満洲まで日本が進出してから100年 哈爾浜→ジャムス→虎林へ
哈爾浜(ハルビン)駅に戻ってきた。
緯度は札幌よりやや北、気温は30度くらい、但し日差しはかなり強い。
夜になるとぐっと涼しくなり、時折寒く感じる。
1909年、伊藤博文はこの駅の一番ホームで暗殺された。





1904年からの日露戦争に日本は勝ち、中国(満洲)の領土権について、ロシアの役人との交渉に伊藤は出向いた。
当時、満洲は北からはロシアに、南からは日本に侵略され、まさに板挟みだった。正確には、ロシアとは手を組み、鉄道をロシアにひくことを許していた。日本から身を守るためだ。
この事件を整理すると、満洲の土地で、ロシア人と会うために出向いた日本人が、韓国人(安重根)に殺された。
中国は喜んだ、だから今でも安重根をたたえる記念館が駅にはある。
日本も伊藤の功績をたたえて、1000円札の肖像にはなった。
時は流れ、191年の満洲事変により、日本は中国の治安の悪さを、満州族(溥儀)と正義感を持って、整備する名目で満洲への侵略を本格的に始めた。
ついで、1932年の満蒙開拓、つまり田中義一内閣が、世界恐慌で日本の経済がガタガタになり、満洲への開拓団(一般市民の移植・派遣)策を決めた。
長野県南部の阿智村など、多くの一般人が満洲を夢見て、やってきた。半分は騙されていた。
しかしここはとにかく北、つまり寒い、だから農作には向いてはいない、肥えていない土地だった。 関東軍は満洲族を脅して、土地を安く買い上げ、日本人に与えた。
その代表的な土地がジャムスだ。ハルビンから東北に200キロほど。
今は高鉄で2時間ほど、とても風光明媚な草原の中を高速列車がひた走る。


しかし、このジャムスには、もう戦争遺産はあまり残っていないとのこと。
グーグルで調べたはずの博物館は移転していた。
タクシーで10元10分、出向いてみた。











更にこのジャムスから虎林(コリン)という街まで足を伸ばすことにした。 ジャムスからローカルバスで、5時間半、かなり遠かった。




この虎林で生まれた有名人といえば、板東英二だ。「燃えろドラゴンズ」も板東英二バージョンが一番しっくりくる。 数週間前に坂東は亡くなったが、今も甲子園大会奪三振記録(83個)を持っているのは、凄い。70年破られていない。
その坂東家も満蒙開拓で、虎林に移住、敗戦を機に帰国を果たす。当時坂東は5歳、母親は満洲に置いていくことを決意するも、坂東が涙流らに列車を追いかけてきたので、連れて帰ったとか。 いずにしても80〜100年前に日本人がわんさかこの地にいたとは信じがたい。
虎林から、一時間ほどバスに乗ると、虎頭という地区があり、ここはロシアとの国境、日本がここに要塞や大砲台を作り、ロシアと睨み合った。
そして第二次世界大戦が終わった土地と言われている。奇しくも8月9日は、長崎原爆投下の日でもあるが、ロシアが日露中立条約を破棄して、満洲を、攻めてきた日でもある。
そんなにたまたま訪れたからか、現地は混み合っていた。

なぜ、ここまで100年近く前のものが残されているのか、それは被害を受けたからだ。
日本にも広島、長崎原爆記念館、ひめゆりの塔がある。これは全てやられた方の記憶のためであり、やった方の記録の姿はない。黒歴史をあえて公開、公表などしたくないからだ。
ドイツ対ポーランドのアウシュビッツ然りだ。
私が中国の博物館をいくつか回った限り、相当日本は中国でひどいことをしてきた。少なくともそう記載されている。日本侵略何とかと。
人体実験は象徴的だ。
毒で戦争を制すために、中国人に毒を注射して死ぬかどうか実験していた通商731部隊だ。
だから、最終的に原爆を落とされたのは、日本の暴走を止めるためには、むべやむなしだったのだろう。

日本の教育で、何となく日本は被爆国・被害国であると習ってきたが、実際はそれは一面に過ぎない。
ロシアと日本で中国の取り合いをして、最終的に負けて、原爆を落とされた。
ロシアはアメリカに負けずと、原爆後に満洲へいきなり攻め込んできた。戦後の取り分を優位に交渉するためでもあった。
更に戦後、シベリア抑留でスターリンの指示で、多くの日本兵は満洲から日本ではなく、ロシアに騙されて送られ、数年間の極寒の地で激しい任務についた。総理大臣を務めた宇野宗介もそうだ。
因果応報
中国人は子供の頃から「貴方たちの先祖は日本人に侵略され、ひどい仕打ちを受けてきた」という教育を受けている。
少なくとも昭和天皇、東條英機、靖国神社などは丸禁ワードだと思われている。
つまり、日本人は中国人には恨まれているという認識をもっと持つべき、持たせるべきで、教育しておくべきだと感じる。
終戦から81年の今、考えさせられる。
