八月三十一日の、二十三時五十九分
九月一日の朝になった。
昨日まで八月だった。たった一日しか違わないのに、九月という文字を見ると、夏が急に遠くなった気がする。
もちろん、まだ暑い。外に出れば汗をかくし、冷房もまだ必要だ。
それなのに、
「夏は終わった」
と言われると、なんとなく納得してしまう。
夏って、いつ終わるんだろう。
この夏、たくさんのエッセイを読んだ。
「#エッセイしりとり2026夏の陣」という企画だった。
誰かが書いたエッセイの最後の文字を受け取って、次の誰かが書き始める。
たったそれだけのルールなのに、出てくる話は驚くほど違った。
食べものの話から、仕事の話まであった。
どうしてそこに着地したんだ、と笑ってしまうものもあった。
同じ一文字から始まっているはずなのに、その先には、その人にしか見えていない景色があった。
読んでいるうちに、しりとりというより、人の頭の中を少しだけ覗かせてもらっているような気がしてきた。
不思議だったのは、誰かにとっては何でもないものが、別の誰かにとっては一本のエッセイになることだった。
プリンでもいい。
タオルでもいい。
道でもいい。
昔聞いた言葉でもいい。
昨日まで見過ごしていたものを、誰かが文章にする。
すると、それを読んだ次の日から、少しだけ同じものの見え方が変わる。
「ああ、こういう見方もあるのか」
何度もそう思った。
エッセイを読むというのは、知らない人生を知ることだと思っていた。
でも、この夏は少し違った。
知らない人生を知るというより、
自分が知っている日常に、知らなかった見方を増やしてもらうこと
だった。
しりとりには終わりが来る。
ずっと続けようと思えば、たぶん続けられる。
最後の文字は、必ず残るからだ。
誰かが書き終えれば、そこには次の人が始められる一文字がある。
企画には、終わりがある。
八月三十一日の午後十一時五十九分と、九月一日の午前零時。
その間に、気温が突然下がるわけではない。
海の色が変わるわけでもない。
セミが一斉に黙るわけでもない。
ただ、日付が変わる。
それだけなのに、私たちはそこに「終わり」を置く。
考えてみれば、エッセイしりとりで読んだ文章もそうだった。
文章そのものは終わっている。
でも、読んだ人の中では、少しだけ続いている。
スーパーでプリンを見て、誰かの文章を思い出すかもしれない。
タオルが乾くのを待ちながら、前とは違うことを考えるかもしれない。
いつもの道を歩いていて、昨日までは気づかなかったものに目が止まるかもしれない。
書いた人が知らないところで、文章の続きを読者が勝手に始めている。
しりとりは、最後の文字を渡すことだけではなかった。
一人の見方を、次の誰かに渡していくことだった。
九月一日。
夏が終わった。
エッセイしりとりも終わっていく。
昨日まで読んだ文章が、消えるわけではない。
夏にあった出来事が、九月になった瞬間になくならないのと同じだ。
誰かが書き終えた文章を読んで、
昨日まで見えなかったものが、少し見えるようになる。
しりとりは終わる。
それでも、
私たちの日常には、
まだ書かれていない一文。
この夏、エッセイしりとりで出会った皆さんへ
「#エッセイしりとり2026夏の陣」。
審査員として、本当にたくさんの文章を読ませていただきました。
笑ったものも、立ち止まったものも、
「そんなところから書けるのか」と驚いたものもありました。
書いてくださった皆さん。
そして、この場所をつないでくださった皆さん。
ありがとうございました。
#エッセイしりとり2026夏の陣
企画ページ
この夏、出会った記事・書き手
まき@こどもと日々成長中さん
諏訪貴信さん
『noteが盛り上がっている!コンテストの審査員になりました』
コハクシスさん
『漢気って言うじゃん。』
そして、この夏に書いたもの。
