「暇」とどう向き合うか
社会人と大学生の違いは何か。就活の場で定番の問いである。就活をしていた当時の私を含め多くの学生は、責任の所在が異なる点や価値を創造する側か享受する側かと話す。もし今の私が同じように問われたら、「暇」に対する捉え方の違いを答えとするだろう。
「暇」とは何か
最近読んだ『暇と退屈の倫理学』の中で、「暇」とは「時間がある」という物理的、客観的な状態であると定義している。この本の重要な論点でもある「退屈」とは別の概念である。「退屈」とは、端的に言うと、「心血を注ぐ場面がなく、感情的な空白が生じている状態」であると私は理解している。
以上を踏まえて、大学生と社会人とでは「暇」の捉え方にどのような違いがあるのだろうか。
暇による退屈を避ける学生、暇を求める社会人
語弊を避けずに表現すると、大学生は暇である。もし今この記事を読んでくださっているあなたが大学生であれば、少し嫌味に聞こえてしまったかもしれない。確かに他人から「お前は時間があっていいな」などと言われると、どうしてもマイナスなニュアンスを受け取る。「暇人」という響きがネガティブに聞こえるのも、理解いただけるだろう。現代に「暇人」という言葉がある一方で、数百年前には「有閑階級」なる人々が存在していた。「有閑」とは「暇」を指し、暇を有する人々は大衆と比較して高位であると認識されていた。つまり、「暇」=資産なのである。
学生と社会人に話を戻すと、学生は「暇」という資産を持つが、社会人は仕事に忙殺される傾向があり、「暇」という資産を欲する。(ここでは深堀しないが、社会人は一般的に暇ではないが退屈であるという点も興味深い)
資産を持たざる者は、当然そこから何か価値を生み出すことはできない。しかし、学生は「暇」という資産を自動的に保有しているため、次に考えるべきは、その「暇」という資産をどう活用すべきかである。
大学生は「暇」をどう過ごすべきか
結論、社会人ではできないことをやってほしい。
至極一般的な結論となり拍子抜けしてしまうが、この一言に尽きる。
せっかくなので、もう少し具体化してみる。社会人になるとできない(もしくは取り組みにくい)こととは何だろうか。それは例えば、無駄に体力を使う事、まとまった時間を要することなどである。
後者については社会人になると仕事以外でまとまった時間を連続して確保することが難しくなるのは容易に想像かつく。前者も単純で、年齢と共に体力は落ちるし、体力を仕事のために温存しようと保守的になる。そうなると、オールでドライブに行ったり、交通費や宿代を節約した貧乏旅行にも行きづらくなる。大人たちの言う「今しかできないことをやっとけ」の裏にはこうした背景がある。

コスパが重要視される現代社会で、人によっては、無駄に体力を消耗することなんて効率的じゃないと忌避するかもしれない。しかし、数年後それもできなくなると思うと、少しは無計画で非効率なアイデアを愛らしく思えるのではないか。
私もこの記事を書きながら、どこか懐かしい気持ちになった。明日も仕事だが、かつては学生であった自分から、社会人である今の自分へのささやかな抵抗として無意味な夜更かしをしようと思いつつ、今回の結びとしたい。
