松岡修造のテニスコーチに教わったこと
松岡修造のコーチにテニスを習ったことがある。
大学の体育の授業でテニスを教えてくれた老先生が松岡修造のコーチだったという話は、授業を受ける前から流れてきていた。
それが本当かどうか確かめるすべはなかったが、本当かもしれないと思わせるくらいテニスが上手かった白髪の老先生は、松岡修造のことを「普段から、かかとをあげて歩いてたな」と言っていた。
いつ何が起こっても俊敏に動けるように、「松岡はつま先立ちで歩いていた」と。
それが本当かどうか確かめるすべはなかったが、あまりに「松岡修造」のイメージ通りすぎて、創作じゃないかと思った。
でも創作でもいいと思わせるくらい、松岡修造という存在はフィクショナルになっている。
以前、松岡修造の娘が宝塚に合格したということで、ネットや週刊誌では、松岡修造の子育て論が特集されていた。
その中の一つに、松岡家では、レストランでメニューを決める際、子どもたちに、10秒の制限時間しか与えていなかったという話があった。
さすが、元アスリート。
一瞬の判断力の過ちが命取りになることをわかっている人の育児である。
そこで、そのエピソードを聞いて、「よし、うちの子どもにもやらせてみよう。判断力はアスリートに限らず、どんな分野でも必要な能力だ」と考える人もいるかもしれない。
しかし、判断力の大切さを自分の身で実感せずに人の家の育児法をなぞったところで、うわべだけで終わる可能性のほうが高い。
実感を伴わない育児や教育は元凶のもとである。
人の育児法を真似してもあまり意味はないが、参考にはなる。
松岡修造が「10秒でメニューを決めろ」という時、そこには「問い」がある。
「お前は何を食べるのか」「お前はどうやって決めるのか」という「問い」。
この「問い」は、学校のテストで出題される「問い」とは質的に異なるし、スポーツで直面する判断の場面とも異なる。
学校のテストやスポーツの試合などで問われることは、規定のものさしで「できる/できない」を測る試行である。
そこには模範解答があり、「評価されるものとされないもの」がすでに決まっている。
テストには正解があり、スポーツには評価されるプレーが存在する。
しかし、松岡修造が子どもに「問う」時、そこに模範解答はない。
評価基準もない。
なにを食べたっていいし、どんな決め方をしたっていい。
日々の暮らしのなかで、誰もが当たり前に判断の機会を持つが、松岡修造はあえてその機会を問いとして突きつける。
さぁ、どうする、どうする、と。
僧侶のように。
その時、答えがないものに対して問う松岡修造は、問いに対する「答え」「答え方」「答えの導き方」に、子どもの「個性」が出ることを根本で信じているといえる。
人は、具体的な存在であり、一人ひとり、「必ず」違う生き物であると。
その違いを前提に「問い」が出され、それに対して出された「答え」は、自分と他人の「違い」を明確にする。
「問い」は、その個に内在するその子らしさ、ユニークネスを取り出すためのきっかけとして働くのだ。
その意味で、「問う」ことは、人としての信頼の証を送る行為であり、「問われる」ことは、相手からの信頼の証を受け取る行為である。
相手を唯一無二と認めることから、この「問い」の関係は成立する。
そして同時に、この「問い」は、子どもに「期待すること」とも違っている。
「期待」が、出題者の心の中に模範解答を作ってしまうのに対し、この「問い」は、出題者の想像を超える答えが返ってくることを願っている。
「願って」はいるが、「期待」とは違う。
この時、松岡修造は、子どもを、親からの遺伝や親が用意した家庭環境に影響された、一人の現在的な子として見るのではなく、太古から連綿と続いてきた人類にオリジナリティの源泉を持つ一つの存在として見ている。
つまり、人は元来ユニークであり、誰ともかぶらない唯一無二のオリジナルであることを前提として、「問い」は発せられるのだ。
だから、たとえ、返ってきた「答え」が的外れであっても、その子の「気弱さ」や「優柔不断さ」や「わがままさ」を表すネガティブなものであっても、そこにユニークさ(=その人であるということ)があることは認める。
そこでいうユニークさとは、「秀逸さ」や「稀有さ」の類いではない。
誰かと違っていたり、他の子より秀でていることがユニークなのではなく、ただ、その子がその子として生きていることが他の人に取って代わられないという、まざまざとした生の絶対性がユニークネスである。
松岡修造が「10秒でメニューを決めろ」という時、それは判断力の訓練だけをやっているわけではない(と思う)。
彼は、子どもに「問うて」いるのだ。
「誰にも取って代わられないお前とは一体、誰だ」と。
それは、子どもからすれば、親にとって自分が唯一無二のかけがえない存在なのだと感じた上での「問い」である。
目の前の大人がいつもこっちに目を向けてくれている。
そして、「正解を出すこと」への期待ではなく、自分の存在への全幅的な信頼のもとに大人が尋ねているという、「大安心の問いかけ」である。
「大安心の問いかけ」であれば、問われた際に、周りと自分を比べて、「自分らしい」答えを意識的に返そうとしたり、無理に「個性」を発揮したりする必要がない。
素直にリアクトするだけでいい。
「わたし、ハンバーグにする」と。
本当のユニークさとは、「自分を超えたユニークさ」である。
自分が意識する前にすでに在り、この社会での評価の外にあるものである。
だから、その子のユニークさは、もしかすると、社会的には大したことないかもしれないし、逸脱したものかもしれないし、批判され得るものかもしれないが、それは一旦それとして、まずは、その子に元来あった(=あってしまった)性質を認めるというのが、松岡修造の姿勢であり、親が取るべき姿勢である(はずだ)。
これがレストランでなく、学校や習い事や仕事場においてなされていれば、それは「教育者」の姿勢となる。
親や教育の側に立つ大人たちがまずすべきは、「子どもに正解を教えること」や「子どもに期待すること」ではなく、大人が子どもに興味を持っていることを示すことである。
向き合うことと言ってもいい。
しかもその興味が、子どもを「鏡」にして大人自身に矢印を向けるような興味ではなく、なぜその子がここにいるのか、摩訶不思議な人間という存在に対する、純粋な興味をもとにしていなければならない。
「存在への興味」と「個への興味」が重なるところ。
その現れの一つが、「問い」という形である。
「10秒ルール」によって、焦った松岡修造の子どもたちは、時に、時間内に食べたいものを選べず、取り逃がしたこともあったかもしれないが、「問われたこと」によって潜在的に得られる「大安心」に比べれば、食べたいものを食べられないことは大したことではない。
食べたいものは大人になればいつでも手に入るが、大人になってから「大安心」を手に入れることは大変難しい。
