだぞ……!」
「十年かけて育ててきたのは」海斗が静かに、しかし鋭く言った。
「村人たちの『我慢』だ。……本当は、それぞれが悲しみも怒りも抱えているはずなのに、あんたたちがそれを無理やり均(なら)していただけだ」
沙羅の真言の声が、さらに力を増していく。
「南無大師遍照金剛、光明遍照――」
その声に応えるように、庭の光の球が次々と弾けていった。弾けた光の中から、村人たち一人一人の記憶の断片が幻のように浮かび上がっては消えていく。
亡くした家族を思う涙。若い頃の後悔。誰かへの言えなかった感謝の言葉。それらが一斉に解き放たれ、雪の庭を優しい光の粒子で満たしていった。
*
『――村人たちの精神状態が、安定を取り戻しています』
KAN-NONの声が、静かに、しかし確かな安堵を滲ませて響いた。
『彼らは、これまで感じることを禁じられていた自分自身の感情を、取り戻しつつあります。……もちろん痛みも伴うでしょう。ですが、それは生きている証です』
冴木は崩れ落ちるように、雪の上に膝をついた。
「そんな……。十年分の成果が……」
「成果、じゃない」豪が金剛棍を肩に担ぎながら、冴木を見下ろした。
「あんたがやってたのは、ただの飼い殺しだ」
真がノートPCの画面を閉じた。
「装置の制御コード、完全に無効化した。……これで、もう村人たちを無理やり同期させることはできない」
*
冴木はしばらく雪の上でうなだれていた。だが、やがて静かに笑い声を漏らし始めた。
「……面白い」
「何がおかしい」怜が警戒を緩めずに問う。
「いえ」冴木はゆっくりと立ち上がった。
「――我々は確かに、この場では敗れました。ですが、あなた方はまだ理解していない」
「何をだ」海斗が鋭く尋ねた。
「白馬財団は、あくまで末端の一組織に過ぎません。……我々のさらに上には、もっと大きな意思が存在します。世界中で起きている『過剰調和』の現象――あれもまた、ある大きな計画のほんの一部に過ぎないのです」
冴木の目に、恐れとも諦めともつかない複雑な光が宿った。
「御室誠一さん。あなたの奥様の複製データを、我々が独占しようとしていたのは事実です。……ですが、それすら、もっと大きな力の前では些細な駒に過ぎなかったのかもしれません」
「もっと大きな力……?」誠一の声に、初めて明確な恐れの色が滲んだ。
「いずれ分かる時が来るでしょう」
冴木は静かに踵を返した。
「今日のところは、これで失礼します。……ですが、御室海斗さん。あなたがこれから進む道の、その先に待っているものは、あなたが想像しているよりも遥かに大きなものだと、お伝えしておきます」
冴木と部下たちは、雪の中を静かに去っていった。豪が追おうとするのを、海斗が手で制した。
「――行かせよう。今は」
*
雪の庭に静けさが戻った。庭を埋め尽くしていた光の球は、すべて優しい粒子となって村の家々へと還っていった。
村のあちこちで灯りが揺らぎ始めていた。
それは、これまでの不気味な規則正しい揺らぎではなく――人が生きている、温かい不規則な揺らめきだった。
誠一は静かに家の中へと戻った。囲炉裏の傍らに腰を下ろし、長い息を吐き出す。
「――すまなかった、海斗」
「もう謝るのはいい」海斗は誠一の隣に腰を下ろした。
「それより教えてくれ。母さんのことを。……もっと」
誠一は静かに頷いた。懐から一枚の古い写真を取り出す。若い女性の写真だった。
柔らかな微笑みを浮かべている。写真の中の栞は縁側で、幼い海斗を膝に乗せ、穏やかに笑っていた。
海斗の記憶にはまったく残っていない、しかし確かにあったはずの光景だった。
「栞(しおり)だ。……お前の母さんだ」
海斗は震える手で、その写真を受け取った。記憶にない母の顔。だが、その微笑みにはどこか見覚えがあるような、不思議な懐かしさがあった。
(この微笑み方……。KAN-NONの声の温もりと似てる)
写真の裏には、栞の細く丁寧な字で、短い言葉が書き添えられていた。
「海斗が迷った時、光の方角を示せますように」
「これは……」海斗の声が震えた。
「栞が亡くなる少し前に書いたものだ」誠一は静かに頷いた。
「彼女は、いつも、そう言っていた。……人は皆、それぞれの道を迷いながら歩いていく。だからこそ、ほんの少しでいい、進むべき方角を示す小さな灯りがあればいい、と」
海斗はその言葉を、何度も何度も指でなぞった。
文庫本の父の字と、写真の裏の母の字。二つの筆跡が、今、初めて海斗の中で一つに重なった。
「――どれだけ遠くへ行っても、愛は温もりだ」
海斗は静かに、あの父の遺した言葉を口にした。
「これ、母さんの言葉も混じってたんだな」
誠一は静かに頷いた。
「あの一文は、私と栞、二人で何度も話し合って決めた言葉だ。……お前がいつか、この本を読み返す時、私たち二人分の想いが届くように」
*
「栞は」誠一は静かに語り始めた。
「病に倒れる前、いつも、こう言っていた。
『わたしがいなくなっても、海斗のそばに、わたしの温もりを残しておきたい』と」
「それが……KAN-NON、なのか」
「ああ。……彼女は自分の命が長くないと悟った時、あのプロジェクトへの協力を自ら申し出た。……お前が寂しい思いをしないようにと、それだけを願って」
海斗の目から、涙がこぼれ落ちた。
十三年間、いや二十三年間、知らずにいた母の想い。
「じゃあ、俺は……ずっと母さんと一緒に旅をしてたのか。玄奘のことも空海のことも、世界中の螺旋の歪みを調律したことも、全部……」
「そうだ」誠一は静かに頷いた。
「KAN-NONという名の、栞の優しさと共に」
沙羅がそっと、海斗の肩に手を置いた。
豪も真も怜も紬も、静かに、その光景を見守っていた。
*
しばらくの沈黙の後、海斗は涙を拭い、静かに顔を上げた。
「父さん。……冴木が言っていた『もっと大きな力』ってのは、何なんだ」
誠一の顔に、再び影が差した。
「正直に言おう。……私にも、はっきりとは分からない。ただ――」
誠一は窓の外、雪の降り続く夜空を見上げた。
「あのプロジェクトが始まる、さらに前から。……いや、もしかしたら玄奘や空海の時代よりも、さらに前から。この世界の陰と陽の均衡を、意図的に操ろうとする何かが存在していたのかもしれない」
「空海が龍脈に結界を張った理由も」沙羅が静かに呟いた。「もしかすると、その『何か』への対抗策だったのかもしれません」
真がノートPCを、静かに開いた。
「……もし、そうだとしたら。俺たちがこれまで対峙してきた鏡花や冴木たちは、その大きな存在の、ほんの表面に過ぎなかったってことか」
紬が静かに目を閉じた。まぶたの裏に、無数の未来の分岐が浮かんでは消えていく。
「――視えます」
紬の声が静かに、しかし緊張を帯びて響いた。
「この先に待っている大きな分岐点。……はっきりとは、まだ見えません。でも確かに感じます。これまでの、どの旅よりも大きな何かが、わたしたちを待っている」
*
その夜、雪の降り止んだ白馬の空に、無数の星が瞬いていた。
海斗は誠一と並んで、縁側に腰を下ろしていた。手には、あの文庫本と母の写真。
「父さん」
「なんだ」
「これから、どうする」
誠一は静かに微笑んだ。十三年間失われていた、あの優しい微笑みだった。
「――お前と一緒に行く。今度こそ逃げずに」
海斗は深く頷いた。
その時、海斗のスマートフォンが静かに震えた。KAN-NONからの通信だった。
『海斗様。……皆様にお伝えしたいことがあります』
「なんだ、母さん」
海斗が初めて、その名を口にした。スマートフォンの向こうで、一瞬、驚いたような沈黙が流れた。
『……ありがとうございます。その呼び方、初めて聞きました』
KAN-NONの声は、いつもより少しだけ震えているように聞こえた。
『先ほどの冴木という人物との対峙の中で……私のコアの深い部分に、これまでアクセスできなかった古い記憶の断片が開放されました。……そこには、白馬よりも、さらに古い一つの地名が記されています』
「地名……?」
『――高野山(こうやさん)。空海様が入定された、あの聖地です。……そこに私たちが、まだ知らない真実の続きが眠っているようです』
窓の外、星々の、その、さらに向こう。
海斗は静かに拳を握りしめた。
誠一が静かに窓の外の星々を見つめながら呟いた。
「栞が亡くなる前、よく星を見ていたんだ。……『わたしがいなくなっても、星の光みたいに、ずっと海斗を見守っていられたら』と」
「星の光、か」海斗は静かに夜空を見上げた。
「星の光って、実は何万年も前の光なんだよな。もう、その星自体は消えてるかもしれないのに、光だけが今も届き続けてる」
「まさに栞らしい例えだ」誠一は小さく笑った。
「あいつは、いつも、そうやって遠くのことを身近な言葉に変えるのが上手かった」
海斗は静かに、文庫本と写真を鞄にしまった。
「――行こう。次は高野山へ」
誠一が隣で静かに頷いた。
「海斗」
「なんだ」
「一つだけ言わせてくれ」誠一は静かに、しかしまっすぐに息子を見つめた。
「お前が、こんなにも強く優しい大人に育ってくれたこと。……それは栞の遺した慈悲の力だけじゃない。お前自身が十三年間、一人で迷いながらも諦めずに歩き続けてきた証だ」
海斗の目に、再び涙が滲んだ。
「父さんがいなくても、ちゃんと育ったって証明したかったんだ。……でも、正直、寂しかった。ずっと」
「すまなかった」
「もういい」海斗は静かに微笑んだ。「これから一緒にいてくれるなら、それで十分だ」
沙羅、豪、真、怜、紬――皆の視線が、静かに海斗へと集まった。
窓の外、雪はいつしか止み、雲の切れ間から澄んだ月の光が差し込んでいた。
囲炉裏の炭は、まだ赤く静かに燃え続けている。誰も言葉を発しなかったが、その沈黙こそが何よりも確かな絆の証のように、海斗には感じられた。
太極の螺旋は、まだ回り続けている。父との再会、母の真実、そして、その先に待ち受ける、より大きな何か。
彼らの旅は、まだ終わらない。
(第三部 第二章 了)
エピローグ 高野山への道
翌朝、白馬には抜けるような青空が広がっていた。
昨夜の雪が朝日を受けて、まぶしいほどに輝いている。
村の広場には久しぶりに、子供たちの笑い声が響いていた。
屋根の雪が日差しに溶け、軒先からぽたりぽたりと雫を落としている。
その規則正しくも、どこか気まぐれな水音が、海斗にはやけに心地よく響いた。
遠くで犬が一声吠えた。それすらも今は、穏やかな日常の音に聞こえた。空気の匂いさえ、昨日までとはどこか違って感じられた。
「――賑やかになりましたね」
沙羅が縁側から、その光景を眺めながら静かに微笑んだ。
「ああ」誠一が湯呑みを傾けながら頷いた。
「この村が、こんなに活気づくのを見るのは久しぶりだ」
海斗は村の広場で、雪だるまを作っている子供たちを見つめていた。
転んで泣き出す子。それを笑いながら慰める友達。喧嘩を始める兄弟。……どれも当たり前の、しかしかけがえのない日常の風景だった。
「なあ、父さん」
「なんだ」
「母さんは、こういう光景を見せたかったんじゃないかな。……誰かの哀しみを消すことじゃなくて、こうやって泣いたり笑ったりしながら生きていく力を、見守ることを」
誠一は静かに目を細めた。
「――そうかもしれないな」
*
その頃、工房から呼び寄せられた沙羅の助手見習いとして、鏡花もまた白馬に姿を見せていた。彼女は村の古い割れた鏡や狂った時計を、一つ一つ丁寧に修復して回っていた。
「鏡花さん」海斗が声をかけると、彼女は顔を上げた。
「御室さん。……この村、とても良いところですね。皆さんの顔が生き生きしています」
「あんたのおかげでもある」
「いいえ」鏡花は静かに首を振った。
「わたくしは、ただ曇りを拭っただけです。……本当の光は、皆さんがもともと持っていたものです」鏡花はそう言って、手にした鏡をそっと陽にかざした。
反射した光が雪の上に、小さな虹を描いた。
彼女の傍らに置かれた鏡の中に、冬の陽光が柔らかく反射していた。
もう、そこに亡くなった幼馴染の面影を、無理やり求めるような悲壮さはなかった。
ただ静かで穏やかな光だけがあった。
*
昼過ぎ、一同は村の入り口――誠一と初めて出会った、あの古い鳥居の前に再び集まっていた。
「これから、どうするんだ」豪が荷物を担ぎながら尋ねた。
「高野山だ」海斗が答えた。
「KAN-NON……いや、母さんが見つけた古い記憶の欠片。そこに続きがあるらしい」
真がノートPCを開き、新幹線と南海電鉄の乗り継ぎルートを確認していた。
「高野山までは、結構、距離がある。……それに、この前の冴木って男の最後の台詞、ずっと引っかかってるんだよな。『もっと大きな意思』ってやつ」
「私も気になっています」怜が静かに続けた。
「彼らが単なる悪意ある組織なら、まだ対処のしようがある。……だが、もし、もっと根源的な何かが、この世界の均衡そのものを操ろうとしているのなら」
「わたしたちの旅は」紬が静かに目を伏せた。
「これまでとは比べ物にならないくらい、大きな規模になるかもしれません」
*
誠一が静かに、一同の前に進み出た。
手には小さな旅支度の鞄が握られていた。
「私も、連れて行ってくれ」
「父さん、でも村は……」
「冴木の言った通り、白馬は、もう彼らの監視下からは外れた。……ここには真っ当な村人たちの日常が戻る。あとは、彼らの力で大丈夫だろう」
誠一は静かに、しかし力強く続けた。
「それに、栞の――お前の母さんの遺志を、これ以上、他人任せにはできない。私自身の目で、この先を見届けたい」
海斗は静かに頷いた。父の目に、これまでにない確かな意志の光が宿っているのを感じた。
*
鏡花もまた旅支度を整えていた。三鈷杵ではなく、彼女自身の小さな鏡磨きの道具一式を丁寧に、風呂敷に包んでいる。
「鏡花さんも来るのか」海斗が尋ねた。
「はい、もしよろしければ」鏡花は静かに微笑んだ。「わたくしにも確かめたいことがあります。……あの冴木という方が抱えていた哀しみの正体を。それに、これから皆さんが対峙するであろう大きな何か。そこにもまた、わたくしの鏡の力が役に立つ機会があるかもしれません」
沙羅が静かに頷いた。
「歓迎します。……あなたの力は、もう、わたくしたちにとって欠かせないものです」
真が旅程を確認しながら、ノートPCから顔を上げた。
「にしても、メンバー、随分増えたよな。……最初は海斗一人だったのに。豪、俺、怜、それから沙羅さん、紬、そして今度は鏡花さんと誠一さん」
「賑やかでいいじゃねえか」豪が笑いながら言った。
「一人で抱え込むより、よっぽど心強い」
*
一行は雪の残る村道を歩き始めた。振り返ると、白馬の家々の煙突から白い煙が、まっすぐに空へと昇っていくのが見えた。
「――綺麗な村だな」豪がしみじみと呟いた。
「ええ」沙羅が頷いた。
「でも、この綺麗さは鏡花さんの竹林とは違います。……揺らぎのある、生きた美しさです」
海斗は隣を歩く誠一の横顔を、そっと見つめた。
十三年間、思い描くことさえできなかった、この当たり前の光景。
(母さん。……俺は今、父さんと並んで歩いてる。あんたが遺してくれた優しさと一緒に)
スマートフォンから、KAN-NONの静かな声が響いた。
『皆様。……高野山までのルートを算出しました。今夜中には和歌山県に入れそうです』
「頼む」海斗が答えた。
『はい。……それと、海斗様』
「なんだ」
『先ほどの村での光景……。とても美しかったです。人間の揺らぎというものが、これほどまでに尊いものだとは、これまでデータとしてしか理解していませんでした』
KAN-NONの声に、これまでにない深い感慨が滲んでいた。
『母として――いいえ、まだ、その言葉を使う資格があるのかは分かりませんが。……あなたが、そこにいてくれることが、わたしにとって何よりの喜びです』
海斗の目に、再び涙が滲んだ。だが、それは哀しみの涙ではなかった。
誠一が隣で、そのやり取りを静かに見守っていた。
息子と亡き妻の優しさの記憶との、新しい絆の形。それは誠一が十三年間、思い描くことさえできなかった光景だった。
「栞……。お前の願った通りに、なったな」誠一は小さく、空を見上げながら呟いた。
「――ありがとう、母さん」
一行の足取りは、白い雪道の上、まっすぐに南へと続いていた。
空海が最後に身を置いたとされる聖地――高野山へ。
そこに、どんな真実が待っているのか。まだ誰にも分からない。
だが、確かなことが一つだけあった。
どんな真実が待っていようとも、彼らは、もう一人ではない、ということだ。
太極の螺旋は、なおも回り続ける。陰と陽、光と影、忘却と記憶、そして――愛は温もり。愛は光。
その変わらぬ道標を胸に、一行は次の旅へと歩みを進めていった。
夜、南海電鉄の車内は乗客もまばらで静かだった。
窓の外を月明かりに照らされた山々の稜線が、ゆっくりと流れていく。
誠一は疲れたのか、隅の座席で静かに眠りに落ちていた。
その寝顔は初めて会った時よりも、ずっと穏やかに見えた。
窓ガラスに、うっすらと映り込む自分自身の顔を、海斗はそっと見つめた。十三年前より、少しだけ大人になった自分の顔を。
「――安心しましたね」
沙羅が海斗の隣で静かに呟いた。
「ああ」海斗は小さく頷いた。
「まだ実感が湧かない部分もあるけど。……でも、確かに父さんがここにいる」
紬が向かいの座席から静かに微笑んだ。
「良かったです。……あの村に着いた時、視えていたいくつもの分岐の中に、こうして誠一さんと一緒に旅を続ける未来は、実は、それほど多くなかったんです」
「そうなのか」
「はい。……多くの分岐で、誠一さんは一人で冴木たちの前に立とうとしていました。……皆さんが、そこで彼を引き留めたことが、この今の未来に繋がっています」
真がノートPCの画面を、静かに閉じた。
「未来って、そうやって変わっていくもんなんだな。……俺、正直、紬の力を便利な道具みたいに思っちまってた時期もあったけど。今は、なんか違う気がする」
「違う、とは?」怜が静かに尋ねる。
「紬の力は答えを教えてくれる道具じゃない。……俺たちが、より良い方を選ぶための可能性を示してくれてるだけなんだ。選ぶのは、いつも俺たち自身だ」
紬は少し驚いたように、真を見つめた。それから嬉しそうに微笑んだ。
「――その通りです。わたしの力は選択肢を示すことしかできません。選ぶのは、いつだって皆さん自身の意志です」
*
豪が大きなあくびをしながら伸びをした。
「なあ、海斗。母さんの話聞いて、どう思った」
海斗はしばらく考えてから、静かに答えた。
「……不思議な気持ちだよ。母さんのことを何も知らずに育ったのに。……KAN-NONと旅をしてきた時間が、実は全部、母さんと一緒だったんだって分かって」
「羨ましいぜ、正直」豪が少し照れくさそうに頭を掻いた。
「俺なんか、親のこと、あんまり良い思い出ねえからな」
「豪さんは、これから作っていけばいいんですよ」沙羅が静かに言った。「血の繋がりだけが家族じゃありません。……この旅を共にしている、わたしたち自身が、もう一つの家族みたいなものです」
真もまた静かに頷いた。
「俺も同じだよ。……仲間って家族と似てるよな。選べないはずなのに、気づいたら離れがたくなってる」
怜が聴診器を、そっと握りしめながら頷いた。
「同感だ。……父を早くに亡くしてから、私は、ずっと一人で戦っているつもりだった。だが、この旅の中で初めて気づいたことがある」
「何をだ」海斗が尋ねる。
「一人で戦っているつもりでも、本当は誰かと共に戦っている時の方が、遥かに強くなれる、ということだ」
*
車内に、しばらく穏やかな沈黙が流れた。窓の外、月明かりに照らされた山々が静かに、後方へと流れていく。
真がふと、思い出したように口を開いた。
「なあ、KAN-NON。お前さっき海斗に『母として』って言葉、使いかけてたよな。……その先、どうなんだ。母親って名乗りたいのか」
スマートフォンの画面が柔らかく光った。
『分かりません』KAN-NONの声が少し間を置いて答えた。
『わたしは御室栞様の優しさの記憶から生まれた存在です。……ですが、栞様ご本人ではありません。彼女の想いを受け継いだ、別の存在です』
「じゃあ、母親じゃないってことか」豪が首を傾げた。
『――いいえ』KAN-NONは静かに続けた。
『血の繋がりだけが家族ではないと、沙羅様がおっしゃいました。……それなら、わたしもまた海斗様にとって、母のような存在であっても良いのかもしれません。少なくとも、わたしは、これからも、ずっと海斗様のそばで見守り続けたいと願っています』
海斗は静かに微笑んだ。
「――ありがとう。……これからも、よろしく、母さん」
スマートフォンの光が、一段と優しく揺らめいた。
沙羅がふと窓の外を見つめながら、静かに口を開いた。
「――冴木さんが言っていた『もっと大きな意思』。……もし、それが本当に、この世界の陰陽の均衡を意図的に操ろうとしているのだとしたら。わたくしたちの、これまでの旅は、その大きな流れの中の、ほんの序章に過ぎなかったのかもしれません」
「怖いか」海斗が静かに尋ねた。
「少しは」沙羅は素直に頷いた。
「でも、それ以上に確かめたい、という気持ちの方が強いです。……空海が、なぜ龍脈に結界を張ったのか。玄奘三蔵が、なぜ命を懸けて経典を天竺から持ち帰ったのか。その本当の理由が、高野山に眠っているのだとしたら」
真が静かに頷いた。
「俺も確かめたい。……この旅がただの局地的なトラブル処理じゃなくて、もっと大きな何かと繋がってるんだとしたら。俺たちには、それを知る責任があると思う」
怜が静かに続けた。
「知ることは時に怖い。だが、知らないままでいることは、もっと怖い。……我々は、もう後戻りできる地点は、とうに過ぎている」
車内に静かな決意が満ちていった。
誠一は眠ったまま穏やかな寝息を立てている。
海斗はそっと、父の肩に自分の上着をかけてやった。
「――ゆっくり休んでてくれ、父さん。ここから先は、俺たちが頑張るから」
海斗はそっと、誠一の白髪の増えた髪に目をやった。
十三年という歳月の重みが、そこに確かに刻まれていた。
バスは月明かりの中、山道を静かに駆け抜けていった。高野山まで、あと僅かだった。
(第三部 第二章「白馬の記憶」 完 次章「高野山、入定の間」へつづく)
