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戦間期の米国はいかにして戦時産業動員に備えようとしていたのか?

1919年にヴェルサイユ条約が締結され、第一次世界大戦(1914~1918)の戦後処理に区切りがつくと、アメリカ連邦議会では戦時中に直面した問題の検討が始まりました。この際に取り上げられた問題の一つが産業動員の問題であり、戦時中にさまざまな混乱が生じたことを反省し、特に陸軍省では将来の戦争で同じ事態を招いてはならないと考えられていました。

1920年に連邦議会が制定した国防法により、まずアメリカ陸軍省の陸軍次官の地位を参謀総長と同格にしています。1921年には陸軍次官の業務を補佐する陸軍次官局(Office of Assistant Secretary of War: OASW)を設置し、産業動員に関わる計画を策定する権限を付与して体制を整えました。

次に、この次官局に配置する人材を養成する取り組みが始まりました。1924年に次官局の下位組織として陸軍産業大学(Army Industrial College)が創設されています。初年度入校者は9名だけでしたが、1930年代には60名を受け入れ、1940年度までに804名の卒業生を輩出しています。こうした人材供給を確保することによって、当初は7名体制だった次官局は、1939年までに50名体制、1941年には1200名体制に拡充されました(森『「国家総動員」の時代』27頁)。

それでも、この次官局の体制だけでは軍需調達の計画作業をすべて処理することは到底不可能でした。第一次世界大戦で陸軍が調達した物品の種類は75万種類あり、わずかな人員でそれらすべての調達計画を立案することは不可能でした。次官局は軍事的必要性が大きい7400点の物品に絞り込んで軍需調達計画の策定を試みましたが、これだけでも計画作業に膨大な時間が必要であり、次の産業動員計画の立案の段階に進めない状態でした(29頁)。

この膠着状態を打開するため、次官局は産業界に助けを求めました。その取り組みの一つとして取り入れられたのが、兵器管区制度(ordnance district system)です。兵器管区制度はアメリカ全国を11区域(その後、14区域に拡張)に分け、それぞれの主要都市に本部を設置し、それぞれの本部で地元の実業家を組織化し、各地区の軍需調達の計画を推進させる制度でした(同上)。

さらに次官局は同業組合との意思疎通を図る仕組みとしてコモディティ委員会(commodity committees)という組織を立ち上げています(同上、30頁)。優先度が高い物品ごとに委員会を立ち上げており、1936年までに43の物品委員会が存在していました(同上、31頁)。これらの制度で陸軍の産業動員の実行に民間企業が協力するための基礎が構築されました。

ニューヨーク兵器管区では1924年4月に企業が参加した産業動員の演習が実施されており、具体的な内容としては管区本部の設置作業、電話会社を通じた通信構成、予備将校と軍属の動員、弾薬課、兵器課、航空兵器課などの調達の詳細と進捗の説明が実施されました(同上、50頁)。この演習にはアメリカ鉄鋼協会(American Iron and Steel Association)の会長も参加しており、演習後の総会ではアメリカ民間技術者協会、アメリカ工業冶金学会、アメリカ電気学会、アメリカ自動車技術者協会、アメリカ化学学会などが参加しました(同上)。管区ごとで予備将校は定期的な会合を開いており、兵器製造のために製造業者向けの訓練も提供しています(同上、57頁)。

産業動員の手順としては、次官局の下位組織である補給兵局(兵器局、工兵局、化学戦局、航空兵局、医務局、通信兵局、補給局)がそれぞれの局の所要を算出し、それに基づいて14の兵器管区に必要な物品の生産量の割当を決定することが予定されていました(同上、60頁)。この割当に基づいて各事業者は設計図面を含む仕様書と製造に関連する情報を受け取り、事前に準備した工場計画(factory plan)に基づいて工場レイアウトの変更、工作機械の変更を実施します(同上、60-61頁)。

ただ、こうした手順を実行するときに問題となるのは、事業者に装備製造のノウハウがないということであり、これを改善するためには事業者の練度維持のための教育注文を実施することが必要でした(同上、61頁)。自動車会社のダッジ・ブラザーズで社長を務めたフレデリック・ヘインズ(Frederick J. Haynes)は、1917年の産業動員で初めて陸軍省から受注したとき、ある部品の製造に取り組んでいますが、短期間でそれを製造する体制を確立することは極めて困難なことであったことを戦後に回顧しています。

まず、企業内にはその部品が何であるかを知っている人間が一人もいませんでした。その部品は火砲が弾丸を発射したとき、その衝撃を吸収して砲身を元の位置に戻し、すぐに次弾発射に備える駐退複座装置だったのですが、陸軍は発注の際に企業にサンプルを提供しておらず、しかも設計図面は各部品ごとのものでしかなく、全体の完成図面がないという状態でした(同上)。

この新規受注に対応するため、会社は11エーカーの土地と、新しい工作機械200種類を用意する必要に迫られました(同上、61-62頁)。また、労働者へのトレーニングにも時間が必要であり、最初の製品が完成したのは1918年8月でした(同上、62頁)。これは1918年11月に終戦に至る3か月ほど前の時期にあたります。ヘインズは最終的に1601点を納品しましたが、もし事前に教育発注があれば、必要な設備を揃え、最低限度の能力を平素から維持できたはずだと考えていました(同上)。

しかし、製造業者の防衛生産能力を維持するための予算を編成することは政治的に簡単なことではありません。バーミンガム兵器管区では教育発注の予算として年間500万ドルから1000万ドルを見積っており、議会関係者にそのための予算の編成を求めていますが、連邦議会は1927年に予算化を見送りました(同上、64頁)。1929年にニューヨーク発の世界恐慌で経済的危機に見舞われると、民間の製造業者は陸軍の産業動員に協力する意欲を大きく低下させ、事業から撤退する動きが広がっています。

1930年代にヨーロッパとアジアの両地域で国際的な緊張の度合いが高まったこともあり、議会関係者は防衛産業を維持する意義を再認識しました。こうした背景から教育発注が議会で法案化されましたが、予算の規模は5年間に毎年200万ドルでした(同上、65頁)。ただ、1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、アメリカとしても本格的に産業動員の基盤拡大に取り組むべきだと考えられるようになり、1940年には5億2000万ドルを防衛生産設備の建設に充てられています(同上、66頁)。その翌年にアメリカは第二次世界大戦に参戦することになります。

アメリカの産業動員の取り組みから分かるのは、産業動員には事前の体制と準備が必要であるということです。政府組織が産業動員に必要な計画を立案しようとすると、膨大な調達物品に関する知識が必要であり、またそれぞれの調達に関わるサプライチェーンの情報も必要です。適切な誘因がないと、企業は防衛事業から撤退するリスクがあるため、防衛産業基盤の維持には継続的な支出が必要です。こうした知見は今日の防衛政策を考える上でも役に立つものだと思います。

参考文献

森靖夫『「国家総動員」の時代』名古屋大学出版会、2020年

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