恋に溺れる私を、私が許してあげるまで 2
第一章 恋をしている私。
恋をすると、世界が少しだけ変わる。
同じ朝。
同じ道。
同じ景色。
昨日まで何も感じなかったものが、なぜか優しく見える。
駅まで歩く道に咲いている小さな花。
夕方の空の色。
仕事帰りに聞こえる誰かの笑い声。
「きれいだなぁ。」
そう思える心が、自分の中にまだ残っていたことに驚いた。
彼に出会う前の私は、毎日を一生懸命生きていた。
仕事をして。
家のことをして。
誰かのために動いて。
「ねぇ、大丈夫?」
そう聞かれるより、
「助かったよ。」
と言われることの方が多かった。
それが嫌だったわけではない。
必要とされることは嬉しかった。
誰かの役に立てることは、私の誇りでもあった。
でも、いつからだろう。
『私自身が何を感じているのか』
考える時間が少なくなっていた。
感じているはずなのに分からない。
うんん。
分からないふりをしていないと、日々のタスクをこなせないから。
考えなくなっていた。
そんな私の前に、彼は現れた。
何気なくあいさつを交わす。
お天気のことを話す。
お互いの近況を少しだけ話す。
名前を聞いて、連絡先を教え合う。
朝だけでなく、ふとした時間に少しだけ【元気、大丈夫】と交わす。
こうした時間。
彼と話している時間だけは、役割を脱いだ自分でいられた。
妻でもなく。
母でもなく。
仕事をする人でもなく。
ただ、一人の人として。
「そのままのあなたでいい。」
そう言われているような気がした。
それが嬉しかった。
誰かに認めてもらうことが、こんなにも心を満たすものなのだと、久しぶりに思い出した。
昼間、彼からのメッセージを待つ時間が好きだった。
スマートフォンが震えると、胸が少し高鳴る。
短い文章。
何気ない一言。
【今日は寒いね。】
【ちゃんと休んでね。】
それだけなのに、一日頑張った自分へのご褒美のように感じた。
不思議だった。
若い頃の恋とは違う。
未来の約束だけを求めるわけではない。
ただ、今日という日に、誰かが自分を思い出してくれる。
それが嬉しかった。
『人は何歳になっても、誰かの心にいたいと思うものなのだ。』
そんなことを考えていた。
でも、幸せな時間が増えるほど、不安も少しずつ増えていく。
返信が来ない夜。
忙しいと言われた日。
以前なら気にならなかったことが、心に引っかかりはじめる。
「嫌われたのかな。」
「私だけが大切に思っているのかな。」
そんな考えが浮かんでは、慌てて打ち消す。
違う。
彼を信じよう。
私は大人なんだから。
そう言い聞かせる。
でも、本当の気持ちは、もっと素直だった。
『会いたい』
『声が聞きたい』
『私を見てほしい』
そんな気持ちが、心の奥から湧いてくる。
ある夜のお風呂あがりに、鏡の中の自分を見た。
少し疲れた顔。
増えた白髪。
若い頃とは違う身体。
それでも、どこか嬉しそうな表情をしている自分がいた。
『ああ、私…恋をしているんだ。』
そう思った。
そして、少し笑った。
五十三歳になって、こんなふうに誰かを想えるなんて。
人生は、まだ終わっていなかった。
恋は、若い人だけのものではない。
胸が高鳴ること。
誰かを待ち遠しく思うこと。
明日が少し楽しみになること。
それは、年齢とは関係なく、人が生きている証なのだと思った。
でも、この時の私はまだ知らなかった。
恋が私を幸せにしてくれるだけではなく、
私自身と向き合うための、大切な時間になることを。
彼を好きになったことで、
私は初めて、自分の心の奥にある寂しさと向き合うことになるなんて。
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