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軍事史の視点で独ソ戦の実像に迫ったWhen titans Clashed(1995)の紹介

1941年から1945年にかけてドイツとソ連との間で繰り広げられた独ソ戦は、未曾有の犠牲者を出した大規模戦争でした。ドイツのアドルフ・ヒトラーと、ソ連のヨシフ・スターリンは、1939年には独ソ不可侵条約を締結し、ポーランドを分割するなど、一定の協力関係を築いていました。しかし、1940年にヒトラーは英国を武力で屈服させることが難しいことを認識すると、それまでの戦略アプローチを反転させ、その武力をソ連に対して使用することを計画します。

当時のスターリンはヒトラーを信頼に足る人物だと見ていたわけではなく、いずれは対決する可能性があると考えていましたが、1941年6月に攻撃してくるとは想定しておらず、開戦直後は壊滅的な損失を被りました。しかし、1941年12月にはモスクワを守り抜き、そこから次第に反攻へと転じ、ベルリンに向けて着実に進撃を重ねていきました。

グランツとハウスの共著である『巨人が激突するとき:いかにソ連赤軍はヒトラーを止めたのか(When titans clashed: how the Red Army stopped Hitler)』は、独ソ戦の歴史を作戦レベルにまで踏み込んで記述した文献です。

Glantz, D. M., & House, J. M. (2015). When titans clashed: how the Red Army stopped Hitler. University Press of Kansas.(邦訳、デビッド・M・グランツ、ジョナサン・M・ハウス『詳解独ソ戦全史:「史上最大の地上戦」の実像』学習研究社、2005年

軍事学では、軍隊の運用について考察するとき、戦略レベル、作戦レベル、戦術レベルなどの分析レベルを使い分けていますが、この著作の基本的な特徴は作戦レベルを重視し、作戦部隊の組織構造や行動方針を具体的な形で提示していることです。それまでの独ソ戦の研究では、ドイツ語の史料に基づく記述が主流になりがちで、ロシア語の視点が軽視される傾向にありましたが、著者らはバランスのとれた記述を試みています。その結果、独ソ戦が進行するにつれて、ヒトラーは作戦運用に干渉する傾向を強めていきましたが、それとは対照的にスターリンは軍人を信頼し、作戦運用を委任するようになっていったことが描き出されています。

著者らは現在では一般的になっている時期区分として、1941年6月から1942年11月(第4章から第8章)、1942年11月から1943年12月(第9章から第11章)、1944年1月から1945年5月(第12章から第16章)を採用し、これに沿って両軍の作戦の経過を記述します。

1941年6月はドイツ軍の勢いが最も盛んだった時期であり、ソ連赤軍は壊滅的な損失を被り、各地で敗退が続きました。興味深いのは、この時期のソ連赤軍が初動で効果的に対応できず、資源の浪費が繰り返されたことが描き出されていることです。スターリンは最高司令官としてソ連赤軍に対する指揮をとるべき立場にありましたが、開戦で衝撃を受けたことで公務から遠ざかり、事実上、指揮活動は停滞していました(邦訳、146頁)。スターリンが初めて国民に向けてラジオ演説を行ったのは7月3日であり、すでに開戦から1週間以上が経過した後でした(同上)。

この時期にスターリンに代わってソ連赤軍を立て直すために奔走したのは最高司令部にいた軍人たちでした。ボリス・シャポーシニコフ(Boris Mikhailovitch Shaposhnikov)は、健康を害していたものの、参謀総長として最高司令部の業務を統括し、7月10日に複数の正面軍を統括する3つの戦域司令部を新たな戦略司令部として編成し、前線を北西戦域、西部戦域、南西戦域に整理します(147頁)。7月15日には最高司令部回状第1号によって野戦軍の組織構造が修正されました。

具体的には、野戦軍の組織から軍団が省略されることが決まり、また5個から6個の狙撃師団、2個から3個の戦車旅団、1個から2個の軽騎兵師団から編成されること、砲兵火力に関しては最高司令部の予備部隊から数個の砲兵連隊の配属を受けるという構造に転換しています(151頁)。ちなみに、戦術レベルでも狙撃師団の構造も簡略化されており、定員は1万4500名から1万1000名に削減され、それまでは師団編制に組み込まれていた戦車、対戦車、防空砲兵、砲兵などが別の部隊として切り離され、作戦上の必要に応じて自在に配分できる構造になりました(同上)。ただ、実際にはほとんどの師団が定員を満たすことができなかったため、4400名程度の独立旅団として運用されることが多かったとされています(同上)。

スターリンの最高司令部は緒戦の敗北で軍人に対する信頼を失ったので、戦域司令部の頭越しに各部隊に命令を発する事例が多く、1942年には戦域司令部は廃止されました(147-148頁)。この時期のソ連赤軍の軍人は1930年代にスターリンが実施した大粛清の生き残りであり、専門的な経験が不足していたために、ドイツ軍の指揮官や幕僚に比べて運用能力が劣っていました(149頁)。そのため、1941年に最高司令部が発出した指令の内容を読むと「滑稽なほどに単純なもの」であり、それは現場の指揮官の戦術能力の低さを示していると解釈できます(154頁)。例えば、1941年8月に発出された指令では、縦深陣地あるいは対戦車陣地もなく、ただ広くて浅い陣地を構築した指揮官に対する批判を行っており、これは当時のドイツ軍の戦術に対抗する上で縦深に富んだ陣地が必要であることを指導するものでした(同上)。

しかし、独ソ戦を通じてソ連赤軍が目覚ましい能力を発揮したのは、戦力の運用より、戦力の造成でした。ドイツ軍は、ソ連赤軍の運用能力が稚拙であることは正しく評価できていましたが、戦場で1個師団が撃滅されたとしても、短期間で新しい別の師団を投入する能力を持っていることを見落としていました。この優位は戦争が長期化するにつれて次第に戦争全体の流れを変えていくことになります。ソ連赤軍は、開戦した時点で最低限の軍事訓練を受けた予備兵力1400万名を準備しており、これによって人的戦力に高い強靭性を確保していました(同上、156頁)。6月中には予備役の530万名が召集され、7月には13個軍が編成を完了しており、それからも8月に14個軍、9月に1個軍、10月に4個軍が続々と編成を完了していきました(同上、157頁)。

工場の大規模な疎開も実施されており、合計1523の工場(うち軍事生産に関するものは1360)が7月から11月までにヴォルガ川、シベリア、中央アジアに移転されており、1942年6月までには開戦前の生産水準に回復することが可能でした(同上、162頁)。ドイツの戦争計画では、これだけソ連赤軍が粘り強く抵抗を続けることは想定されていませんでした。ヒトラーは、1941年7月30日に兵站支援が限界に達したことを理由に進撃を停止させ、人的損耗を回復するための補充兵を前線に送りましたが、17万9500名の損耗のうち補充されたのは4万7000名だけであり、人的戦闘力の低下が起きていました(165頁)。

また、ヒトラーはソ連の工業施設や原材料をドイツの軍事生産に利用できることを想定していましたが、ソ連が工場を疎開させたために、戦争努力の持続可能性に疑問が生じてきました(同上、163頁)。7月には戦況を楽観視していたドイツ軍の首脳部の内部でも、8月になると不安が広がり始めており、例えば参謀総長のフランツ・ハルダー(Franz Halder)は「すべての状況が、我々が巨人ロシアを過小評価してきたことをますます明らかにしてきている」と認識を改めていました(同上、166頁)。ヒトラーでさえも、開戦前のソ連戦車兵力の算定が正確であったことを知ったときには、それなら戦争を始めなかっただろうと不平を漏らす有様でした(167頁)。

ただ、依然としてドイツ軍の脅威は大きく、スターリンは1941年10月13日に、共産党、最高司令部、その他の政府組織の大部分をモスクワからクイビシェフ(現サマーラ)に疎開させる指令を発しています。ドイツ軍からモスクワを防衛するため、ゲオルギー・ジューコフ(Georgy Konstantinovich Zhukov)が作戦の指揮をとり、12月以降に反撃が行われ、1942年1月までにいくつかの地域を奪回することに成功しました。このソ連の反撃でヒトラーは全部隊に対して現在の陣地を死守するように命令を発するまでに追いつめられています(198-199頁)。この成功によって自国の軍部に対する信頼を取り戻したスターリンは、1942年以降には軍部が運用と管理のあり方を専門的な観点から改革することを容認するようになり、それがソ連赤軍の戦力の造成と運用の効率をさらに高めることに寄与しました。

米国の武器貸与法に基づく軍事援助がソ連の軍事工場に届き始めたのも1942年以降であり、特に後方支援を支えるトラックの供給は軍事的に大きな価値がありました(311頁)。「1943年から1945年までのいかなるソ連側の攻勢も、もしこれらのトラックがなかったなら、前線突破後、縦深すべての突破を完了しないうちに立ち往生してしまったであろうし、その間にドイツ側に防御陣地を再構築する余裕を与え、やむなく赤軍は慎重に再び突進を繰り返す羽目になっていたであろう」と著者らは述べています(同上、312頁)。

ドイツ軍は1943年以降に車両の不足が深刻となり、各部隊で物資の欠乏が深刻となっていました。こうした問題を解決することを難しくしたのが1942年9月以降に強まったヒトラーの作戦に対する干渉です。1942年9月8日付の総統命令によってヒトラーは全部隊に対して縦深性を持った柔軟な防御態勢を排除することを命じており、これによってドイツ軍の部隊は長大な前線を維持するために、ソ連の火力に晒されやすい前方に配備されることになりました(316-317頁)。さらに決定的だったのはヒトラーが自ら防御戦闘を指揮すると表明したことであり、東部戦線のすべての司令部に対して補給の状況や能力の評価など詳細な報告を要求することで、作戦行動の自由を奪ったことでした(317頁)。

著者らが示す独ソ戦の実像は、軍隊の能力が人員や武器の集計によって決まるものではなく、指揮官や幕僚がいかに適応性を発揮できるかによって左右される性質があることを浮き彫りにしています。同時にソ連赤軍がその適応性を発揮するまでには、年単位で組織的学習のための時間が必要であったことも事実であり、もし1941年の時点で迅速に予備部隊を戦力化できなければ、独ソ戦は史実よりも短期間で終わっていたかもしれません。長期戦を遂行する上で国家にどのような備えが必要であるかを考える際に、独ソ戦は多くの教訓を与える貴重な事例として今後も研究されなければならないでしょう。

見出し画像:Eastern Front 1943-08 to 1944-12

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