本日大安にてnoteデビューを飾る長いご挨拶
本日大安、今日よりまたひとつチャレンジを始める。
ってほどのことじゃないかもしれないが、noteにも駄文を綴ることにする。『昭和びと秘密基地』読者のみなさまにとっては、今日は少々不思議な文章になると思われる。他方、noteより入ってきたみなさまも、なんのこっちゃとなるわけで、その説明をさせていただく。
はじめまして、北村明広と申すちんけな野郎にござる。今日に至る仕事歴をまずお聞きくだされ。
バイク雑誌業界とのラッキーな出会い
“売れない”ミュージシャンを経て、広告代理店勤務から1991年に会社を設立した。翌年に事業を開始して2023年まで31年間、この会社で奮闘を繰り返した。
広告代理店勤務で「俺ったら仕事できるじゃん」と調子に乗って設立したものの、仕事はそうカンタンに舞い込むわけがない。無謀な20代だった。なんとかおまんまが食えるようになってきた93年の暮れのこと、ある出版社から忘年会の誘いを受けた。だがこの日は先客をプログラムしていたから断った。が、当日キャンセルとなり出版社の忘年会のことを思い出し、行くことにした。結果、未来を引き当てたのだった。
彼らが出版するオフロードバイク雑誌の集いだった。この雑誌に代理店として、ほんのわずかな広告を入れていただけのチンピラだ。出席を後悔するほど大物やベテランさんたちばかりで、完全なる場違いだったが1人の重鎮と話が合った。
無謀? 400万円で買った広告枠
年が明けてあらためて彼のオフィスに呼ばれて話し込むと、オフロードバイク雑誌を立ち上げたいとのことで、この広告屋として動かないかとの誘いだった。若い会社とやりたいのだと。誘われるがまま、次は出版社への同行を求められた。そこの社長とオフロードバイク雑誌編集の重鎮、社長を名乗るもののチンピラの三者会談である。2人の大人に脅される子羊のごとく、1冊丸ごとの広告権利を400万円で買い取ることになってしまった。
ここからがさあ大変。まだ20代のバイク業界なんざ何も知らない男が、新創刊雑誌の広告の仕切り役としてデビューしたのだ。なんとかかんとか600万円超えの広告を引っかき集めた。つまり200万円以上の利益が出た。これをきっかけにデビューしたバイク雑誌業界で、次々と仕掛ける男になっていったのだ。
快進撃のバイク雑誌と並走する事業を生みたい
「カワサキバイクマガジン」なるとんでもない発想の雑誌を、96年にプロデュースして、翌年にはバイク雑誌の常識を覆すミニサイズ(A5版)の「ジパングツーリング」を立ち上げた。さらに98年には「カワサキバイクマガジン」の編集長に就任して、大ヒット雑誌に育てた。飽き足らず、休眠中だった出版社を買収してついに出版社の仲間入りを果たした。一発目は2000年の「タンデムスタイル」だった。以降、「カスタムピープル」「レディスバイク」「風まかせ」「アンダー400」「スクーターデイズ」と、次々と立ち上げていった。バイク業界でも異色の存在に育っていき、先輩編集者や出版社からはさぞ煙たかっただろう。
攻撃の手を緩めない。バイク業界だけでは不安だからと、初の音楽雑誌「音に生きる」を創刊させた。3年にわたり懸命にタクトを振ったが、廃刊の判断をせざるを得なかった。大失敗だった。だが他業界を諦められない。ターゲットしたのが昭和カルチャーで「世にも珍しい年齢限定誌」のふれ込みで「昭和40年男」を作った。当初は大のつかないシングルヒット程度だったが、スタッフたちの必死の努力で大ヒット雑誌となり、今も堂々と続いている。
コロナの地獄の末に行き着いたさらなる地獄
とまあ、雑誌畑でうごめいてきたわけだが地獄が訪れる。2020年の3月だ。コロナだ。広告やイベント売り上げがとんでもないことになった。それからは毎日が地獄で、国の制度を使っては立て直しに尽力を続けた。だが2022年の春に、ついに使える制度がなくなった。自宅の売却や保険解約などして金を突っ込んだが、残酷なほどに溶けていく。3年間の地獄の日々を経て、2023年1月13日に倒産してしまった。
表現の仕事や、得意とする企画やコミュニケーションのデザインなど、人と人で何かを生み出すような仕事から離れることにした。全ての友の前からも去るつもりだった。だが人間は弱くもあり、強くもある。
息をすることさえも困難なはずが、なぜ立ち直れた?
それまでも友を大切に生きてきたつもりだが、あらためてその存在の大きさを知った。次から次へと見舞いに現れては、励ましてくれる。甘えることはしなかったが、金を用意したと言ってくれる友もいた。涙を流してくれた先輩や、クライアントまでもが変わらぬ友だとおっしゃってくれる。ひっそりとしばらくは声をかけず、だいぶしてから連絡を取ってくれたりと、数えきれないほどの友からの愛を得た。一方で、当然のことながらご迷惑をかけた方々からの罵声は止まらない。だがそのパワーは圧倒的に前者が勝った。やがて、弱い筆ながら文章を書き始めたのだ。
人生の地獄と、日々踏み出したやっとの一歩を「倒産社長の地獄」と「再起業に向けて」、そして友への感謝を「友ありて人生」とカテゴライズした。抜けた話も書きたいなと「よもやま話」と「昭和びとグルメ」の2つも装備して、5つのテーマのどれかで毎日書き続けてきた。その数、昨日で838本である。申請してくださった方にだけ読んでいただく、サロンのようなサイトを『昭和びと秘密基地』と名付けた。おいおいnoteから来た新規の読者さんにもご覧いただけるようにしたい。
今さらながら、なぜnote進出なのか?
先月9日にワニブックスより「俺たちの昭和後期」を上梓した。このあとがきの最後に、お礼の数々を綴った。まずは直接的に協力を賜った作家と執筆家に向けた。続けて拙著の編集者に。さらには前述した友たちへと向けたのだ。
〜『昭和40年男』を失った後に声をかけてくれた全ての皆様にお礼を申し上げる。あなた、そこのあなたもそうですぞ。おかげさまで『俺たちの昭和後期』を書き上げることができた。「ありがとう」〜
と綴ったのである。続けてラストメッセージとしてこう書いた。
〜俺たち昭和後期世代の大健闘を祈り筆を置きます。どこかでお会いできる機会がありましたら、一緒に酒を呑みましょう。〜
こう締めて発行を待つ間に気がついた。このラストメッセージに呼応したいと考えてくださった読者さんがいたとする。杯を酌み交わそうと。だが吸い上げられる術がない。会社を手放す以前の発信力も決して強くはなかったが、以後はほぼなにもない。慌ててフェイスブックとXを開始したが、すぐに多くのフォロワーがついてくれるほど甘いものでない。慌てたまま、本日の大安に乗じてのnoteデビューということだ。今後はしばらく「よもやま話」と「昭和びとグルメ」を中心に、『昭和びと秘密基地』と双方にあげることにする。課題としては、こちらから入っていただいた方々に、他の3つのカテゴリーと過去記事にどうふれていただくかを考察していきたい。
ずいぶんと長い講釈になってしまった。新しい読者さん、どうぞよろしくお願いします。

