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戦前日本のアヘンビジネス

森水学園のサイトに『真・日本史(5)』の下書きとして、「太平洋戦争を知るために(5) 日本のアヘンビジネスとユダヤ人政策」を掲載しました。noteでは前後2回に分けて転載しておきます。


イシコフ: 南京虐殺はとかく論議の的になるため、時間をかけて学んでみた。
 兵站問題をしっかり解決できないまま気合いだけで進軍すると、兵は腹を空かし、精神を病み、民間人の虐殺や強奪に対して感覚が麻痺していく。軍の内部で命令系統も乱れて、やりたい放題をする指揮官も出てくる。そんな狂った軍隊に理不尽に殺された側は、世代を超えてその恨みを忘れない。日本軍が南京を占領して、日本国内では勝った勝ったとお祭り騒ぎになったけれど、あの時点で、日中戦争はすでに日本の負けだったんだよ。

 さて、ここで例によって、当時の世界情勢を確認しておこう。1938年から1940年までをまとめてみるよ。

  • 1938 1/16 近衛文麿内閣、「国民政府を相手とせず」声明

  • 1938 3/12 ドイツがオーストリア併合

  • 1938 4/1 日本、国家総動員法公布

  • 1938 4/1 スペイン内戦でフランコが勝利宣言

  • 1938 7/29 満州東部国境で日ソ両軍衝突「張鼓峰事件

  • 1938 11/3 近衛文麿内閣、東亜新秩序声明

  • 1938 11/9-11 ドイツで大規模なユダヤ人居住区への襲撃・放火「水晶の夜

  • 1939 3/15 ドイツがベーメン(ボヘミア)、メーレン(モラヴィア)を併合。

  • 1939 3/28 マドリードが陥落し、スペイン戦争終結

  • 1939 4/7 ムッソリーニのイタリアがアルバニアを併合

  • 1939 5/11 満州・モンゴル国境で日本軍とソ連軍が交戦「ノモンハン戦争」

  • 1939 7/26 アメリカが日本に日米通商航海条約の破棄を通告

  • 1939 8/23 独ソ不可侵条約調印

  • 1939 9/1 ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦始まる

  • 1939 9/17 ソ連軍もポーランドに侵攻

  • 1939 11/30 ソ連=フィンランド戦争

  • 1939 12/14 国際連盟、ソ連を除名

  • 1939 12/26 日本、朝鮮植民地で創氏改名の法令を公布(1940/2/11施行)

  • 1940 3-4 ソ連軍がポーランド将兵を虐殺「カティンの森事件」

  • 1940 3/23 インドでジンナーが提唱したムスリム国家の独立宣言。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の二国家に分離独立する道を開く

  • 1940 3/30 蒋介石と対立した汪兆銘が親日政権の南京国民政府を樹立

  • 1940 4/9 ドイツ軍、デンマーク・ノルウェー侵攻

  • 1940 5/10 ドイツ軍、オランダ・ベルギー侵攻

  • 1940 5/11 イギリス、チャーチル内閣に交代

  • 1940 5/18 日本軍、本格的に重慶爆撃を開始

  • 1940 6/10 イタリアがイギリス、フランスに宣戦

  • 1940 6/14 ドイツ軍がパリを占領

  • 1940 6/14 ナチスドイツがアウシュヴィッツ収容所を開設

  • 1940 6/22 フランスが降伏するも、翌日、ド・ゴールが抗戦声明

  • 1940 6/14 フランスでペタンを国家元首としヴィシー政府成立

  • 1940 7/22 第二次近衛内閣成立。「大東亜共栄圏」をPR

  • 1940 8/3-6 ソ連がバルト三国を併合

  • 1940 9/23 日本軍、北部仏印に進駐

  • 1940 9/27 日独伊三国同盟締結

  • 1940 10/12 大政翼賛会結成

  • 1940 11/5 アメリカでローズヴェルト大統領が3選

  • 1940 11/30 日本、汪兆銘政府と日華基本条約締結


凡太: たった3年間のうちに、世界は大混乱に陥った感じですね。ヨーロッパではナチスドイツが暴れるし、ソ連もポーランドに攻め入って虐殺事件をおこしているし、イタリアはイギリス、フランスに宣戦布告しちゃうし……。こういうときは、日本はじっとしていればいいのに、していなかったんですねえ。

イシ: そうなんだよ。じっとしているどころか、ヨーロッパで戦争が起きた隙に、中国を一気に攻めようといきり立った。第一次世界大戦で漁夫の利……というか、ドイツにとっては火事場泥棒みたいなものだけれど、あのときの旨みを忘れられなかったのかもしれない。

企画院、興亜院、アヘンビジネス

 この3年間で、日本では第一次近衛文麿内閣(1937/6/4~1939/1/5)、平沼騏一郎内閣(~1939/8/30)、阿部信行内閣(~1940/1/16)、米内光政内閣(~1940/7/22)、第二次近衛内閣(~1941/7/18)と、コロコロ内閣が替わっている。
 第一次近衛内閣のときに中国への増員派兵を決めて日中戦争を始めて、第二次近衛内閣のときに日独伊三国同盟を締結し、第二次大戦に枢軸国側として飛び込んでいった。この2つのポイントはその後の日本の運命を決めてしまったという意味で、2度の近衛内閣の責任は重いと言うしかない。
 第一次近衛政権時の昭和12(1937)年10月には、戦時下の統制経済を推進するため、内閣直属の企画院というものが設置された。国策全般の調査企画を主任務とする企画庁と、資源調査や戦時総動員の研究を行っていた内閣資源局とを統合して作られた。
 意外と見落とされがちだけれど、この企画院は昭和13(1938)年2月に国家総動員法が制定されるとますます力を強めて、労働力の統制(戦争遂行のために徴兵や軍需産業への徴用)、雇用・解雇・賃金などの労働条件の統制、労働争議の防止、物資の統制、企業の活動・生産・配給などの統制、価格統制、輸出入の制限や禁止、言論統制といった、生活のあらゆる面での統制を計画・実行した。
 企画院の中国大陸版ともいえるのが興亜院で、満州や中国での占領地における政務や開発事業を統一指揮するためにで設置された。悪名高い「大アヘン政策」を主導したのも興亜院だ。
 企画院や興亜院は、軍の組織というよりは高等教育を受けた官僚たちの牙城だった。彼らは決して馬鹿ではなく、知識と人を動かす技術は持っていたから、頭を使って侵略戦争を遂行した。そういう頭脳は持っていても、思想や世界観が浅いというか、幼稚だったんだろうね。

凡太: 大アヘン政策? 満州や華北地方がアヘンの産地だったのは教えてもらいました(『真・日本史(3)』p.214)。日本もイギリスみたいにアヘンで儲けようとしていたんですよね。 そもそも、アヘンって麻薬なんですよね? ヘロインとかコカインとはどう違うんですか?

イシ: そっか。じゃあ、まずアヘンとはどんなものかから簡単に説明しようか。
 アヘンは熟す前のケシの実を傷つけると出てくる乳液を乾燥させて作る。およそ2000本のケシから1kgのアヘンが採れる。当時はそれをソフトボールくらいの球状に固めたものが箱に詰められて売り買いされていた。

凡太: ケシの花って、親戚の家の庭にも咲いていたような……。

イシ: それは園芸用のケシだね。ケシはいっぱい種類があって、アヘンが採れるような種類は日本では無許可の栽培は禁止されている。
 アヘンはそれだけでも効果があって、イギリスでは17世紀後半にはすでに、アヘンを赤ワインなどの酒に溶かしたアヘンチンキというのが風邪などに効く万能薬として処方されていたそうだよ。
 で、このアヘンに約10%含まれている有効成分の一つがモルヒネで、アヘンを精製することで得られる。当然、効果はアヘンよりも高い。
 そのモルヒネを無水酢酸で数時間煮るとジアモルヒネというものが合成される。アヘン1898年にドイツのバイエル社が、これを鎮痛・鎮咳剤として「ヘロイン」という商品名で売り出した。

バイエル社が発売していたヘロイン(左)と、アスピリンとヘロインの広告
(ヘロインが「咳止め薬」として販売されていたことが分かる)

凡太: え? ヘロインというのは医薬品の商品名だったんですか?

イシ: そうだ。今は違法麻薬の代表みたいになっていて闇で売買されるわけだけれど、当初売り出された商品名としてのヘロインが一般名称みたいになっているんだね。
 ヘロインは発売当初は「モルヒネに替わる依存のない万能薬」として宣伝されていた。でも、強い依存性や過剰摂取すると死んでしまう危険な薬物だと分かって、多くの国で医薬品の指定を外されたんだが、今でも鎮痛治療などに医療用として使われることがある。
 ちなみにコカインはコカの木に含まれる成分から作るので、ケシから作るヘロインとは別の系統だ。

凡太: アヘンはイギリスがインド、中国との三角貿易を成立させるために中国に持ち込んだんですよね? (『真・日本史(1)』p.108参照) それを取り締まるために林則徐さんが頑張ったけれど、アヘン戦争になって負けてしまって……。

イギリスは中国にアヘンを輸出して銀をせしめた

イシ: そうそう、よく覚えていたね。
 イギリスは中国から茶を輸入していたんだけれど、逆に中国へ輸出するものがない。インドには綿製品を輸出できたけれど、中国にはすでに高品質な綿織物があったから売れなかった。そこでインド産のアヘンを中国に輸出して、中国人をアヘン漬けにすることで対中国の赤字貿易を解消した。赤字解消どころか、これによって中国からは大量の銀が流出して、その銀でイギリスはアメリカからも綿花を購入し、イギリス国内の綿織物工場を成長させた。19世紀大英帝国の繁栄はアヘンで成し遂げたという見方もできるね。
 逆に中国は経済的打撃を受けただけでなく、国内にアヘン中毒者が急増して国力が低下し、さらにはイギリスとのアヘン戦争で負けて、香港をイギリスに割譲し、不平等条約を結ばされるという弱り目に祟り目状態になった。

凡太: よわりめにたたりめ? ……ひどい目に合ったということですね。日本はそんなイギリスの手口を真似たということですか?

イシ: そういうことだね。アヘンの取り扱いについては、イギリスがすでに19世紀にはビジネスモデルを完成させていた。
 アヘンの生産地だったベンガル地方を治めた初代イギリス総督ウォーレン・ヘイスティングス(1732-1818)は、インドにおけるアヘンを専売制として生産と輸出を厳しく管理した。闇取引をさせないためと、生産地であるインド国内と、イギリス本国にアヘン中毒者を出さないようにするためだ。インドの農民は自分たちが何を作らされているのかよく分かっていなかっただろうね。
 イギリスではアヘンそ煙草のように煙を吸って気持ちよくなるという商品も開発して中国に持ちこみ、中国人をアヘン漬けにした。
 興亜院はこうしたイギリスの先例を見習った。日本国内ではアヘンの自由取り引きを禁止したんだけれど、中国国内ではアヘンビジネスで利益を上げて、植民地支配や軍のための財源にしようとした。
 20世紀に入ると、アヘンやヘロインの中毒者が欧米にも増えてきて、第一次大戦後、国際連盟ができると、アヘンとヘロインの製造・輸出入を禁止する国際アヘン条約というものも結ばれるようになった。
 しかし、表向きに禁止されると闇取引はむしろ活発になるというのは裏社会ではあたりまえのことでね。中国では上海を拠点にした青幇チンパンという暴力団みたいな組織が力を持っていて、その大親分の一人・杜月笙はアヘン流通を独占的に仕切っていた。

杜月笙

杜月笙(1888-1951)
上海を拠点とした暴力組織・青幇の3大親分、黄金栄(1868-1953)・杜月笙・張嘯林(1877-1940)の一人。3人の中でいちばん若く、勢力も巨大だった。蒋介石に協力し、上海クーデターでは多数の共産党員を処刑した。南京国民政府成立後は将軍の地位を与えられ、上海フランス租界の用心棒(華董)などを担当する見返りとして、1929年には銀行を設立しフランス租界内での資金吸い上げ、賭博場の経営やアヘンの取り引きといった違法行為も黙認された。1931年には皮肉にも「阿片を取り締まる国民政府総監督」に就任。
日中戦争勃発後は香港に避難。香港が日本軍に占領されると重慶に逃れ、国民党支配地区と日本の占領区との物資の流通で巨利を得た。
終戦後、上海に戻ったが、その後、国共内戦で国民党が共産党に敗れると香港に逃れた。1951年、長年のアヘン吸引がたたって病死。

凡太: 蒋介石の国民党政府も、なんだかんだでアヘンには手を染めていたんですね。

イシ: それだけアヘンビジネスが生む利益は莫大で魅力的だったということだね。
 日本の本格的アヘンビジネスは、日清戦争で獲得した台湾で始まっている。当時、台湾ではアヘンがすでに常用されていた。これに台湾総督府民政長官の後藤新平が目をつけて、アヘンを専売制にして台湾総督府の収入源とした
 これは、アヘンに高額の税をかけて買いにくくさせ、アヘンの吸引を「免許制」として次第に常習者を減らしていくという政策で、実際にアヘン常用者は減っていった。でも、それだけでは台湾総督府のアヘン専売収入が減ってしまうため、台湾専売局は星製薬の社長・星一ほしはじめと組んで、アヘンから作るモルヒネの払い下げ差益で儲けを出すなどの裏工作もしていた。

凡太: モルヒネの払い下げ差益で儲ける? どういうことですか。

イシ: これ、ちょっと複雑なんだけどね。ざっと説明しようか。
 もともと、日本で最初にモルヒネの製造に成功したのが星一の星製薬で、大正4(1915)年のことだ。
 原料となるアヘンは日本国内では東京衛生試験所の専売品で、台湾専売局から東京衛生試験所に送られるんだが、東京衛生試験所を通して買うと高額になる。
 そこで星は、アヘンに含まれるモルヒネの量が輸入元によってずいぶん違うことに注目した。インド産アヘンのモルヒネ含有量は6%だけど、ペルシャ産は9~11%、トルコ産は13~14%、ものによっては15~16%という高品質のものもあった。それなのに、輸入価格は1斤(600g)あたりインド産とペルシャ産は12円、トルコ産は12.5円と、ほとんど変わらなかった。
 ということは、台湾専売局がインド産の輸入を減らし、ペルシャ産かトルコ産を増やすだけで、それまでよりも多くのモルヒネが得られる。今までのレートで扱っていることにすれば「余剰分」が出るわけで、その余剰分を払い下げれば、台湾専売局は利益を得られる。星はそれを専売局に提案し、その余剰分の払い下げを独占的に受けることに成功した。

凡太: おぬしも悪よのお、の世界ですね。

イシ: まあ、ビジネスの世界というのはそういうもんなんだ、ってことかねえ。商売が巨大化したり、政治と結びついたりすると、大体そういう方向に進むみたいだよ。知らんけど。

戦後の1945年11月に撮影された東京衛生試験所に保管されていたアヘン。前景中央の缶はモンゴル産生アヘン792kg、左側の缶は満州産生モルヒネ500kg、後方の箱はヘロイン、喫煙用アヘン、および品質を落とした偽造麻薬。麻薬類は北京と天津の日本商人から押収したもの。
(出典:「第二次世界大戦および戦後における通信部隊写真記録」メリーランド州カレッジパーク国立公文書館所蔵)
後藤新平

後藤新平(1857-1929)
仙台藩家臣の長男として生まれる。須賀川医学校を卒業して医師になり、24歳で愛知県医学校の学校長兼病院長就任。明治15(1882)年、軍医の石黒忠悳に認められて内務省衛生局に入局し、官僚の道に進む。明治23(1890)年にドイツに留学。帰国後、内務省衛生局長に就任。 明治31(1898)年、陸軍軍務局長だった児玉源太郎が台湾総督になると、児玉の引きで総督の補佐役である民政局長に抜擢され、台湾統治に専心する。新渡戸稲造や林学者の河合鈰太郎、医学者の高木友枝を招聘し、台湾の殖産興業やマラリア撲滅に努める。一方でアヘン対策に関してはアヘンを専売制にするというゆるい対応で臨み、星製薬と癒着して台湾アヘン疑獄事件を起こした。
明治39(1906)年、南満洲鉄道初代総裁に就任。満州での権益を日本に独占させまいとする袁世凱らと対峙。対ロシアでは伊藤博文と共に協調路線を模索したが、伊藤が暗殺されて頓挫した。
大正8(1919)年、拓殖大学学長に就任。第二次桂内閣で逓信大臣・初代鉄道院総裁、寺内内閣で内務大臣、外務大臣。大正9(1920)年から2年4か月の東京市長を経て、第二次山本内閣で再び内務大臣。関東大震災の際は復興院総裁として復興計画を立案したが、巨額の経費がかかることから政財界から猛反対される。明治36(1903)年に貴族院勅選議員となり、政治倫理を訴え各地を遊説。昭和4(1929)年4月に移動中の列車内で倒れ、回復することなく71歳で死去。

星一

星一(1873-1951)
福島県勿来の出身。子ども時代に右目を失明。明治27(1894)年、渡米し、コロンビア大学に入学。同大学在学中に新聞『ジャパン・アンド・アメリカ』を創刊。同大学政治経済科を卒業し、修士号取得。明治38(1905)年、新聞事業を譲渡して帰国。明治39(1906)年、アメリカで普及していた湿布薬「イヒチオール」を事業化。明治41(1908)年、衆議院議員に当選し、無所属で活動。明治44(1911)年、星製薬を設立し、近代的製薬工場を建設。オランダ領ジャワ島から輸入したキナからマラリヤの特効薬となるキニーネの精製に日本で初めて成功するなどして東洋一の製薬会社に発展させた。しかし、台湾アヘンの星製薬への独占的払い下げを取り仕切っていた後藤新平が失脚し、モルヒネの製造ができなくなる。大正14(1925)年には後藤への政治資金提供などを追及され、起訴される。
その後、台湾産のキナで国産キニーネの生産に成功。台湾星製薬を設立して会社の再建を図ったが、太平洋戦争突入でキニーネ製造装置などを供出させられ、敗戦で国内の工場や海外拠点を失い、会社は壊滅。それでも復活をかけて芋加工事業を興したが、ペルーに持っていた広大な土地の処分と日本人のペルーへの移民計画のため渡米中、ロサンゼルスで77歳で死亡。星製薬を継いだ長男の親一は会社を手放し、その後SF作家・星新一(1926-1997)として活躍。

凡太: 後藤さんと星さんは波瀾万丈な生涯を送ったんですね。

イシ: 二人とも内務省にいじめられたんだよね。
 星製薬は日本国内で最初にモルヒネとキニーネの精製に成功した製薬会社なんだが、どちらも原料を独占的に入手するのに後藤新平が関与している。
 モルヒネの原料となるアヘンの払い下げの件はすでに説明した通りだけれど、キニーネの原料となるキナの入手の経緯も面白い。
 キナはもともと南米ペルーに自生していた植物で、マラリアに効くことは17世紀くらいから知られていたんだけれど、より効能がある薬に精製する技術がなかった。19世紀になってようやく有効成分であるキニーネの精製に成功する。
 このキニーネ精製に最も向いているキナの種を見つけたのはイギリス人だった。ところがイギリス政府は興味を示さなかったので、このイギリス人はオランダ政府にこの品質の高いキナの種を買い取ってもらった。それでオランダ政府がこの種を植民地だったジャワに移植して、以後は、もっぱらジャワ産のキナがキニーネの材料として使われるようになった。ジャワ産のキナはイギリス、アメリカ、フランス、イタリアの4か国が独占的に購入するためのシンジケートを作って、オランダから買い占めた。
 ところが、第一次大戦が始まると、ジャワ産のキナの輸出が滞ってしまい、余るようになってしまった。それを知った当時の内務大臣・後藤新平が、仲のよかった星にこの話を持ちかけた。
 オランダは日本に対して、購入するなら3年分の先物取引信用状の提出と200トン以上の一括購入という厳しい条件を提示したんだけれど、星はこの条件を呑んでキナ取り引きに参入し、大量のキナを保管するための倉庫も作った。
 しかし、内務省は政府のいうことをきかずに後藤と組んでどんどん成功していく星製薬をよく思っていなかったので、独占輸入業者を星製薬ではなく三井物産にすると決めた。まあ、星製薬への嫌がらせと、国策商社である三井物産の優遇だね。
 そうなると星製薬はすでに押さえている原料を使うためにわざわざ三井物産に手数料を支払わなければならなくなる。そんな馬鹿なことがあっていいのかと反発し、外務省を巻き込んで星製薬が独占できるようにした。
 内務省衛生局はこのことでますます星製薬を恨むようになって、台湾のアヘンが星製薬へ払い下げられていることを疑獄事件として表に出した。星製薬が購入代金を立て替える形で入手した台湾のアヘンは、台湾のアヘン専売法が及ばない横浜税関に保管されていたんだけれど、内務省が「横浜税関に保管されているアヘンが中国に流れているとイギリスからクレームが来た」と難癖をつけて、再び台湾の税関に移動させた。結局、そのアヘンは日本に持ち込めず、ロシアの商社に格安で転売され、星製薬は多額の赤字を出した。
 星製薬はそうした内務省の嫌がらせにもめげず、モルヒネに続いてコカインの精製にも成功し、ペルーにコカ栽培用の広大な土地を購入して、コカの国際シンジケートにも入り込んだ。

凡太: 星さんはすごい商才の持ち主だったんですね。でも、なぜか内務省とは仲が悪かった……。

イシ: 後藤新平との二人三脚みたいな感じだったから、後藤が失脚すると星もやられるという連鎖だったんだね。

 で、話を満州に戻せば、満州でのアヘン政策を監督したのは、占領地行政を企画立案する興亜院だ。興亜院は「大アヘン政策」を唱え、ゆくゆくは東南アジアを含む「大東亜共栄圏」でアヘンの収益を得ようとした。
 当初はインドやペルシアから輸入していたんだが、台湾、朝鮮、満州、日本国内でもケシ栽培を増加させていき、華北に進出してからは内モンゴルや華北地域でもケシの栽培を増やした。日中戦争が始まってからは、内モンゴルに得た勢力圏をもアヘンの生産拠点として、大量のアヘンを占領地に流通させた。最盛期にはアヘンの販売収入だけで満州国の歳入の2割を超えていたとする試算もある。

 満州では、台湾統治ですでにやっていた「専売制」というシステムをお手本にして、満州国政府の「専売公署」(1935年4月から「専売総署」に改称)という役所が栽培地域を決め、ケシを栽培させ、収買人に集荷させた。収買人とケシ栽培農家の間では主に物々交換で取り引きされたんだが、その前に密売業者がアヘンを買い付けて闇市場に流してしまうことが多かった。

凡太: その密売業者というのは中国人ですか?

イシ: いや、多くは満州に入ってきた日本人だ。一攫千金を夢見て満州に渡ってきたものの、実際にはそう甘くはなかった。そこで、手っ取り早く金が手に入るアヘンの密売ルートを作っていったんだ。専売公署は取り締まりに躍起になったが、地元の警察は、日本人には治外法権が認められていたのでまともに取り締まらなかった。

凡太: 満州にいる日本人は法律で取り締まられなかったということですか?

イシ: 満州国ができる前から中国の主要都市には外国人が暮らす租界があっただろう? そこで暮らす外国人には中国の法律は適用されなかったから、アヘンやモルヒネの密売で儲けようとする日本人はたくさんいたんだ。
 満州での治外法権は昭和12(1937)年12月に撤廃されたんだけれど、その後も日本人への取り締まりはゆるかった。密売業者は日の丸を掲げてアヘンを堂々と売っていた。あちこちにアヘン吸引所があって、それを経営しているのもほとんどが日本人だった。中国人の中には、日の丸を日本の国旗だとは知らず、アヘン業者の商標だと思い込んでいた者も多かったそうだよ。
 そういう取り締まりきれない裏ルートでの取り引きが多かった。日本政府や関東軍としては、裏ルートを取り締まるよりは、むしろ裏ルートを利用して利益を吸い上げたほうがいいと考えた。
 中国でのアヘンビジネスは、専売品として売られる表ルートと闇業者が取り引きする裏ルートがはっきり分かれていたわけじゃなくて、複雑に入り組んでいた。闇ルートを取り仕切る日本軍や政府関係者、大手商社の関係者もいっぱいいた。
 闇ルートを仕切った日本人の代表格は甘粕正彦だ。いくつかのダミー会社を経由させて、末端のヤクザなどにも売り渡して利益を上げていた。

凡太: ええ~。またあの甘粕正彦ですか。出てきたの、これで3度目でしたっけ?

イシ: なにしろ「満州の夜の帝王」と呼ばれていたくらいでね。大連で結成された大雄峯会という右翼団体のメンバーの一部を使って通称「甘粕機関」という特殊工作機関を作り、関東軍のための破壊工作を仕掛けたり、関東軍と中国のヤクザみたいな連中との間に入って、いろいろダークなビジネスを取り仕切っていた。昭和14(1939)年には満州映画協会(満映)の理事長にもなっている。
 もう一人、中国でのアヘンビジネスにおける最重要人物ともいえるのが里見はじめだ。

里見甫

里見甫(1896-1965)
アジア主義を主張する政治団体・玄洋社第二代社長・進藤喜平太の援助で上海にある日本の私立学校・東亜同文書院に入学。その後、天津の邦字新聞社・京津日日新聞の記者となり、その後、京津日日新聞の北京版である北京新聞の主幹兼編集長に就任。関東軍参謀・板垣征四郎石原莞爾と知己を得、蔣介石とも会見を行うなどして、関東軍、国民党双方の人脈を形成。済南事件では2か月にわたる秘密工作の末に日本軍と国民党側との協定調印を成功させた。
満洲事変勃発後は奉天に移り、奉天特務機関長・土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報、宣伝、宣撫活動を担当。青幇など中国の地下組織との人脈も形成。また。満洲におけるナショナル・ニュース・エージェンシー(国家代表通信社)設立に関わり、陸軍省軍務局課長・鈴木貞一の協力のもと、新聞聯合社(聯合)の創設者・岩永裕吉や総支配人古野伊之助、電通の創業者・光永星郎との交渉を行い、1932年、満洲における聯合と電通の通信網を統合した国策会社「満洲国通信社(国通)」を設立させ、初代主幹(事実上の社長)に就任。
1936年からはアヘンビジネスに本格参加し、1938年3月、三井物産と興亜院の主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任し、特務資金調達のためのアヘン売買を展開。中国の地下組織青幇や紅幇なども使って上海でのアヘン密売を取り仕切る通称「里見機関」を設立。関東軍が極秘に生産していた満洲産アヘンや、日本軍が生産していた海南島産アヘンも取り扱う。この活動を通じて、岸信介、笹川良一、児玉誉士夫、岩田幸雄、許斐氏利、阪田誠盛しげもり、清水行之助といった面々とも人脈を形成。
敗戦後はA級戦犯容疑者として逮捕されるが、不起訴となり釈放。1965年に心臓麻痺で急死。没年満69歳。

 中国の裏社会とも結びついていた里見機関、甘粕機関を使って表でアヘンビジネスを推進した政府側の代表格は、大蔵省から満州に派遣された星野直樹だ。星野の下では古海忠之、椎名悦三郎、難波経一つねかず、青木実らがアヘンの専売制による大アヘン政策を推進した。

星野直樹

星野直樹(1892-1978)
横浜市出身。大正6(1917)年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後大蔵省に入省。昭和7(1932)年、満洲国に派遣され、財政部理事官、財政部総務司長、財政部次長、国務院総務庁長を経て国務院総務長官に就任。満洲国における権力者を表す「2キ3スケ」の一人で、実質上の満州国行政トップとなる。台湾ですでに行われていたアヘン専売制度に倣って満州国でのアヘンビジネスを推進。その後帰国し、「満洲は独・仏・伊の三国を合わせた併せた面積を持つ。これに支那を加えれば日本は資源・食糧の自給自足が完成する」と論じて、国民にも支持される。第二次近衛内閣で企画院総裁に就任。戦時の経済統制として資本と経営の分離などを進めようとしたが、財界と軋轢が生じ、辞任。東條内閣では内閣書記官長として東条内閣退陣まで側近として政策面を仕切った。
敗戦後、A級戦犯として終身刑を宣告されたが、1958年に釈放。その後、東京ヒルトンホテル副社長、東京急行電鉄取締役、旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任。1978年に86歳で死去。(1892-1978)
横浜市出身。大正6(1917)年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後大蔵省に入省。昭和7(1932)年、満洲国に派遣され、財政部理事官、財政部総務司長、財政部次長、国務院総務庁長を経て国務院総務長官に就任。満洲国における権力者を表す「2キ3スケ」の一人で、実質上の満州国行政トップとなる。台湾ですでに行われていたアヘン専売制度に倣って満州国でのアヘンビジネスを推進。その後帰国し、「満洲は独・仏・伊の三国を合わせた併せた面積を持つ。これに支那を加えれば日本は資源・食糧の自給自足が完成する」と論じて、国民にも支持される。第二次近衛内閣で企画院総裁に就任。戦時の経済統制として資本と経営の分離などを進めようとしたが、財界と軋轢が生じ、辞任。東條内閣では内閣書記官長として東条内閣退陣まで側近として政策面を仕切った。
敗戦後、A級戦犯として終身刑を宣告されたが、1958年に釈放。その後、東京ヒルトンホテル副社長、東京急行電鉄取締役、旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任。1978年に86歳で死去。

古海忠之

古海忠之(1900-1983)
東京帝国大学法学部政治学科卒業後、大蔵省入省。関東軍から日本政府への人材要請で、星野直樹国有財産課長の下で選抜された満州国派遣官吏の一員となる。1938年に興亜院が設立され、アヘンビジネスの収益を一括管理するようになると、興亜院との折衝窓口となる。
1937年、甘粕正彦に口説かれて満洲国協和会指導部長兼人事局長に就任。以降、関東軍参謀副長に左遷されていた石原莞爾と対立。星野直樹、岸信介、甘粕正彦らを味方につけて石原を舞鶴要塞司令官へと左遷することに成功。
1940年6月、満州国国務院経済部次長に就任。関東軍より熱河産のアヘンなどの売りさばきを依頼され、里見甫に託した(自著『忘れ得ぬ満州国』 阿片の章に記述あり)。その後、満洲国協和会指導部長を解任され、ドイツのナチ党党大会などを視察するためヨーロッパへ渡る。その後は武部六蔵総務庁長官の補佐役として満洲国の実質的副総理格として政策運営。
敗戦後はソ連軍に捕らえられ、シベリア抑留。1950年に撫順監獄に移送され、1963年2月まで監獄生活。同年3月に日本に帰国。岸信介の援助を得て参議院選挙に自民党公認で立候補したが落選。大谷重工業副社長、東京卸売センター社長、テーオーシー相談役、ニューオータニ取締役などを経て1983年8月に83歳で死去。

椎名悦三郎

椎名悦三郎(1898-1979)
東京帝国大学法学部法律学科独法科卒業と同時に後藤新平の実姉が嫁いだ椎名家に養子入り。農商務省へ入省。商工省文書課専任参事官・岸信介の依頼で1933年10月に満洲国実業部総務司計画科長として満洲に赴任。満洲国の産業調査などを指揮。1936年に岸信介が実業部次長として赴任した岸信介の直属の部下として、満洲国の経済統制と産業開発を進めた。1939年に帰国。国家総動員法の制定に基づく臨時物資調整局第5部長(化学製品担当)に就任。1941年10月に発足した東条英機内閣で岸信介が商工相に就任すると、岸の下の商工次官として軍部と協調し、厳しい戦時統制経済政策を推進。1943年11月に創設された軍需省で軍需省総動員局長、陸軍司政長官を兼務。
敗戦後はA級戦犯容疑者として逮捕されたが釈放。アメリカ軍政庁に対して、上司であった岸信介の公職追放解除を懇願。
1955年、日本民主党の公認で衆議院選挙に当選。自由党との合同で自民党所属に。その後、自民党経理局長に就任し、財界からの献金を5倍に増やすなど貢献。第二次岸(改造)内閣では内閣官房長官に就任。第一次池田内閣で自民党政務調査会長、第二次池田内閣で通商産業大臣、第三次池田(改造)内閣で外務大臣、第一次佐藤栄作内閣でも外相、田中角栄内閣で副総裁……と、要職を続けた。田中内閣がロッキード問題で倒れた後の新総裁に少数派閥の三木武夫を指名する采配をして(椎名裁定)、副総裁に就任したが、企業献金全廃を提案する三木に反発する党内の「三木おろし」に同調。「(三木内閣の)産みの親だが、育てるとは言ったことはない」と言い放った。その後の福田赳夫政権で副総裁を退き、1978年に政界引退を表明。翌1979年に81歳で死去。

難波経一(1901-1986)
大正13(1924)年、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、大蔵省入省。古海忠之は同期。妻は岩倉具視の孫(男爵岩倉道倶の二女)。 東京税務監督局、横須賀税務署長、神戸税務署長を経て満州国に派遣され、1933年1月よりアヘンを監督する専売公署副署長、専売総局副局長を歴任。1937年11月、冀東政府最高顧問、河北省顧問、満州国総務庁参事官を経て民間に入り、満州電気化学工業常務理事、満州生活必需品配給株式会社取締役、外満州合成ゴム取締役などに就く。1943年3月、官僚に戻り、商工省金属回収本部初代本部長、軍需省燃料局長官、軍需省整備局長官を歴任。戦後は公職追放を経て、山陽国策パルプ社長、会長を務め、1986年に85歳で死去。

青木実(1901-1963)
北海道出身。大正13(1924)年、東京帝国大学法科卒業後、大蔵省入省。税務監督局主税局、和歌山税務署長、大阪西税務署長、神田橋税務署長、大蔵省銀行検査官を歴任し、1934年12月に大蔵省を辞職。満洲国に転じ、1935年1月に満洲国国務院財政部理事官・理財司国有財産科長に就任。同年11月国務院総務庁参事官・企画処勤務、1936年8月財政部税務司長、1937年12月財政部金融司長、1940年11月総務庁企画処長、1941年11月経済部次長を歴任。日本敗戦後、シベリアに抑留され、1947年9月に帰国。
戦後は1951年9月に合同証券会社会長、1954年3月から1955年9月まで常盤相互銀行社長を務めた。1963年6月、62歳で没。

凡太: 里見甫の人脈はすごいですね。岸信介は戦後首相になっているし、笹川良一や児玉誉士夫って、戦後の日本政財界を動かした黒幕と呼ばれる人たちですよね。

イシ: そうだよ。満州時代にアヘンビジネスに関与した者たちの多くが、戦後も生き延びて日本の政財界を操った。そういうことを、学校ではちゃんと教えていない。まあ、試験問題にはしにくいしね。でも、教えるべきだろうね。


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