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『坂道ず転び方』 -1- 䞖界から逞脱した暗い郚屋 1/4章 / 小説 【#創䜜倧賞2025】 《完結》

【あらすじ】
「君たちの蚀う正垞で正しい動䜜は私にずっおは呪いの蚀葉でしかないんだ 正垞から逞脱した私はもう普通じゃない。私はもう普通に生きるこずはできない それに・・・歩かないでいるうちにこんなに足は固たっおしたった。私はもう・・・ダメなんだ」
 小桜こざくら 岬みさきは人生における転倒で圌女は、暗い郚屋の䞭でずっずひずりで生きおいた。
 正しさずは正垞ずはそしお生きるこずの矎しさずは
 珟職の理孊療法士が蚘す、僕ず圌女が転倒から立ち䞊がるための本栌リハビリテヌション小説。 
 ただ方法はただ知らない。僕たちは傷跡を隠したたた寄り添うだけであった。

【目次】
-1- 「䞖界から逞脱した暗い郚屋」
-2- 「正しくも正垞ですらない生きる矎しさ」
-3- 「些现で深刻な生涯を瞛る傷跡」
-4- 「私を呪った坂道ず私を救った転び方」
《曞き䞋ろし》「呪われた私ず、私が呪った理孊療法士」

-1- 「䞖界から逞脱した暗い郚屋」

 僕の䜏む街は小高い䞘の真䞋にあっお、芋䞊げるずゆるやかに続く坂道がどこたでも続いおいる。傟斜は登るほどに激しくなり、䞘の䞭腹に小桜こざくら 岬みさきの䜏む家があった。

 二階建おの決しお広いずは蚀えない家の玄関には、埃が積もりうっすらず癜くなった車怅子がある。そしお隣はベヌゞュ色をした幅の厚いベヌゞュのプラスチックで䜜られた短䞋肢装具たんかしそうぐが眮かれおいる。ふくらはぎから螵を包み、足先たで䌞びるプラスチックもたた、䞻人を倱い寂しそうに埃でたみれおいた。

 现い廊䞋を抜けるず岬の郚屋がある。

 六畳ほどの郚屋は小さな時から倉わらない広さのたたで、䞭倮には小さな円圢のちゃぶ台、ベッドには烏栌子からすこうしのかけ垃団がある。締め切られた遮光カヌテンは昌間なのに郚屋を黒く染め、䞞い電灯がうっすらず郚屋を照らしおいた。

 脱ぎ散らかされた衣服を隠すこずなく、岬は壁際に眮かれた倧きなディスプレむを持぀パ゜コンの前でキヌボヌドずマりスを操っおいる。小さな朚補の座怅子に身を預け、ふかふかずした赀い座垃団は座面からはみ出しおいた。

 肩よりも長く䌞びた黒髪には寝癖が぀いおいお、化粧っ気のない现い頬、䞍釣り合いなほどに倧きな瞳は画面の青癜い光を反射しおいる。现く敎った顎先にはうっすらずピンク色の现い唇がたっすぐに結ばれおいた。

 岬は昔から敎った顔をしおいた。綺麗だず僕が蚀葉にするこずができないほどに。

 岬は華奢きゃしゃな䜓付きで右足を抱き、巊足は床に投げ出されおいた。

 足銖は䞋を向いお固く人圢のように固たっおいる。

 僕は昔ず同じように岬のベッドに腰かけたたた、頭の埌ろで腕を組む。

「しかし、䌁業のを䜜るなんおテレビ局だけの仕事だず思っおいたよ」

 画面から芖線を倖さずに岬は口を開く。凛りんずよく通る声色なのに、蚀葉はどこか他人ずの距離を眮くような響きだった。

「昔から思っおいたけどキミは䞖間の流れから逞脱しおいるなぁ。藀森ふじもり 誠也せいやくん。それずも理孊療法士りがくりょうほうしずしお働いおいるず病院以倖の情報が入っおこないのかな」

「違うよ。僕はもう理孊療法士を蟞めおいる。ただの無職な若者Aだよ」

「お互いにそろそろ口が裂けおも若者ずは蚀えなくなるけどね」

 そりゃそうだ。ず僕は埌ろの癜い壁に身を預ける。僕は今二十䞃歳であり、二぀幎䞊の岬は次の誕生日で䞉十歳を迎える。䞖間からしたら立掟に家庭を築き、瀟䌚的にもそれなりに安定しおいる幎代だろう。

 䞖間の垞識や正垞、䞖間䞀般ずいう普通に照らし合わせばであるけれど。

 倖からの光を遮りながら僅かに透過しお、深い藍色あいいろをした遮光カヌテンが少しだけ揺れた。

「おばあちゃんは元気かな」

 僕が蚀うず、岬は巊足を䌞ばしたたた座怅子ざいすに寄りかかる。こわばった指先は圢を厩さない。现く䌞びた指先は圌女の意志に埓うこずはなく固たったたただ。

「病院から連絡は䜕もないからね。祖母のこずだから元気にやっおいるだろう。若い子に囲たれおリハビリを頑匵っおいるず連絡が来たったきり最埌だ。きっず楜しんでいるだろね」

「よかった。たぁ僕ずしおは、岬のリハビリを頌たれおいるわけなんだけど。気にしおいなかった」

 ふふん。ず岬は楜しそうに顎先をあげた。銖元が緩く䌞びた癜いシャツには遠い昔に買ったバンドのロゎが印刷されおいる。黒いゞャヌゞもたたシャツず同じく岬よりも䞀回りサむズが倧きい。僕もたたパンずグレヌのパヌカヌ姿である。

 春を迎えようずしお暖かな銙りの颚が満たし始めた街で暮らすには䞁床良い。

「䜕床も蚀ったけど私にリハビリは必芁ないよ。藀森誠也くんからのリハビリはずくに必芁ずしおいない。巊の膝から先に力が入らないし、足銖より先は固く人圢みたいだ。君のような医療埓事者いりょうじゅうじしゃが気にする正垞倀から逞脱した姿圢だろうけど、私は気にしおいないよ。ずもかくいくら祖母の頌みだろうず君からのリハビリを受けるなんおごめんだ」

 それに私はもう坂道を䞋れない。䞋るこずはできない。ず岬は吐き捚おるように続け画面に芖線を萜ずし続ける。

「䜕床も聞いたよ。だからたぁ気が向いたら声をかけおくれ。岬のリハビリよりも、岬の䜜る䜜品を芋おいる方が楜しいから」

 呆あきれたように、岬はあぐらをかいお右手で顎を支える。

「入院しおいた時みたいに、有無を蚀わさずリハビリさせられるず思っおいたけど、君は普通の理孊療法士ではないみたいだね」

「だな。僕はもう普通じゃない。理孊療法士ずも名乗れない。だから僕はこれでいい」

「もう絵は描かないのかい 誠也のむラストを添えたら、さらに䜜品の幅が広がりそうなんだけど。倖泚する手間も省ける」

「むラストこそ、理孊療法士よりずっず前に蟞めおいるから、きっず需芁じゅようはもうないね」

 岬は残念だずこがしお、芖線をパ゜コンのモニタヌぞず戻す。モニタヌには堎所も知らないどこかの矎容宀が映し出されおいお、淡い露光でハサミを動かすひずりの女性がいた。岬は個人で動画制䜜を請負うけおいながら生掻しおいるずいう。

 立掟だず思った。すっかりず岬は僕の知らない䞖界で生きおいる。

 ひずりで生きおいくにはずおもじゃないけどお金は足りないようで、岬は子䟛の頃ず同じように自分の郚屋に䜏み、䞡芪のいない圌女は祖母ず幎金を頌りに生きおいる。

 茝かしく校庭を駆け抜けお、倚くの生埒たちから憧れを集めた圌女はもういない。

 矎術宀の窓から眺めおいた、倚くのクラスメヌトの䞭倮で憧れを䞀身に集めた圌女は倱われおいる。

 巊の足銖から先の働きず䞀緒に倱われおしたったのだ。

 他人から芋お軜く芋える些现な傷でも人生を䞀倉させるほどには深い。

 さおず・・・ず岬は膝を立おお僕を芋る。

「お花を摘みに行っおくるから、い぀ものようにしおおいおくれ」

 わかったよ。ず僕は岬に背を向ける。い぀ものように瞳を䞡手で隠した。

 ごそごそず岬が立ち䞊がり、足を匕きずる音が聞こえる。

 岬は決しお自分が歩く姿を僕に芋せなかった。こんな調子では圌女の祖母に頌たれた岬のリハビリするこずは難しい。岬に觊れるこずは蚱されず、岬自身がリハビリを望んでいないのだから、手は出しようがない。

 音だけでもある皋床はわかる。巊䞋肢を杖のように䜿い、䌞び切ったたた固たる爪先は右足の前に出るこずはない。䜓をかたむけ這うように歩いおいるのだろう。

 正垞から逞脱した歩行様匏。リハビリテヌションが必芁ずされる歩き方だ。

 それは歩容ほようず圢容けいようされる。歩く行為自䜓を歩行ずするならば、歩くずいう様匏、いわゆる歩き方、歩く様盞ようそうを衚珟するのが歩容であるず思う。

 ただ、頌たれたからずいっお僕にはもう・・・傷を負った人にリハビリテヌションを斜ほどこす資栌がない。

 そのためか少しホッずしおいる。情けないほどに僕は、岬の隣で過ごすこの暗い郚屋を居心地良く感じおいる。

 僕たちは䞖間から求められる正垞からは逞脱しおいる。お互い知らない間に逞脱しおしたった。

 正しさずいう曖昧な蚀葉を信じるこずができなくなっおいる。

 正垞であるこずを求め続ける瀟䌚から、昌間だずいうのに暗い郚屋の䞭で、僕たちは逞脱しおしたっおいるのだ。

◇

 僕の䜏んでいた郜垂には二十䞇人ほどの人が䜏んでいるずいう。党囜的に芋れば倧きくない郜垂でも、数字ずするず途方もない数に感じる。街を歩いおも数字を実感するほど倚くの人が䜏んでいるずも思えないし、すべおの人が同じ生掻をしおいるずは思えない。

 時代が進むに぀れお高霢者の割合は圓然増える。

 そしお増える高霢者の割合に合わせお、街にたたずむ病院やクリニックの数も増えおいた。

 僕が勀めおいた病院は垂内では有数の急性期病院だった。専門孊校を卒業し、無事囜家詊隓にも合栌した僕は理孊療法士ずしお、その病院に就職した。

 リハビリテヌションは䞀抂に蚀えば、足腰が立たなくなった高霢者ず䞀緒に歩く緎習をしたり、ベッドの䞊で䞀緒に足をストレッチし、筋力トレヌニングを行う。そんなむメヌゞがあるず思う。

 䞖間の認識は間違っおはいないけれど、リハビリテヌションが䞀般化した珟圚ではそれだけではない。たずえば僕の働く急性期病院では倚くの疟患を扱っおいる。

 脳卒䞭のうそっちゅうなどの脳血管疟患のうけっかんしっかんを発症するず半身はんしんが麻痺しお動かなくなる。そのため歩く緎習は必須だけど、他にも麻痺した手足が昔ず同じ動きができるように神経筋再教育しんけいきんさいきょういく、促通そく぀うずいった䜕床も必芁な動䜜を繰り返す緎習が必芁になる。呌吞が苊しくなった人に察しおは治療の進行に合わせお呌吞緎習や䜓力䜜り、心臓の疟患に察しおは日垞生掻の指導。ずいった颚に现分化さいぶんかされる。

 もちろん手術をしたのならば骚折だろうず心臓のオペだろうず、翌日から立ち䞊がる緎習も指瀺されるこずが倚い。

 治療が萜ち着くず次は亜急性期あきゅうせいき、回埩期かいふくきずいった具合に今床は日垞生掻に戻るために積極的なリハビリが増えおいく。

 リハビリテヌションはラテン語で、再びその人らしく、もしくは再び適したずいう意味がある。目的は自分らしい生掻の再獲埗であり、倚く療法士は正垞を目指しお目の前にいる患者に察しおリハビリテヌションを斜ほどこすのだ。

 リハビリテヌションが発展するために残された数倚くのデヌタ。目暙ずするべき正垞で健垞な人のデヌタによっお到達するゎヌルが決められるこずも倚い。少なくずも僕の働いおいた病院ではそうだった。正垞ず異垞は無機質な文字の矅列ず瀺され、倚くの研究者の努力によっお埗られたデヌタによっお決められる。

 医垫や看護垫ず比范するずただ歎史が浅い理孊療法士の歎史で、これだけ䞖間に認められおいるのは先人たちの努力の䞊にいるからだ。そしお目の前にいる患者の予埌よご、寿呜じゅみょうずよく䌌た健康寿呜けんこうじゅみょう、どれだけ自分らしく暮らせるかのためのリハビリテヌション。

 だからこそ僕の同僚も、正垞である動䜜、もしくは異垞であるずされた患者がどうやっお正垞に近づけるか。もずどおりの動䜜を獲埗するために日々リハビリテヌションを斜し、臚床りんしょうの合間で研究にいそしんでいた。

 僕は正垞を目指すこずに䟝存しおいた。正しいず思っおいた。

 しかし今では、僕が䟝存しおいた考えは過ちだったず気が぀いおいる。二床ず立ち䞊がれないほどの思い出ず䞀緒に、懺悔ざんげの蚀葉や埌悔の念ずいった自責じせきの棘が手足の先たで満たし、痺れを䞎える。

 過ちだず考えおいながら、先にある答えが思い浮かぶこずはない。

 そうしお僕は理孊療法士を蟞めるこずにした。

 これ以䞊、理孊療法士ずしお臚床で働くこずはできないし、蚱されない。

 それほど眪深いこずを僕は、僕の誀った正しさずいう認識で、犯しおしたったから。

 僕が理孊療法士を続けられなくなっおしたったのは、高校時代で生じた䞀床目の転倒おんずうに由来する。

 そしお僕は今日、二床目の転倒をするのだ。

 転倒ずはリハビリテヌションの倧きな障害ずなる。健垞な、いわゆる正垞な僕たちならば、䞀床転んでも立ち䞊がるこずはたやすい。しかしリハビリテヌションの堎で転ぶずいうこずは、もちろん怪我けがにも぀ながるし、目には芋えない堎所で深い挫折を生んでしたう。

 自分は昔ず同じように歩くこずはできない珟実を痛感させられる。転んでもすぐに立ち䞊がれる人が少ないのは人生ず同じだ。

 誰もが匷いわけではない。

 その点に関しおは患者も療法士も同じだ。

「本圓に受け取っおもいいんだな」

 思玢しさくの䞭から我に垰るず目の前で、郚長がデスクで僕の手枡した封筒を握ったたた僕を芋おいる。

 僕は、はい。ず静かにうなずいた。

 病院の芏暡からしたら少なくはあるが、僕のいた䞉十名ほどのリハビリテヌション郚は、数倚くの研究結果を発衚する県䞋では有名な病院だった。病院の立ち䞊げから働く、癟戊錬磚ひゃくせんれんたの理孊療法士が僕の前で疲れた衚情を浮かべおいる。

 䞞顔に刻たれた深いシワ、圫りの深い顔立ちずか぀おはラグビヌで鳎らしたずいう広い肩幅。ふくよかに蓄えられた腹郚ず高くはない身長。優しい芋た目をしおいおも県光は鋭い。僕は郚長に新人の頃から目をかけられお、厳しくはあったけれど倚くのこずを孊んだ。

 僕は手枡した退職願たいしょくねがいず共に郚長の期埅を裏切ろうずしおいる。

「家庭の理由で退職させおいただきたいず思いたす。今たで本圓にお䞖話になりたした」

 嘘だった。僕が倚分円滑に蟞めるこずができるであろうず考えた嘘である。きっず僕の嘘は郚長に䌝わっおいるのだろう。退職理由には䜕も蚀わず郚長は怅子に背を預けお、目頭めがしらを抑えた。

「理由はたぁいい。䞀぀の病院で死ぬたで働くなんお生き方は昔の話だ。リハビリテヌションの目暙ず同じで、自分の進むべき道は自分で遞んでいい。それでも・・・こういうこずは蚀うべきでないのだろうが、残念だ」

 すみたせん。ず僕が頭をさげるず郚長は静かに銖を暪に振った。どれほどの患者が自分の結末を遞べおいるのだろうか。僕は心に浮かんだ考えを振り払う。

「藀森は新人の頃からよく頑匵っおいたからな。たぁ俺も厳しくしたこずはあったが、みんなが期埅しおいたよ。研究もたくさん手䌝っおくれた。そろそろ䞭心になっおほしいず思っおいたんだがな。そればかりは仕方がない。なぁ。次の就職先は決たっおいるのか」

 いえ。ず僕は銖を暪に振るず郚長はデスクに䞡肘を眮いお指先を組んだ。そしお座ったたた僕を芋䞊げる。

「そうか。家庭のこずが萜ち着いたらい぀でも戻っおきおいいからな。人生には䌑む時間が必芁なのは、俺もこの歳になっおようやくわかったから䜕も蚀わない。どこかの孊術集䌚で䌚ったならたた呑もうや。匕き継ぎだけはしっかりやっおくれ」

 なっ ず郚長は粟䞀杯の笑みを浮かべおいる。たぶたの深いくがみの奥で静かに瞳が閉じられた。

◇

「そうかいそうかい。埡栄転ごえいおいっおわけじゃないのかな」

 車怅子に乗った老人は、長い廊䞋の先を芋据えながら蚀った。右手には现く背の高い圌からしたら頌りない倪さの杖が握られおいる。

「えぇ。いろいろ考えおみようず思っおですね」

 若いっおいいねぇ。ず山岞やたぎし 達倫た぀おは぀るりず髪の剃られた頭にシワを䜜る。病衣の胞元にあるボタンは開かれおおり、痩せた胞元が芋えた。芋た目は八十歳ずいう幎霢どおりに芋えるが、幎霢に察しお気抂きがいはただ若い。

 僕は山岞のボタンを閉じる。今日は僕が圌に行う最埌のリハビリテヌションになる。それを告げるず山岞は陜気に笑っお、若いのはいいねぇ。ず目を现めお䜕床も蚀った。

 山岞は二週間前に自宅で転倒し、巊の倧腿骚頞郚だいたいこ぀けいぶを骚折した。䞡足ず骚盀、䜓の芁ずなる郚分を぀なぐ倧切な郚䜍であり、骚折するず折れたたたでは歩くこずができなくなる。

 高霢になればなるほど骚折のリスクは高たり、どんなに高霢でも手術を行うこず自䜓にリスクが少なければ、人工の骚に入れ替える人工骚頭眮換術じんこうこっずうちかんじゅ぀ずいった手術療法が遞択される。

 山岞もそのひずりで、術埌から僕が担圓しおいる。手術の痛みもどうにか収たり、術埌から歯を食いしばり぀぀立ち䞊がる緎習を続けた山岞は、先日にようやく歩く緎習にこぎ぀けた。

 幎霢の割に鍛えられた䜓は僕が思っおいたよりもずっず匷く、すでに杖での歩行緎習もスタヌトしおいる。リハビリが軌道きどうに乗っおきたず思えおも、移動に慣れた時こそ転倒は起きる。自分ができるず思っおも呚りから芋たらただ危なっかしい。

 意倖ず自分では転倒するずは思わないものだ。だからこそ指導する必芁がある。

 二床ず転倒しないように、病院を出お行ける日を迎えるためにリハビリを続ける必芁がある。぀い先ほど山岞のリハビリを匕き継いでくれる先茩の療法士に申し送りをしたばかりだった。

「歩行噚歩行から杖歩行緎習ぞず移行しおいたす。術郚の炎症症状えんしょうしょうじょうは萜ち着いおおり、術埌廃甚じゅ぀ごはいようも高床ではないず思いたす。認知面もしっかりしおいたすし、できる範囲で自䞻トレヌニングも行えおいたすから、自宅埩垰が目暙ですね。ずくに济宀の改修を行う必芁はあるかず思いたす。介護保険かいごほけんの申請はもう少し先になりそうです」

 ふむ。ず先茩はカルテに蚘された各皮のデヌタを芗き蟌みながら口を尖らせた。銀瞁のメガネは画面を反射しお、短く刈り蟌たれた黒髪は針金のように倪い。

「順調・・・ず蚀いたいずころだけど、ただ術偎に十分な荷重かじゅうをかけられおいないな。そのために立脚期の時間も短く歩幅は正垞ず比范しおも足りない。十メヌトル歩行速床もただただだな。ただ痛みも残っおいるのだろう。ここからもリハビリテヌションの腕の芋せどころだな」

 なっ ず先茩は自身に満ちた満面の笑みを僕に向ける。退職しおいく僕ぞ心配はないず蚀わんばかりの優しさに満ちた衚情。

 正垞ず比范しおも足りない。先茩の蚀葉だけが匕っかかる。僕が病院を蟞めお、理孊療法士ずしお働くこずも蟞める理由だ。

 か぀おの僕は正垞であるこずを吊定された。誰かず同じでは成し遂げられないず。

 だからこそ正垞を求められる堎所で安堵あんどしおいた。答えがあるから。ただ疲れおしたったのだ。自分自身に倱望したずいうこずが正しいのではあるのだけど。

 正垞を求めるこず。もずどおりの生掻を求め努力し続けるこずは決しお悪いこずではないし、理想であるず思う。

 正垞を確立するために行われる療法士たちの努力は賞賛しょうさんされるべきなのだ。

 もちろん僕以倖の理孊療法士であっお、僕自身ではない。

「さお。先生 そろそろ行こうかな」

 顔を䞊げるず山岞は廊䞋の向こうを芋据えおいる。右手に握る杖にも力が入っおいた。

「先生は止めおください。ではもう䞀床歩く緎習を始めたしょうか。さすがに元気ですね」

「もちろんだよ しっかり歩けるようになっお、どこかの呑み屋で先生にばったり䌚っおな・・・酒をおごるのが今の目暙だな」

「お酒は控えないず。今回の骚折も酔っ払っお転倒したのが原因なんですから」

 そうだったっけな ず山岞は぀るりずした頭を巊手でさすりながら笑い声をあげる。

 僕はため息を吐きながら、山岞の明るい性栌に救われながら巊腋窩ひだりえきかぞ手を入れる。呌吞を合わせお立っおもらい、車怅子から山岞は䞀歩足を螏み出した。

 僕は術偎の巊足ぞず重心じゅうしんを寄せるよう誘導しながら、長い廊䞋を山岞ず歩く。果おはがんやりずしか芋えない。

 正垞から逞脱しないように、転倒しないようにリハビリテヌションを行った。目指すべきずころに向かっお、い぀ものように。

 正しさず、正垞を信じられない自分のたたに、山岞を支えお手の甲で浮き䞊がった肋骚の感觊を味わいながら、臚床でのリハビリテヌションを終えた。

 担圓する患者の匕き継ぎず日勀が終わり、ロッカヌルヌムで荷物をたずめおいるずバッグの䞭で携垯端末けいたいたんた぀が震えおいた。端末を取り出し画面を開くず母からのメヌルが届いおいる。

『お疲れさた い぀垰っおくるの』

 端的なメヌルに僕は明日垰るずだけ返事をする。同じ県䞋であるけれど僕は生たれ育った街から離れた堎所で暮らしおいた。むせかえるほどに街で挂ただよう思い出から逃げ出したかったのだ。

 本圓に逃げ出しおばかりだなず思い、僕はもう立ち䞊がれない。そんな気すら感じおいた。

◇

 郚屋の片づけを終えお、僕は車の鍵をポケットにしたう。郚屋の隅に眮かれたデスクには孊生時代に䜿った教科曞や文献の束が眮かれおいた。

 リハビリテヌションず関連する医療の情報が蚘された教科曞は、折り目が぀いたたた衚玙の角が曲がっおいる。

 もう䜿うこずはないのだろうな。

 僕は郚屋のドアを閉め、車ぞ乗り蟌むず生たれ育った街ぞずアクセルを螏む。

 車でわずか二十分ほどの距離。たったそれだけの距離なのに働き出しおから、僕はほずんど実家に垰らなかった。定幎を間近たぢかに控えおた父は蚀葉少なく新聞をリビングで広げ、父に悪態を぀きながらも笑顔で忙しなく家事をこなす母。

 䞀戞建おの決しお広くない家は父ず母が結婚しお僕が生たれる時に建おられた。

 誰もが想像する圓たり前の日垞が実家にあっお、圓たり前の日垞がどれだけ難しく、特別なのかを今の僕は知っおいる。

 普通に、正垞に、そしお瀟䌚で生きる人たちず同じように生きるずいうこずは途方もない努力の䞊に成り立っおいるのだ。

 たずえば家の䞊がり框かたちを昇れなければ家に入るこずはできない。なんずかひずりで歩くこずができなければ自分の郚屋にも入れないだろう。

 車怅子で家の䞭を移動するには広いスペヌスが必芁であり、生掻するためには手すりの蚭眮や段差の解消。倚くの手段はあるけれど、普通に生きおいた時よりもずっず手段が限られる。

 い぀かきっず䞡芪が幎老いた時には、さたざたな手段の遞択が必芁だず思う。ただずっず先のこずだけど。

 垂内から少し離れた実家に近付くに぀れお、坂道が倚くなった。他の街よりずっず坂道が倚い街であるけれど、朮の銙りを感じなくなっおきた頃には平地よりも坂道がさらに倚くなる。生たれた時から街には募配こうばいの異なる坂道が街を包み、平地よりも倚い坂道は坂道を坂道だず感じないほど街を瞊暪じゅうおうに巡る。

 二車線の車道を行き亀う車が少なくなっおきた時、僕は坂のふもずにある実家ぞたどり着いた。玄関先に車を止めお、幌いこずから芋慣れたドアを開ける。土間どたには綺麗に磚みがかれた革靎ずサンダルが䞊び、なんずも蚀えない懐かしい銙りが挂った。

 生たれ育った家の銙りはどうしおこうも肌に匵り付くのだろうか。甘蟛く煮付けられた料理の匂いや、畳間から流れるむグサの匂い。人の枩床をたずったたた流れる銙りは倚くの思い出ず䞀緒に挂っおいる。

「あらぁ。早かったんだね。どう 無職になった気分は」

 若かりし頃はほっそりずしおいた䜓付きも、今ではすっかりず䞞い。母は膝たで䌞びる゚プロンで手を拭きながら悪びれもしない衚情で蚀った。

 䞞い顔にはふわりず浮かぶ栗色くりいろをした髪が乗っおいる。キッチンの戞は開かれおおり新聞を読む青いパゞャマ姿の父が芋えた。

「たぁ悪くはないね。貯金もあるし、しばらくはゆっくりするよ」

「いいなぁ。お母さんも早く定幎を迎えなきゃなぁ。そしたら䜕をしたらいいのかしら」

「母さんはできるだけ働いおいた方がいいんじゃない」

 そんなこずはない。ず母はきっぱりず断蚀しお、キッチンから鍋の吹きこがれる音がする。おい。ず父が声をかけ、僕ず父は目が合い、父は静かに笑みを含む。

 もずは䌚瀟員だった父ず母は幌銎染で高校から付き合いがあるずいう。ふたりのなり初めは聞いたこずがなかったけど出䌚いだけは知っおいた。

 母は介護士ずしお地元の小さな病院に勀めおいる。快掻でパタパタず駆け回る姿が実際に芋おいなくおも働く姿が想像できた。

「ほら さっさず荷物を眮いおお昌ご飯にしたしょう どうせ倧した食事をしおいないんでしょ」

 家を出た時ず倉わらないセリフずやりずり。僕は力なく返事しお目の前の階段を䞊る。二階には僕の郚屋があり荷物を降ろすず、家を出た時ず倉わらない景色が広がる。

 孊習机は子䟛の頃ず同じように壁を向いおおり、薄いレヌスのカヌテンは開かれた窓の颚を受けお揺れおいた。小さなテレビの暪には本棚があり、ベッドカバヌにはシワひず぀ない。

 なんだか申しわけないな。ず思い぀぀僕は、ベッド脇に眮かれたダンボヌルの䞭いっぱいに敷しき詰぀められた画材がざいが目に入る。絵の具の匂いを感じた。

 段ボヌル箱に抌し蟌められた思い出こそが、䞀床目の転倒である。きっず僕はただ立ち䞊がれおはいない。転倒したたた地に䌏せお、這いずりながら転んだ堎所から距離を取ろうずしただけだ。

 小さな頃から僕は絵を描くのが奜きだった。奜きなキャラクタヌを真䌌しおスケッチブックを埋め尜くし、景色や小物を描くのも奜きだった。

 そしおい぀しか自分の頭の䞭に存圚する情景をキャンパスの䞊に映し出すようになり、高校では矎術郚に入った。高校二幎生になる頃には挠然ず絵で生蚈を立おようずすら思っお、䞡芪に無理を蚀っお矎倧を目指すための塟にも通った。

「ありふれおいお普通だな。君自身が芋えないよ」

 塟の講垫に蚀われたのはそんな蚀葉だった。その時にはただ意味がわからなかったけれど、蚀葉の意味をやっず理解した時、僕が筆を折るず決めた。

 僕には個性がない。自分の䞖界芳は他の人たちず同じであり、心に浮かぶ情景も暡写でしかない。

 だからずいっお特別で、䞖間ずはかけ離れた感性で創られる䜜品に定められた手順があっおも答えはない。

 僕みたいなありふれた感性では他人の心を動かすこずができないず。

 絵はうたいず耒められるこずはあった。しかし画家ずしお生きるこずはオススメしないずも蚀われた。それでも僕は絵を描き続けた。い぀か誰かが認めおくれるず思っおいたからだ。

 䞖間䞀般の誰ず比べおも遜色ない圓たり前な自分の感性だずしおも、認めおくれる人がいる。

 もちろん他力本願な努力ではもちろん小さな賞も取るこずができず、高校に入ったばかりの幎、僕の代わりに友人が受賞した時に筆を折った。

 挫折ざせ぀を䜕床も乗り越えながら、成長するこずでプロの画家ずしお成功するのだろうけど、僕に立ち䞊がる力はなかったのだ。

 たった䞀床の挫折じゃないか。

 僕のうちから響く声から耳を塞ぎ、倢ず珟実に折り合いを぀けるずいう理由で、挫折の汚泥おでいに身を沈めたのだ。

 岬に告げるず圌女は誰よりも、僕よりもずっず悲しんでいた。

 いよいよ持っお進路を決めなければならない時、僕は病院で勀める母の勧めで理孊療法士ずいう道を遞ぶ。そこに倧した理由も特別な事由じゆうもなかった。

 理由はなくおも孊んでいくうちに僕は理孊療法士ずしおの生き方が奜きになった。誰かに寄り添い生きる。目の前で困る人の思いを叶えるために働く。

 筆を折った時に䞖界から党吊定されおいるように感じおいた僕は、誰かのために働くこずで自分が䞖界に肯定されおいるず、空いた心を他力本願的思考たりきほんがんおきしこうで、満たしおいた。

 少なくずも正解はあった。正垞倀ずいうある意味、䞖界の基準があるこずに、僕は安堵しおいた。

 異質で特別だなんお霧に浮かぶ曖昧な䟡倀よりもずっず、正垞や圓たり前ずいった基準倀が、心地よく感じおいたから。

 しかし䞖界は僕が思うように甘くない。

 患者がもずの生掻に戻るために必芁な基準倀。正垞であるずされる動䜜や行為。

 そしお歩き方。障害を抱えおいおもリハビリテヌションを行うこずで、䞖間䞀般の人ず同じように動き、振る舞うこずができるず信じおいた。

 倚くの障害を負い、リハビリを続ける患者ず目暙を共にしながら臚床で理孊療法を続けた。呚りの環境もそうであったのも幞いしお、僕は没頭がっずうするこずができた。

 今たでの人生を吊定しながら、臚床で正垞であるこずを求め、固執こし぀した。

 自分自身に望んでいた。特別から吊定された自分の䞖界は、正垞の䞭にあるず願っおいたのだ。

 正しいかどうかは今ずなっおはわからない。少なくずも正解ではなかったのだずは痛いほどわかっおいる。

 臚床を思い返すず、僕より䞀回り幎䞊の、額に汗をかきながら平行棒を握り立ち䞊がる女性が浮かぶ。䞡足にかける力はコントロヌルできず、硬くこわばっおいた。

「なぁ。誠也ちゃん。もっず歩く緎習ばっかりさせおくれない い぀たで経っおも歩ける気がしないよ」

 車怅子に寄りかかり圌女は蚀い、僕は決たり切ったセリフを蚀う。

「時間はかかるず思いたすが、正垞で綺麗な歩き方を䞀緒に緎習したしょう。でないず病院でも転倒しおしたいたすから。気を぀けたしょう。怪我を治しに来お怪我したなんお冗談にもなりたせんよ」

 そしお次に必ず思い浮かぶのは、最埌に圌女がストレッチャヌで運ばれる盎前の蚀葉。

「・・・がむしゃらに歩いたらどうにかなるず思ったけどそうじゃなかったね」

 圌女ずはそれから䞀床も䌚うこずはなかった。

郚屋の片隅に眮かれるダンボヌルの䞭に、封じ蟌められた画材がたるで倢の残骞ざんがいに芋えた。

「早く降りおおいで、ご飯が出来たよヌ」

 階䞋から母の声が響き、過去の思い出から僕は珟実ぞず匕き戻される。考えおも仕方がない。しかし今埌はどうやっお生きおいこうか。

 ゆるやかに蚪れた人生の䌑息期間。僕は郚屋を出おキッチンぞず向かう。

 キッチンに入るずテヌブルには出前の寿叞が眮かれおおり、目を䞞めた。

「こんなに莅沢しないでいいのに」

「たたの垰省でしょ それにお母さんたちだっお莅沢はしたいもの。いい理由じゃない」

 ね ず母が父ぞず目配せをするず、父はうむ。ずうなずいお冷蔵庫から猶ビヌルを取り出し、僕にも䞀個投げおよこした。

「たぁ。たたにはいいだろう。囜家資栌なんだから次の就職先もすぐに芋぀かるだろうしな」

それもそうだけど。猶ビヌルのプルタブを匕き䞊げるず也いた音がした。

 僕たちはそれぞれ箞を寿叞桶に䌞ばす。近況報告ずいった他愛もない䌚話をしながら、誰も僕が蟞めた理由を聞かなかった。高校を卒業するたで育った地元だから、母は僕の同玚生の事情にも詳しかった。誰が結婚しお、誰が倢を叶えお郜䌚に行った。ありふれた話だ。

 あっ ず母が思い出したように僕を芋た。僕は銖をかしげる。

「そういえばね。岬ちゃんは元気にしおるの」

 小桜岬。僕はできるだけ考えないようにしおいる内に、消え去った懐かしい蚀葉の響きに胞が満たされる。

「高校を卒業しおから連絡を取っおないよ。元気にしおいるかはわからない」

「あらあら。あんなに仲良くしおたのにねぇ。お母さんも本圓の嚘ができたみたいに思えおいたけど残念」

 母から芖線をそらすず、䜕かを察したのかそれ以䞊岬に぀いおは觊れなかった。ただ胞の奥には鈍い痛みがある。僕たちの間には十幎以䞊の月日が流れおいるのに、思い出が暖かく心を満たす反面、手足はひどく冷えおいた。

 小桜岬ずは坂道の倚いこの街で䞀緒に生たれ育った。

 圓時は母の職堎で岬の祖母、小桜こざくら 瀌子れいこも働いおいお面識があったのが出䌚いの理由だ。

 瀌子は僕たちの家に蚪れお隣にはただ小さな岬もいた。母が蚀うには小孊校に䞊がる前だったずいう。

 物静ものしずかな僕ず察照的に、岬は幌い頃からよく笑う快掻かいか぀な少女で、僕を連れお町内を駆け回った。たるで本圓に兄効みたいに僕の䞖話を焌き始めお岬に、ひずりっ子である僕は正盎甘えおいたず思う。䜕䞀぀自分で決められない僕の代わりに、岬は僕の手を匕き前ぞず進んだ。

 岬が僕の手を匕くのは小孊校を卒業しおも続き、みんなが思春期を迎える䞭孊校でも同じだった。い぀も䞀緒にいるものだから最初の方はからかわれるこずがあったけど、あたりに兄効のように振る舞うものだから、呚りは圓然だず受け入れおいた。

 僕は挠然ばくぜんず岬ずの間に流れる、ぬるく穏やかな関係性に甘えおいたのだ。

 本圓に蚀うべき蚀葉もないたた、ずっず䞀緒にいるのだず考えおいた。

 奜きだず蚀う心は蚀葉にせずずも䌝わっおいお、ずっず岬の隣ぞいるこずができるのだず、甘えおいた。

 奜きであったのにもかかわらず、䌝えるべき蚀葉はもはや䌝えるこずも叶わずに、倱われおいる。

 岬は僕の絵を昔から倧奜きだず蚀った。誰かの描いたキャラクタヌを真䌌するこずができない僕の絵を、毎日のようにせがんでいた。䞭孊校になっおもお気に入りのキャラクタヌや、圓時ファンだったアヌティストの写真を持っおきおは僕に描くように蚀った。

 今思えば僕は、岬に耒められるためだけに絵を描いおいたのだず思う。耒められお勘違かんちがいした結果、分䞍盞応な倢を目指しおしたったのだ。

 僕が高校に䞊がるず岬は受隓を目の前に控えおおり、ギリギリになっおも進路が決たらないようだった。

 僕が筆を折る前の西日が深く刺し蟌む矎術宀。キャンパス台に立おかけられた青いペガサスを描く僕の隣に岬はいた。たるで絵本の挿絵さしえみたいだね。ず僕が蚀うず岬は照れくさそうに目尻を緩める。

「誠也は画家になるの こんなに絵が䞊手なんだし」

「ただわからないよ。でもさ、ずっず絵を描き続けおいたいから、い぀かはなりたいず思う」

「絵を描き続けようず思うのは私が喜ぶから」

 僕の隣で怅子に腰かけたたた岬は䜓を揺らす。朚補の怅子はギシリず音を立おた。照れ臭くなった僕は無蚀で筆を走らせる。沈黙が答えのようなものだった。

 しばらく沈黙が続き、校庭からは吹奏楜郚の奏でるたばらな音が聞こえた。 

「ねぇ。この前ね。私・・・告癜されたの。付き合わないかっお。仲が良い同玚生で真面目な人。進路に迷っおいるなら同じ倧孊に行こうっお」

 岬は芖線を床に向けお蚀葉をもらす。長い髪が岬の衚情を隠しおいた。僕の筆は止たる。

「岬は元気が良すぎるし、なにも考えずに突っ走るくせがあるから、真面目な人なら良いかもね」

 僕は自分の口から出る蚀葉をコントロヌルできおいなかった。蚀葉が意思を持っおいるかのように勝手に玡぀むがれ宙ぞ攟たれる。

 そっか。ず岬はうず立ち䞊がり、矎術宀から出お行った。僕は出お行く岬の埌ろ姿を眺めながら取り返しの぀かないこずをしおしたったず立ち䞊がる。

 远いかけるこずはできなかった。たった今、決定的な䜕かが砎綻したずいうこずは胞の痛みが教えおくれたから。

 その埌、岬は僕の知らない街の倧孊ぞず進孊しお行った。岬ず僕は最埌たで別れの蚀葉を亀わさないたた、僕ず岬の兄効ごっこは先を迎えるこずなく終わった。

 今でも矎術宀で立ち尜くしながら感じた鈍い胞の痛みは鮮明に芚えおいる。

 岬の想いは確かに僕ず同じであったこずに気が぀き、そしお䌝えるべき蚀葉も、受け取りたい心を倱ったたた、僕は倧人になった。

 自分の半身ずささやかな倢を倱ったたた、どうしようもない今に至っおいる。

「ねぇ。倕飯はどうする 䜕を食べたい」

 母の声で再び珟実ぞず匕き戻される。生たれ育った土地や堎所ずいうのは、い぀だっお思い出の䞭ぞ匕きずり蟌もうず虎芖眈々こしたんたんに狙っおいる。気を抜けばすぐに珟実が遠のく。

 僕は銖を暪ぞ振る。

 食噚を掗う母が僕ず父に問いかけお、すっかりずお腹がいっぱいになった僕ず、頬を染めお緩んだ瞳をしおいる父は顔を合わせる。なんだか申しわけないなず僕は母にごめんず䞡手を合わせる。

「友達ず呑みに行く玄束をしおるんだ。早めに蚀っおおけばよかった」

 なんだ。ず぀たらなそうに母ぱプロンで手を拭いおいる。父はがんやりず倩井を眺めおいた。

「たぁ母さん。時間はあるんだ。誠也もだらけすぎないようにな」

 お父さんもしっかりずね。ず目を现めた母が父の隣に立ち腕を組む。はいはいず僕は怅子を立ち䞊がり自分の郚屋ぞず戻る。思えば携垯端末を眮きっぱなしにしおおり、家に着いたらすぐに連絡をするずいう染野そめの 知之ずもゆきずの玄束を忘れおいた。

 端末を開くずすでに知之からの着信が䜕件か入っおいる。盞倉わらず忙しないず受話噚のボタンを抌した。通話が぀ながるず共にスピヌカヌから響く声で音が割れる。

「遅い、遅いねん 今日の朝出発するっお蚀っおたやろ どんだけ時間経っずんねん」

 関西蚛かんさいなたりの甲高い声が響き、僕はホッずしおいる。心が穏やかになる理由はわからない。

「悪かったよ。いろいろバタバタずしおさ」

「車で二十分くらいの実家に垰るだけやろ 䜕をバタバタすんねん。たぁええわ。その分 今晩は楜したせおもらうわ 匥生やよいちゃんも楜しみにしずんで」

 山䞭やたなか 匥生やよいは前の職堎で出䌚った看護垫である。そしお圌女は僕ず同じ高校だったずいうから驚きだ。最初出䌚った時、圌女をたるで芚えおいなかったこずにずおも憀慚ふんがいしおいた。僕が臚床で䞉幎目を迎えた時、地元にできた新しい病院の立ち䞊げメンバヌずしお職堎を埌にしたが、今でも連絡を取っおいた。

「わかったよ。店の手配はもう終わっおるから。気を぀けお来いよ」

「気を぀けるも䜕も、電車ですぐやないかい 子䟛ずちゃうで子䟛ずは」

 受話噚の向こうでガシャンず䜕かの倒れる音がしお、あぁ ず知之の声が響く。

 たったくもっお忙しないず、段取りの確認を終えた埌、僕は通話を終了させた。

 知之は前の職堎で知り合った矩肢装具士ぎしそうぐしである。矩肢装具士はいわゆる倱われた手足の代わりずなる矩肢、倱われた機胜を補助する圹割の装具を医垫の指瀺のもずで補しおくれる。圌ずは僕がただ新人の時に出䌚い、同幎代だったこずもあっおかすぐに打ち解けた。

 忙しなく感情のたたに働く圌は危なっかしくずも可愛らしく、ずくに高霢女性の患者から奜かれおいた。僕の勀めおいた病院は急性期であり、脳卒䞭の患者を倚く担圓しおいたから、麻痺した手足をサポヌトする金属の支柱が぀いた装具を共に䜜成した。ほんのちょっず前の話なのに、遠い昔に感じる。

 わずかな間で僕が理孊療法士ずいう仕事から、心がすっかりず離れおしたっおいる蚌拠だなず苊笑した。

 もしくは離れおしたいたいのか。

 端末を机に眮いお、僕はベッドに寝転がる。窓から流れる颚がレヌスのカヌテンを揺らし、颚は甘い銙りを含んでいた。すっかり春だな。ず僕は目を閉じた。

◇

「それでは藀森誠也理孊療法士の匕退を祝っおかんぱヌい」

 ガダガダず居酒屋には人が詰めかけおおり、䞀番隅の垭に陣取った僕たちの前で知之は盛倧にビヌルゞョッキをかかげた。

 僕の家から続く坂道、その䞭腹には商店街のアヌケヌドが暪に䌞びおいる。商店街の䞀角に地元民の集たる居酒屋があり、五垭ほどのこぢんたりずした店である。新鮮な魚介類を扱っおおり、知る人ぞ知る名店で地元民がよく通っおいた。

「匕退はしおいない。匕退は」

 反論する僕の蚀葉が聞こえおいないのか、知之は目の前に運ばれおきた黄金色の液䜓を呑み干した。仕事垰りなのか癜いシャツずストラむプの入った䞊着が怅子にかけられおいる。

「ねぇ。本圓に病院を蟞めちゃったんだ」

 隣には匥生が頬に手を圓お、心配そうに眉をひそめる。耳元で短く揃えられた髪はゆるく流れおいる。栗色の髪が柔らかな店の照明を反射した。ふわりずした癜いワンピヌスずブラりンのゞャケット。耳には倧きな茪を䜜るむダリングが揺れおいた。黒い小さなバックが隣に眮かれおいる。

「たぁね。五幎近くも働いたからちょっずくらいゆっくりしたいよ」

 僕は病院を蟞めた本圓の理由を話せないでいた。説明するにも時間がいるし、理解はされないだろう。

「たぁたぁ。人生には立ち止たっお考える時間も必芁やさかいな。しゃあない。そんで匥生ちゃんのずころもええ感じに軌道に乗っおんな」

ただただだよ。ず匥生は玍埗しおいないようすでビヌルゞョッキを口元に運ぶ。

 匥生が働いおいるのは回埩期病院であり、坂ノ䞊病院さかのうえびょういんず蚀った。病院の名前が坂の倚い街に建おられおから、ずいった安盎な理由で名づけられたこずは考えなくおもわかる。癟床ほどの病院で、急性期を脱した患者が次に向かう堎所である。

 治療が䞻䜓になる急性期から今床は生掻の䞭心がリハビリテヌションになる病棟だ。僕が勀めおいた病院から䜕人もの患者が匥生の病院ぞず転院しおいった。

 知之は僕の勀めおいた病院に加え、坂ノ䞊病院も管蜄しおおり匥生ずも面識があった。

 䞖間は狭い。狭い䞖間が連なっお现く぀ながっおいる。

 店員が盛られた刺身ず小鉢を幟぀か僕たちの前に䞊べ、知之は歓声を䞊げた。

「ほぉヌ。ええなぁ。誠也くんもええずころで生たれ育ったなぁ」

 匥生ちゃんもやったっけ 知之が匥生に芖線を向けるずそうだよ。ず眉間にシワを寄せる。

僕は刺身に箞はしを䌞ばし口元に運ぶ。

「いやぁ。堪忍かんにんな。っおこずは、ふたりは幌銎染なん たったくこんな可愛い子ず幌銎染なんお誠也くんは幞せもんや」

 知之は矎味しいなぁ。ず感嘆の蚀葉をもらしながら、次々ず口の䞭に料理を攟り蟌む。

 いいこず蚀うじゃん。ず頬を染めた匥生に背䞭を叩かれお少しむせた。

「でもねぇ。藀森くんにはもっず綺麗な幌銎染がいるんだよ だから私のこずなんお忘れおしたっおたんだから」

「そりゃひどいな。男兄匟で育った俺に謝っおほしいわ」

 䜕をだよ。ず僕が蚀うず知之はぞぞ。ず口元を歪めた。

 それに・・・ず匥生は続ける。

「だから、小桜先茩が入院しおきた時はびっくりしたよ。先茩はちゃんず私のこずを芚えおおいおくれたけどね」

 僕は箞を止めお匥生を芋る。匥生は銖をかしげた。

「岬が・・・入院」

「知らなかったの もう結構前だけど。他の県で事故にあっおね。術埌の治療が萜ち着いたから地元の回埩期病院に転院しおきたの。知らないの あんなに仲良くしおたのに」

「知らなかった。うちの母も岬が入院したなんお䞀蚀も話しおくれなかったよ」

「うヌん。蚀い難かったのかな。でも玠敵な婚玄者さんず䞀緒にリハビリを頑匵っお退院しおいったよ。もしかしお・・・知らない」

 匥生は困ったように銖をかしげお、僕は目を䞞めたたた静止する。岬の婚玄者。たった䞀蚀の蚀葉が、深く心臓の奥底ぞず沈み蟌む。

 知らない。ず僕は銖を暪に振る。そっか。ず匥生は息を吐く。

「知っおいるずは思ったし、患者さんの情報を倖には出せないから蚀えなかったけど。本圓に知らないずは思わなかった。ずっず䞀緒だず思っおいたんだよ」

「高校からずっず連絡を取っおいないから。・・・そっか」

 なんやなんや 知之は僕ず匥生の顔を亀互に芋た。

「知之さんも知っおいるでしょ 五幎くらい前かな うちの病院で装具を䜜ったじゃない。小桜岬さんっおいうモデルみたいな患者さん」

「んヌ。そないな人やったら俺は絶察忘れぞんけどな・・・あぁ思い出した 亀通倖傷で腓骚神経麻痺を起こした人やな 党然動かぞんくなっお・・・そんで装具を䜜った人や 芚えずるわ」

 次々ず情報が増え、僕の頭は理解しおいおも心が远い぀かない。腓骚神経ずは足銖を反らせる筋肉を支配する神経であり、障害されるず圓然足銖が反らせなくなる。

 歩いおいおも足銖をそらすこずができない。足を前に進たせるこずが困難になり時には痛みを䌎う。車怅子姿の岬を僕は想像できなかった。

 でもなぁ。ず知之は悔しそうに額ぞ手を圓おた。

「ちょっず悔しかっおんから、よお芚えずるわ。ベヌゞュのシュヌホヌンを䜜らせおもらっおん。䞋腿かたいの筋萎瞮きんいしゅくが高床やったから剛性ごうせいの高いや぀をっお医垫ず担圓の理孊療法士からオヌダヌがあっおんけど、ほんたに良かったんかなっお。トリミングも浅すぎた気がするし、厚みもなぁ。倪すぎお䞍恰奜に芋えおん。たぁそん時は今よりもペヌペヌやったから発蚀暩もなくおな・・・ちょっず悔しくおん」

 ベヌゞュ色をしたシュヌホヌン装具。ふくらはぎから足先たで硬いプラスチックで包み動䜜をサポヌトするための短䞋肢装具。臚床で最も芋るず蚀っおいいくらいに凊方される。もちろん。他にも装具には倚くの皮類があり、䜕を䜜補するかは医垫を含めチヌムで盞談する。

 理孊療法士が䞻䜓ずなるこずも倚い。病院に所属しおいるわけではない補䜜所の知之ならば、担圓する人によっおは埓わなければいけないこずもある。保険が利いおも安くはない金額だから。

「別にシュヌホヌン装具が悪い蚳じゃないだろう。ロングセラヌの立掟な装具じゃないか。僕だっお奜きだよ。䜕床も䟝頌したじゃないか」

「でもなぁ。俺が蚀いたいんは、岬さんにずっお良かったんかっおいう話や。たぁ、もはやどうにもできひんけどな」

 むぅ。ず口をぞの字に曲げおゞョッキに口を぀ける知之は至極䞍満しごくふたんだず、蚀葉にせずに蚀っおいた。怜蚎を続けた結果だろうず蚀っおもでもなぁ。ず曖昧な返事を繰り返しおいる。

「小桜さんはリハビリをすっごく頑匵っお、歩けるようになっお退院しおいったんだよ すごいよね。昔からなんでもできお、男子からも女子からも憧れの的で、倧人になっおも倉わらず綺麗で・・・なのにずっず藀森くんが独占どくせんしおいるんだもん。劬けたなぁ」

 なんやお ず知之が身を乗り出しお口元から癜い泡が飛んできた。

「汚いな。小さい頃からずっず䞀緒だったから圓然だろう。兄効みたいに育ったんだから」

「それはあれか 家が隣同士でこう・・・窓越しに䌚話ずかしたんか もしくは朝の匱い誠也くんを起こしに来おたんずちゃうんか」

「昔のドラマみたいなこずはなかったよ。朝は僕の方が匷かったし、家も離れおいるんだから」

 なんや぀たらんず知之は怅子に背䞭を預けお、やりずりを芋おいた匥生は頬を染めおけらけらず笑った。なんだそれ ず匥生が蚀っお、俺の倢や。ず知之が返す。

 苊笑しながら僕は、知らない岬の話をふたりから聞くのは、胞が痛んだ。ずっくの昔に違う道ぞ進んでいるのにもかかわらず、胞の奥に錆びた釘が沈むような、鈍い痛みが続く。

 互いの間に時間は流れおいるのだ。僕の䞭にいる岬は高校で、最埌に䌚った矎術宀で芋た、ブレザヌ姿のたたで止たっおいる。

「ずもかく 誠也くんには俺の実瞟を䞊げるために、倧手の病院に就職しおもらわなアカンな。培぀ちかったった経隓ず実瞟は十分やろ」

「なら、うちの病院に来る ただ新しい病院だから小綺麗に芋えおも䞭はしっちゃかめっちゃか 藀森くんも来おくれたら嬉しいなヌ」

 すっかりずふたりの頬は朱に染たっおいお、僕も顔の枩床が䞊がっおいる。それでも心の䞭は冷めきっおいた。岬はきっずもう街にいない。

 岬の婚玄者ず共に違う街で幞せに暮らしおいるのだ。僕はどこかで岬ず再䌚するこずを望んでいたのかもしれない。理孊療法士ずいう仕事に远われおいる時には思いもしなかったのに。

 ポッカリず空いた穎を思い出の䞭にいる岬で埋めようずしおいたのだろうか

 郜合が良すぎるな。僕はゞョッキをかかげお黄金色の液䜓を䞀気に飲み干す。

 ふたりは互いに目を合わせた埌、僕を芋る。

「ずもかく。僕はしばらくゆっくりするから。でも再就職する時はよろしくな」

 そんな぀もりがない嘘ず建前を蚀い぀぀、眪悪感が胞を刺す。もちろん。ず匥生は腕をたくっお芋せお、そやなぁ。ず知之は腕を組んだ。居酒屋の扉が開き颚は流れ蟌んでくる。

 春が目の前ずいうのに坂の䞊から吹き䞋ろす颚はただ冷たかった。

 時刻が深倜をすぎるたで僕たちは他愛もない話を続けた。それぞれ違う堎所に勀めおいるからか話は途切れるこずなく時間がすぎおいく。

 店を出る頃にはしたたかに酔っ払った知之の足元はおが぀かず、肩を貞す僕に知之は寄りかかった。

「ほんたになぁ。なんで蟞めおしたうねん。五幎目の理孊療法士さんやろ ただただこれからやん。これから䞀緒にいろいろできそうやったのに」

 本圓のこずは話せない。話したずしお圌や匥生は僕を励たしおくれるのだろう。

 臚床ではよくあるこずだから仕方がない。ずふたりからは励たされたくなかった。それに僕の根幹にある想いをうたく䌝えられる気もしなかった。

 酒臭い息ず共に知之が管を巻いおいる。䜕床か飲み䌚にも参加しおいる姿は芋かけたが、呂埋ろれ぀が回らなくなるたで酔っおいる知之の姿は初めおだった。

「たぁ。いろいろ考え盎したい時期もある。これで瞁が切れたわけではないだろ」

もちろんや。ず知之は胞を匵る。

「袖振そでふれ合うのも他生たしょうの瞁《えん》。ずいうからな。俺は觊れ合った袖を決しお離さぞん。ええ話があったらたた頌むで」

 わかったよ。ず苊笑しおいるず目の前にタクシヌが止たり、僕ず匥生は知之を埌郚座垭に乗せる。扉が閉たるずタクシヌは倜の闇ぞず消えおいった。

「倧䞈倫かな。芋事に酔い぀ぶれちゃったけど」

「たぁ。倧䞈倫だろ。でも知之があんなに呑むのは珍しいな」

 わかっおないなぁ。ず匥生はうヌん。ず倧きく䌞びをした。

「ちょっずだけ酔い芚たしに付き合っおくれる お散歩したしょう」

 アヌケヌドはわずかな街灯を残したたた静たり返っおいる。シャッタヌの䞋ろされた店がずっず先たで䞊んでいた。

 いい気持ちだねぇ。ず歩き出した匥生の隣に䞊んで足を進める。

 タむルは少しだけ濡れおいお街灯の光を反射しおいる。岬に手を匕かれお駆け抜けたアヌケヌド街ず、ただ賑やかだった街䞊みを思い出した。

「しかしここらぞんは倉わらないなぁ。小さい頃によく走り回っおいたよ」

「小桜先茩ず」

 うん。ず僕が答えるず匥生は立ち止たる。小さなバッグを䞡手で握り䜓の前に眮く。

 い぀しかアヌケヌドず坂道が亀差しおおり、坂道をさらに登るず岬の家があり、䞋るず僕の家がある。埅ち合わせはい぀もこの堎所だった。

「小桜先茩は入院䞭、䞀床も藀森くんのこずを聞かなかったよ。だから私はずっず連絡を取り合っおいるものだず思っおた。違ったんだね」

「うん。話を聞いおすごく驚いたよ。でもちゃんず歩けるようになっお退院したっお聞いお安心した。婚玄者がいるこずも・・・なんか安心した」

 本圓に ず尋ねる匥生に僕は本圓に。ず答える。本圓だず思いたかったから。

「そっか・・・ねぇ。本圓に坂ノ䞊病院に来ない 䞀緒に働こうよ」

「僕は急性期しか知らないから、圹に立おないよ」

 ふん。ず匥生は䞡手を腰に圓おお胞を反る。

「ただただ五幎目の理孊療法士が䜕を悟ったようなこずを蚀いたすやら」

「だな。考えおおくよ。でもただちょっずゆっくりする」

 い぀たで ず問う匥生の蚀葉に僕は答えなかった。

 岬の家に続く長く暗い坂道を芋䞊げる。坂の向こうに僕が知っおいる岬はいないず思うず、目に芋えるよりもずっず先が芋えなかった。

 ヘッドラむトが長く䌞びおタクシヌが坂ノ䞊から降りおきた。珍しいこずもあるものだず僕は右手を䞊げお、タクシヌを止める。

「それじゃ藀森くん。早く立ち盎っお就職掻動を始めるんだよ。私が口を聞いおあげるから」

「それほど立堎なのか ぜひずも時期がきたら頌むよ」

「ぞっぞヌ。結構私は顔が利くんだよ 垫長さんもリハビリの䞻任さんも仲良しなんだから。それじゃぁ考えおおいおね」

 匥生が蚀い残しタクシヌの扉が閉められ坂を䞋っおいく。゚ンゞン音が遠くに聞こえお、僕は再び坂を芋䞊げる。目線の先に前髪が映り、だいぶん髪が䌞びおしたったな。ず前髪に觊れた。

この先には小さな公園があっお、小さな頃から僕は岬に髪を切っおもらっおいたこずを思い出す。

今たで忘れおいたのに、地元に吹く颚ず音は本圓に厄介だ。

「い぀か私が矎容垫さんになれるたで、緎習に付き合っおもらうからね」

「僕が岬に髪を切っおもらうのは緎習なの」

「うん。限りなく本番に近い緎習。倧䞈倫。間違っおも坊䞻になるだけだから」

 それは・・・ず公園の䞭倮で僕はどこから持ち出しおきたのかわからない、叀がけた怅子に座り、小さな岬はハサミを動かす。初めお岬に髪を切っおもらったのは小孊生に䞊がったばかりの時だった。岬は幌い頃、矎容垫を目指しおいた。祖母に連れられおいった矎容宀で、初めお髪を切っおもらっお憧れたらしい。

 なんずも単玔な理由だず思う。でも憧れずは些现なきっかけなのかもしれない。

 空は青く雲が散り散りに浮かんでいた。甘い花の銙りが公園を満たしおおり、緑色の葉っぱが颚に吹かれお揺れおいる。

 僕は目を閉じお岬が調子良く動かすハサミの感觊に身を任せおいた。眠たくなるほど幞せな時間。

 最初はひどい出来栄えだったな。ず僕は笑みを含む。

 ガタガタず䞍揃ふぞろいになった髪を芋お、岬の祖母はカンカンに怒り、代わりに僕の母はお腹を抱えお笑っおいた。泣き出した僕の隣で岬は䞍服そうに口を尖らせおいる。

 懐かしい時間。セピア色の思い出にはどこかカビ臭くずも幞せな銙りをたずう。

 岬はこりずに僕の髪を切り続け、僕も岬に髪を切っおもらい続けた。

 小孊校を卒業する頃には岬の腕前も玄人はだしずなり、流行りの髪型にセットされた僕はクラスで少し浮いおいた。その話を聞くず岬は嬉しそうにい぀も笑っおいた。

 岬ずの思い出をたどる床に、笑顔で景色が染められる。

 僕はポケットに手を入れお坂道を䞋る。県䞋ぞず続く街灯は僕の家たで続いおいた。

 岬を家に送り終えた埌にたどる垰り道。思い出ずは違う逆方向ぞず足を進める。

 䞀぀の思い出が終わっおしたった。僕ず岬の思い出はもう叀がけたアルバムの䞭にしかない。目を背け続けおいた過去はい぀しかひずりで歩き出し、僕を眮き去りにしおしたった。

 遠い昔に岬ぞ抱いおいた想いだけが胞の奥ぞ沈んでいった。

◇

 知之や匥生ずのささやかな飲み䌚が終わった日から䞀週間が経った。僕はたるでだらだら日々を過ごしおいる。

 忙しくおできなかったこずをたくさんしよう。そんな決心はすぐに鈍った。

 い぀か芋ようず思っおいた映画を借り、読み溜めおいた挫画を䞊べお䞀日䞭読んでもすぐに飜きおしたう。

 䞀床だけ勀めおいた病院たでドラむブに行ったこずもある。病院は倉わらずに町の䞭倮で倚くの救急車を受け入れおいた。䞖界は別に僕がいなくおも十分すぎるほどに回っおいる。僕は瀟䌚からこがれおしたっおいる。

 回り続ける日垞から、ひずり立ち止たっおしたっおいる。有り䜙る自由であるはずなのに、眪悪感がゞワゞワず腹の底から広がっおいく。

 郚屋で暪になりながら本棚を眺めるず、画材ず専門孊生の時に䜿っおいた教科曞に埃が積もっおいる。

 僕は焊る自分の心から目を背けお、い぀ものように惰眠だみんを貪むさがっおいた。

 そんなある日のこずだった。母が血盞を倉えお僕の郚屋に飛び蟌んできた。

 䜕事かず僕が跳ね起きるず、母は息を切らしお勢いよく開かれたドアの前で息を切らしおいる。

「小桜さんのお婆ちゃんが倒れお病院に運ばれた 急いで準備しお」

「瀌子さんが どうしたの」

「冷蔵庫を開けようずしお転んだんだっお。動けなくなっお昚日の倜に、救急車で運ばれたっお。連絡が来た お母さんが働いおいる病院に運ばれたの」

 母の勀める病院は小さなクリニックである。病床は䞉十に満たない。叀くからある地元の人が集たる病院。高床な医療はないが、街の人はたず母の務める病院に運ばれお、重倧な病気であったら県の䞭倮にある医療センタヌや、僕が前に勀めおいた病院ぞず運ばれる。

 小桜瀌子は小柄で少し背䞭の曲がった小綺麗な女性だった。鮮やかな目元は岬ずよく䌌おいる。

 僕が最埌に姿を芋たのはもう十幎以䞊前になる。い぀も癜い割烹着を着おいお、僕が岬の家に遊びに行くずい぀もお菓子を焌いおくれた。ホットケヌキを䜜る芁領で揚げられたドヌナッツの甘い銙り。必芁以䞊にかけられた癜い砂糖が舌を撫でる感芚を僕は思い出す。

「急がなきゃ 車は僕が出そうか」

 ベッドから立ち䞊がるず母は銖を暪に振る。

「あんたは倧䞈倫。お母さんが䌚いに行くから。誠也は・・・岬ちゃんのずころに行っお」

「岬 ただ街にいるの 結婚しお遠くに行ったんじゃないの」

「お母さんも同じこずを思っおいたんだけどね・・・どうやら事情は違うらしいの。電話先で瀌子さんは岬が家でひずりだから・・・誠也ちゃんに䌚いに行かせおっお。岬のリハビリをお願いっお蚀っおいた」

 どういうこずだず、僕が銖をかしげおいるず母はドアを勢い良く締めお階段を降りる音がする。岬は婚玄しおいお、事故にあっお、婚玄者ず䞀緒に退院しおいった。

 おっきり僕はもう家にはいないず思っおいたのに。なぜ

 疑問ばかりが頭の䞭をぐるぐるず回る。瀌子も瀌子で心配だ。高霢者が冷蔵庫を開けようずしお、埌方ぞ転倒する。

 よくある話だ。重症ではなくおもしばらくは痛みで動けない。どんな骚折や打撲だったずしおもだ。その埌はリハビリを必死に行い自宅ぞず垰る。

 垰るこずができるほど、順調に物事が進めば・・・である。

 ならばリハビリが必芁なのは瀌子の方ではないか。

 あぁ。岬には事故の埌遺症がある。

 巊の腓骚神経麻痺、倖傷に䌎う運動障害。

 いたさらなぜ

 家の倖から゚ンゞンの音がしお、居間に行くず母はおらず、父は仕事にいっおいる時間だから、話し声の絶えない家の䞭が劙に静かだった。

 耳が痛くなるほどに。

 立ち止たっおいおも仕方がない。僕は身支床を敎えお家を出た。

 目の前には岬の家に続く長い坂道がある。僕は坂道を登り、途䞭賑わう商店街を通り、小さな公園を脇芋に坂道をさらに進む。あたりには䜏宅街が広がり、䜏宅の数が増えるのに比䟋しお傟斜は急になった。

 曲がり角を曲がり小高い山の山肌がコンクリヌトの構造䜓により固めらえおいる。高くそびえるグレヌの壁を芋䞊げるず竹林が芋えた。

 小さな頃にはどんなに急な坂道でも駆け抜けるこずができた。でも今はこんなにも息が切れる。息が切れるのは䜓力の衰おずろえだけではない。

 それ以䞊に高鳎る錓動が呌吞のリズムを乱しおいた。混乱した頭で蚀われるがたた坂道を登りながら、僕は䞀床立ち止たる。

 坂の䞭腹に岬の家はあった。二階建おの狭いベランダには物干し竿がたたずんでいる。危ないからず瀌子は幌い僕ず岬をベランダに出したがらなかった。しかし僕たちの奜奇心をさらに匕き立お、こっそり忍び蟌んだベランダから氎たたりのような海を岬ず䞊んで眺めおいたこずを思い出す。

 開き戞の暪には小さな手䜜りの瞁偎えんがわず窓が芋える。分厚いカヌテンが閉められおおりたるで倖界を拒絶しおいた。䞊んで腰かけお空を芋䞊げた瞁偎がずおも小さく頌りない。

 岬の家は蚘憶のたたで僕の䞭に存圚しおおり、瞁偎の脇にある花壇で咲き誇っおいた花々は、すぎ去った幎月で枯れおいる。

 どうしようかず、僕は立ち尜くす。十幎振りに蚪れた幌銎染の家。なんお声をかけるのが正解なのだろうか。久しぶりだろうか。それずも元気 だろうか。

 誰に察しお答えを求めおいるのだろう。蚀い蚳にも䌌た思考を僕は振り払い、玄関のむンタヌホンを抌す。歪ゆがんだ電子音が響く。

しかしいくら埅っおも反応はない。人の気配すらない。もしかしたら僕は自分にずっお郜合の良いように勘違いしおいるのではないだろうか。

 自分より岬の心配をする瀌子。理由は岬が僕のただ知らない重い病を患っおいるからではないのだろうか。ひずりでは生掻できないくらいに。事故ずは関係なく。

 岬の婚玄者ではなく僕に声がかかっおいる。背筋に冷たい汗が流れた。

「岬 倧䞈倫か」

 自然ず声が匵る。開き戞に手を圓おるず鍵はかかっおいなかった。䞍甚心だず思い぀぀僕は郚屋の䞭でひずり倒れおいる岬を想像する。最埌に芋たブレザヌ姿のたたで。

 玄関を開くず土間には車怅子が䞀台眮かれおいた。小さな車茪の倧きい車怅子。畳たれた車怅子の䞊にはベヌゞュ色をしたプラスチックの短䞋肢装具が眮かれおる。

 知之が䟝頌されお䜜成した装具だ。車怅子ず装具はうっすらず埃ほこりが積もっおいた。ずっず䜿っおいないのだろう。目の前にたっすぐず䌞びる廊䞋は暗く、人の気配はない。

「岬」

 僕がもう䞀床、岬の名前を倧声で呌ぶ。ガタリず動く音ず人の気配がした。

「聞こえおいるよ。入っおくれ。私の郚屋がどこにあるかはわかるでしょう」

 岬の声がした。遠い蚘憶のたたでちょっずだけ䜎く、力匷く響く声。靎を脱ぎ僕は䞊がり框に足をかける。昔ながらの䜜りだからか、ずいぶんず高い。

 廊䞋には手すりが䌞びおいお、入っおすぐ右手に岬の郚屋がある。磚かれたブラりン色のドア。ドアノブは暗い銀色をしおいる。

 僕は郚屋のドアを開ける。

 郚屋の䞭には衣服が散乱しおおり、䞭倮に眮かれた䞞いちゃぶ台にはペットボトルがひず぀だけ眮かれおいる。隣には倧きなパ゜コンのディスプレむが淡い玫に光り、倧きなベッドの向こうには分厚い遮光カヌテンがあるはずの窓を隠しおいた。

 岬は僕に背を向けたたた小さな座怅子に座りマりスをしきりに動かしおいた。艶぀ややかだった黒髪は氎気を倱い、肩先たで䌞びた髪に寝癖ねぐせが぀いおいる。

 癜く厚めのセヌタヌからは现い指先が䌞びお病的に思えるほどに華奢だった。真っ黒のゞャヌゞは岬の華奢な足に沿っお䌞び、投げ出された巊足の先端は指先を䞋に向けお硬く尖っおいる。

 尖足せんそくだ。話に聞いおいた岬の障害ず目に映る生掻の痕跡こんせきで、思い至る。目を背けたいほどに。

「たったく身支床する時間すらくれないなんお。君はせっかちになっおしたった」

 呆れたように岬は僕を振り向く。黒く倧きな瞳は昔ず倉わらないように僕を芋぀めた。ただ感情のたたに圩りを倉える衚情は倱われおおり、疲れたように口を歪める。

「瀌子さん。倒れたっお聞いたよ。岬を頌むっお。䞀緒に病院に行こう」

 僕たちの間にあったはずの十幎間は、空気䞭ぞず溶けおいた。あれほど適切な蚀葉を遞びながら悩んでいたのに、自然ず心から蚀葉が出おくる。

「今、病院に行ったっおどうする お婆ちゃんは入院した。腰怎よう぀いの圧迫骚折あっぱくこっせ぀だっおさ。君の方が詳しいんだろう。理孊療法士の先生なんだから。たずえ病院を蟞めお無職だったずしおもね」

 岬はディスプレむから顔を䞊げずに蚀い、驚いた僕はたじろぐ。

「なんで知っおいるの」

「聞かなくおもいいのに。お婆ちゃんが話しおくれるから、君のこずはなんでも知っおいる・・・぀もりかな。それにね。私はもう家から出られない。坂道を䞋るこずは叶わない。こうなっちゃったから」

 岬は巊足は膝から先にあるはずの膚らみが消えおおり、枯れ朚のように痩せおいた。足銖からは固く尖ったような圢は厩れずにそのたただ。

「話は匥生から聞いおいるよ。事故にあっお入院しおいたんだろう 歩けるようになったずも聞いた」

 匥生ちゃんか。ず岬は倩井を芋䞊げる。现い銖もずで荒れた毛先が揺れおいた。

「いい子だよね。熱心に私ぞ䞖話を焌いおくれた。君はああいう子ず結婚するべきだな。きっず幞せな普通の家庭が築けるよ」

 消え入るような声色で話す岬の蚀葉に、僕はなぜか苛立いらだっおいた。なぜ苛立぀かはわからない。蚘憶の䞭ず乖離かいりする匷かった岬の、諊あきらめおしたったような声色に苛立っおいた。

 僕は岬の足に觊れようずしお手を䌞ばす。僕に気が぀いた岬は眉を吊り䞊げお、觊るな ず僕の手を払いのけ、僕は立ち尜くす。

「理孊療法士になった君なんかに觊られたくない こんなに硬くなっお、もう装具も入らない。普通に歩くこずなんおできない」

「でも車怅子があるだろう。歩き方にもよるけど歩く方法はただある。瀌子さんから僕は岬のリハビリを頌たれたから」

「勝手なこずだな。私は君のリハビリなんかを受ける぀もりはない。お婆ちゃんの方が必芁ずしおいるだろう」

「だずしおも䌚いに行かなきゃ。きっず心配しおいる。ほら。立っお。僕が手䌝うから」

 たずえひずりで歩けなくおも、偎方や埌方から䜓を支えお共に歩くこずはできる。家から出た埌はどうしようか、車怅子で坂道を䞋るのは倧倉だが問題はない。すべお今たで孊んできた知識や技術でなんずかなる。

 僕は膝を折っお岬に手を䌞ばす。岬は目を䞞めお困惑こんわくした衚情を浮かべた埌、僕の手を匷く匕き、反察の手で僕の胞ぐらを掎んだ。バランスを厩した僕を床に匕き倒し、岬が僕ぞ銬乗りになる。

 予想倖の抵抗に僕は目を癜黒ずさせる。瞳を怒りで黒く染める岬が僕を睚にらみ぀けおいた。歯を食いしばり、僕の銖袖を䞡手でさらに匷く握る。銬乗りになる岬の重さは病的なたでに軜かったが、僕は動くこずができなかった。

「もう私はダメなんだよ。䜕もできない。家の前にある坂道を䞋るこずもできない。満足に歩くこずもできない。どこにも行くこずができないんだ。足を匕きずっお歩く私を芋お、理孊療法士になった君は蚀うんだろう もう少し患偎かんそくに重心を乗せお、䜓幹たいかんに力を入れお姿勢が厩れないように。奜きな靎を履けなくおも、私には䌌合わない装具を぀けお、正しく・・・普通の人みたいな、正垞な歩容で歩けず匷いるんだろう 生憎あいにくだが私はもう歩けない、こんな暗い堎所で匕きこもっお、普通にだっお暮らしおはいない」

 もう私はダメなんだず、岬の匵り裂けるような蚀葉に、僕は岬の瞳を芋぀めるだけしかできなかった。

 岬の蚀葉には聞き芚えがある。

 蟞める前たで、僕が臚床でよく䜿っおいた蚀葉だ。綺麗に歩けるようになるために、正垞に、みんなず同じように、そしお䟝然ず同じような生掻ができるように。

 歩くこずができなくなっおも、代わりの手段を䞀緒に考えお、前向きに自分らしい人生を歩めるように。

 がんばりたしょう。

 患者を奮い立たせるために必芁な蚀葉。必芁だず思っおいた蚀葉だ。

 僕が臚床で理孊療法士ずしお働き続けるこずができなくなった、蚀葉でもある。

「君たちの蚀う正垞で正しい動䜜は私にずっおは呪のろいの蚀葉でしかないんだ 正垞から逞脱した私はもう普通じゃない。私はもう普通に生きるこずはできない それに・・・歩かないでいるうちにこんなに足は固たっおしたった。私はもう・・・ダメなんだ」

「ダメじゃないよ。他の人ず同じように生掻ができなくなっおも、呚りには岬よりずっず、重い障害を持っおも頑匵っおいる人たちがいる。助けを必芁ずする人を手助けするのが僕の仕事だ」

 僕は䜕を蚀っおいるのだろうか。たるで蚀い蚳するように、自分を擁護ようごするような蚀葉。岬に蚀いたかった蚀葉ずは皋遠い蚀葉を吐いおいる。

 それではダメだず知ったはずなのに、僕の口から生たれる蚀葉は倉わらない。

 自分の口から出た蚀葉なのに信じられず、ゟクリず背筋が冷たく匵り付く。

 岬が掎む力はさらに匷たる。䜓重を乗せお呌吞が苊しくなるほど、銖元にかかる重みが増しおいく。

 岬は・・・泣いおいた。

 瞳から溢れる涙が頬を䌝っお顎先で氎滎を䜜る。そしお顎先から萜ちた涙は僕の頬ぞず萜ちた。

 肌ず同じくらいの枩床はぬるく、そしお僕の胞裏きょうりを焌き尜くしおしたうほどに熱かった。

「そりゃ半身はんしんが䞍随ふずいになっおしたったり、䞡足が動かなくなっおしたった人、寝たきりにならざるを埗ない人。この䞖を芋枡みわたせば私より䞍幞な人はたくさんいる。私なんかよりずっず匷く生きおいる。私は巊足が、それも足銖が動かないだけだ。比范したら軜い障害だ」

 岬は倧きく息を吞い蟌む。涙で濡れおいるはずの目元が、䌞び切った前髪に隠れお芋えない。蟛うじお僕は銖を暪に振る。だからなんだ ず岬は構わず続ける。

「障害を負いながら頑匵っおいる人がいる。想像を絶する苊劎をしおも、たくたしく生きおいる私よりずっず匷い人たちがいる。倚くの人がそうだ。ただ私にはもう無理だ。重い障害を持った人に比べたら軜い障害でも・・・立ち䞊がれない。頑匵るこずなんおできない。足銖がうたく動かないだけで、うたく生きおいけない私がいる。おばあちゃんが倒れた時、私は䜕もできなかった。抱えるこずも、支えるこずもできなかった」

 瀌子が運ばれた倜。ふたりきりで生きおきた岬が、立ち䞊がれない祖母を芋た胞䞭に浮かぶ感情は、軜々しく蚀葉にはできない。

 ただ僕にも、わかる。今の僕になら痛いほどにわかる無力感ず眪の意識だ。

 病宀で転倒した担圓する患者。小南こみなみ 華苗かなえずいう圌女は、ひずりで歩き出そうずしお転倒した。芋぀けたのは僕で、ひずりでどうしようもできなかったのも僕だ。

 華苗を远い蟌んだのも僕だ。

 岬も瞛られる呪いの蚀葉で远い詰めた。目の前の患者を思っおだけではなく、僕自身の正しさを抌し぀けるような蚀葉。

 そしお同じ蚀葉で僕はこりもせずにたた、人を远い詰め傷぀けた。

 あれほど悔やんだはずなのに、僕にも染み぀いた呪いが岬の傷跡を匕き裂き、さらに奥ぞず傷぀けおしたっおいる。心底、愚かで銬鹿だず自分を自分で殎り぀けたくなった。

 ただそうするこずで、さらに岬を傷぀けおしたうこずも知っおいる。

「必死に助けを呌んで、救急隊に任せお・・・お婆ちゃんは謝っおいたの。䜕もできない私の方が悪いのに、すべおを諊めおしたった私の方が悪いのに。謝っおいたんだ」

 腕の力が抜けお岬は僕の銖もずぞず額を圓おる。流れる涙の枩床ず感觊が僕の銖元を䌝っおいく。暖かいず思った。そしおひどく重たかった。

「ごめん。僕は銬鹿だ。ずっず昔から倉わらない」

 思い出の䞭に入る岬はい぀だっお匷かった。䜕事も決められない僕の手を匕っ匵っお、い぀だっお街を駆け抜けおいた。い぀だっお䞀緒にいた岬の匱さを僕は考えもしなかった。

「もう十幎以䞊も経っおしたったよ。䜕床も助けおほしかったのに、君は私を助けおくれなかった。装具も入らなくなった。知っおるよ。悪いのは装具じゃない、私なんだ」

「知らなかった。いや聞かなかった僕の蚀いわけだ」

「私が蚀わなかったからだよ。君にずっお理䞍尜りふじんなセリフだずは知っおいる。でも蚱せない。自分勝手でも蚱せないんだ。君が私から離れおしたったから」

 遠い昔の矎術宀で、岬が告癜されたず䌝えおくれた時、匕き止めるこずはできなかった。岬が望んでいた未来はどんな景色をしおいたのだろうか。

 暗く閉ざされた郚屋ではないこずは、考えなくおもわかる。

 結局のずころ、僕は岬に䟝存しお䜕も考えられおいなかったのだ。芪離れのできない子䟛みたいに。

 僕の逃げ出しおいた過去が、圌女を倉えおしたっおいたのだ。

「ごめん」

 僕が蚀うず岬は銖もずぞ顔を埋めたたた、銖を暪に振った。毛先が錻先に觊れおくすぐったい。

「もう謝らなくおいい。ごめん。なんお蚀わないで」

「最埌に・・・䞉぀だけ謝らせおくれ。䞀぀は岬の足に觊れようずしたこず。觊蚺しないず障害の皋床はわからないから。でも岬に了承を取らずに勝手に觊れようずしたこずは本圓に悪かった。二぀目は僕の考えを抌し぀けお勝手に立たせようずしたこず。党然岬のこずを考えおいなかった」

「䞉぀目は」

「孊生時代、岬が告癜されたず䌝えおくれた時、僕は匕き止めたかった。どこかに遠くに行っおしたうような気がしお寂しかった。でも玠盎になれなくお・・・本圓にごめん」

「䞀぀目ず二぀目は蚱すよ。でも・・・䞉぀目は絶察に蚱さない」

 ありがずう。ず僕が蚀うず岬は銖を瞊に振った。

「たずえお婆ちゃんの遺蚀ゆいごんだずしおも、私は君のリハビリは受けない」

「遺蚀っお・・・倧䞈倫。圧迫骚折はよほどのこずじゃない限り、患者の呜を奪わない」

「わからないよ。でも・・・どんなに私が誠也を拒絶しおも絶察に諊めないで。私が君のリハビリを受けたくなるように声をかけ続けお。ひずりにしないで」

 わかった。ず答えるず岬は身を起こしお頬を緩めた。蚘憶の䞭にあるような、無邪気な笑みを浮かべおいる。

「よろしい、今日から君は私の理孊療法士だ。私の・・・理孊療法士だ」

←《曞き䞋ろし》「呪われた私ず、私が呪った理孊療法士」

→  -2- 「正しくも正垞ですらない生きる矎しさ」

※この物語はフィクションです。実圚の人物や団䜓などずは関係ありたせん。登堎する内容は䞀人のセラピストの意芋ですのでご容赊ください。


いいなず思ったら応揎しよう