届かないメッセージは、私を優しく照らす 2
第1章 雨の日のカフェ
雨の日は、少しだけ時間の流れがゆっくりになる。
私は昔から、雨の日が嫌いではなかった。
雨が降り始める前の独特の香り。
それが強くなると、街の喧騒が少し遠くなり、人の足音も柔らかくなる。
傘に落ちる雨音は、慌ただしく過ぎていく毎日に、「少しだけ休んでもいいんだよ」と語りかけてくれるような気がするから。
その日も、小さなカフェの窓際の席で、私は原稿の確認をしていた。
フリーランスの編集者になって五年。
仕事は好きだった。
誰かの想いを言葉にする手伝いをすることが、いつの頃からか私の生きがいになっていた。
けれど、自分のこととなると、私は驚くほど不器用だった。
人の気持ちは分かるのに、自分の気持ちは分からない。
人を励ます言葉はいくらでも見つけられるのに、自分には優しい言葉をかけてあげられない。
私の中の、そんな矛盾を抱えながら、今日もパソコンの画面と向き合っていた。
「相変わらず、川野さん、真面目ですね。」
ふいに聞こえた声に顔を上げると、一人の男性が立っていた。
「こんにちは。おひさしぶりですね。
隣、座ってもいいですか?」
柔らかく笑うその人は、仕事で何度かオンラインミーティングをしていたライターの広瀬悠だった。
実際に会うのは、その日が初めてだった。
オンライン越しに見ていた印象と変わらず、穏やかな人だった。
少しだけ無造作な髪と、優しい目元。
そして、人の話を最後まで聞いてくれそうな空気をまとっている。
「広瀬さん、もちろんです。」
私は少しだけ緊張しながら答えた。
彼はコーヒーを注文すると、「雨の日のカフェって、なんだか特別ですよね」と言った。
私はパソコンの画面から目を離して彼を見つめた。
「どうしてですか?」
「みんな、少しだけ素直になる気がするんですよ
。だから…。」
私は思わず笑ってしまった。
「それ、ライターらしい言葉ですね。」
「編集者さんに言われると、褒められているのか、添削されているのか分からないな。」
顔を見合わせて、二人で笑った。
たわいもない会話だった。
それなのに、不思議と居心地がよい。
恋に落ちる瞬間というのは、ドラマのようなものだと思っていた。
目が合った瞬間に運命を感じたり、胸が苦しくなったり。
けれど、大人になってからの恋は、そんな派手なものではないのかもしれない。
『また会いたい。』
そう強く思うよりも、「もう少し話していたい」と思う。
『好きかもしれない。』
そう気づくよりも、「この人の前では、無理をしなくていい」と感じる。
そんな静かな始まりが、私は好きだった。
窓の外では、雨が少しだけ強くなっていた。
私たちは、仕事の話から、本の話へ。
好きな音楽の話から、子どもの頃の夢の話へ。
気がつけば、三時間が過ぎていた。
「川野さんって、自分のことはあまり話さないですよね。」
帰り際、彼がぽつりと言った。
「そうですか?」
メガネ越しの目が真っ直ぐに私を見ている。
「そうですよ。人の話を聞くのは上手なのに、自分のことになると、なんだか少しだけ遠くに行ってしまう。」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。
そんなふうに言われたのは初めてだったから。
「編集者ならではの職業病かもしれませんね。」
「じゃあ、これから少しずつ教えてください。」
彼はそう言って、目を細めて笑った。
それは、恋の始まりを告げるような特別な言葉ではなかった。
けれど、その何気ないひと言が、私の心のどこかに静かに降り積もっていった。
人は、人生の中で何度恋をするのだろう。
若い頃のように激しく燃え上がる恋だけが、恋ではない。
大人になって出会う恋は、春の陽だまりのように、気づかないうちに心を温めてくれるものなのかもしれない。
あの日の私は、まだ知らなかった。
この出会いが、私の人生を少しだけ優しく変えていくことを。
そして、いつか「届かなかったメッセージ」を通して、自分自身の心と向き合う日が来ることを。
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