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江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう3(二十四節気編)第三話:【夏至】日の出と日の入り、お天道様の時間

 午前七時三十分、西新宿の地下通路。 みなみは、改札から吐き出される巨大な人の波に揉まれていた。

 カツカツと床を鳴らす無数の革靴の音。全員が張り詰めた表情でスマートフォンを凝視し、一秒でも早く目的地へ着こうと競うように歩いている。地下通路には太陽の光は届かず、蛍光灯の冷たい白光が、行き交う人々の血色の悪い横顔を無機質に照らしていた。

 「あ、すみません……!」

 肩がぶつかった相手は、謝る暇さえ惜しむように、足早に人混みの奥へと消えていった。

 現代の都会は、完全に「時間」をコントロールしている。地下に潜れば、雨が降ろうが槍が降ろうが関係ない。エアコンによって室温は一定に保たれ、二十四時間いつでも電気がつき、分刻みのスケジュールに従って列車が走る。

 しかし、みなみには、それがどうしても異常な光景に思えてならなかった。

 地域課の窓口には、ここ最近、深刻な自律神経の乱れや、原因不明の体調不良を訴える若者からの相談が相次いでいた。いつでも定時、いつでもフル稼働。自然のサイクルを完全に無視した現代のシステムが、人間の身体の限界を超えて、人々を追い詰めているのではないか。

 以前設置した『江戸の縁側処』のベンチには、今日も朝から疲れ果てたビジネスパーソンが腰を下ろし、放心したように空を見上げていた。

 (私たちは、時計の数字という檻の中に閉じ込められている。すぐ近くの明治神宮の森は、今、夏の太陽を浴びて青々と輝いているはずなのに、どうして私たちはそれを見る余裕すらないのだろう)

 デスクに戻ったみなみは、時計の針が「午前九時」を指した瞬間に、まるで機械のスイッチが入るように業務を始めなければならない自分自身にも、強い息苦しさを感じていた。

 現代の時間に抗うことはできないのか。彼女はすがるように、引き出しの奥の「火打石」に指先を滑らせた。

 その瞬間、石の表面が静かに、そして深く翡翠色に発光した。 カチ、と頭の奥で硬質な音が響く。パソコンの画面がぐにゃりと歪み、みなみの意識は、秒針のない、大らかな光に満ちた過去の世界へと引き剥がされていった。


 「――おい、作之助様。いい加減に起きねえと、お天道様に笑われちまいますぜ」

 どこか小気味よい、職人のべらんめえ調の声に目を開けると、みなみは再び、下級武士であり普請役の松村作之助の身体の中にいた。

 目の前にいたのは、手ぬぐいを首に巻いた長屋の老棟梁だった。
 作之助中身はみなみが体を起こすと、長屋の開け放たれた窓から、強烈な、しかしどこか心地よい夏の太陽の光が差し込んできた。

 「棟梁……。今、何時なんどきですか」

  現代の癖でそう問いかけると、棟梁は豪快に笑い飛ばした。

 「何時って、今は『明け六つ』を少し過ぎたところさ。作之助様、今日は『夏至』ですよ。一年で一番、お天道様が長くお姿を見せてくださる目出たい日だ。長屋の奴らは、もう皆、起き出して一仕事始めてますぜ」

 作之助が路地に出てみると、そこには眩い朝の光の中で、活き活きと動く人々の姿があった。

 井戸端では女たちが笑いながら洗濯をし、職人たちは早くから小気味よい木槌の音を響かせている。

 江戸の時間には、現代のような固定された「一時間」は存在しなかった。日の出から日の入りまでを基準とし、季節によって昼と夜の「一時の長さ」が伸縮する『不定時法』。

 夏至の時期は、昼の一時が現代の感覚で二時間半近くにも長くなり、逆に夜の一時は一時間半ほどに縮む。

 「お天道様が長く出ている間は、たっぷりと働き、たっぷりと遊ぶ。お天道様が沈んだら、さっさと寝ちまう。時間が伸びたり縮んだりするからこそ、俺たちの身体も無理なく休まるんでさあ。時計の数字なんぞに合わせるなんて、そりゃあ人間の生き方じゃねえ」

 棟梁が差し出してくれた冷たい麦湯を飲みながら、みなみは目から鱗が落ちるような衝撃を受けていた。

 江戸の人々は、自然の時間そのものに身を委ねていたのだ。夏至の長い一日を、彼らは「タイパが悪い」などとは決して言わない。

 むしろ、長く使える昼の時間を愛おしむように、ゆったりと、しかし確実にそれぞれの「始末」をこなしていた。

 現代のように、一年中同じ「一分一秒」を人間に強いることこそが、都会の人間を狂わせている原因なのだと、みなみは深く確信した。

 (そうか……。現代人に必要なのは、二十四時間いつでも同じスピードで走ることじゃない。季節の光に合わせて、生き方のギヤを切り替える『お天道様の時間』なんだ)

 魂が深く納得した瞬間、作之助の懐の火打石が、優しく、けれど強く翡翠色に輝いた。長屋の人々の健康的な笑い声が遠ざかり、みなみの視界は再び光の渦に包まれていった。


 「――湊さん、次の定例ミーティングの時間だよ」 同僚の声で、みなみは新宿の事務室へと引き戻された。

 目の前のデジタル時計は、変わらずに「午前九時一分」を刻んでいる。 しかし、みなみの瞳には、数字の檻を打ち破るような、大らかな光が宿っていた。

 「分かりました。でもその前に、課長、一つ提案があります」

 みなみは上司の元へ歩み寄った。

 「現在設置している『江戸の縁側処』の遊休地で、今週末の夏至の日に合わせて、『お天道様時計の集い』を開催させてください」

 それは、あえてデジタル時計やスマートフォンをすべて受付で預かり、江戸の『不定時法』の感覚だけで過ごす、新しい時間の試みだった。

 広場には、大河原さんたち職人が作ったシンプルな日時計を設置する。参加者には、日の出や日の入りの光の移ろい、影の長さをただ眺めながら、地元商店街のキッチンカーが用意した、夏至の旬の食材を使った料理を、時間を気にせずに味わってもらうのだ。

 「そんな効率の悪いイベント、人が集まるかね?」

 と眉をひそめる上司を、
「分刻みの日常に疲れた人にこそ、効果があります」と説得した。

 金曜日、夏至の日の夕暮れ。 西新宿のビル群の合間に、奇跡のように美しい夕焼けが広がっていた。

 スマートフォンを取り上げられたビジネスパーソンたちは、最初は手持ち無沙汰そうにソワソワしていたが、影が長く伸び、空が茜色から深い群青色へとグラデーションを描いていく様子をただ見つめるうちに、次第に肩の力が抜けていくのが分かった。

 「……何分経ったか分からないけど、すごく、贅沢な気がする」

 一人の若い会社員が、手作りのベンチに深く腰掛け、茜色の空を見上げてぽつりと言った。

 みなみはポケットの中で、そっと火打石に触れた。石はもう光ってはいないが、確かな安心感を彼女に与えていた。

 一分一秒を争う都会の真ん中で、彼女の足掻きは、人々にお天道様の時間を思い出させていた。夏至の長い、優しい夕暮れの風が、新宿のコンクリートの隙間を、静かに癒やすように吹き抜けていた。


連載予定(目次)

  • 第一話:【時計】秒針に追われる都会の迷子

  • 第二話:【立夏】コスパという名の病

  • 第三話:【夏至】日の出と日の入り、お天道様の時間

  • 第四話:【大暑】夕涼みという名のブレーキ

  • ...(中略)...

  • 第十話(最終話)

次回、第四話は「9月2日」に公開予定です。

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