見出し画像

江戸が現代より劣っているなんて、誰が決めたのだろう3(二十四節気編)第二話:【立夏】コスパという名の病

 「湊さん。君の言っていることは、ただの『時代遅れの道楽』だよ」

  週明けの月曜日。地域課のカンファレンスルームで、上司がみなみの提出した企画書をデスクに放り出した。

 窓の外には、初夏の強い日差しに照らされた西新宿の高層ビル群が、逃げ水のような陽炎の向こうで冷たくそびえ立っている。

 企画書のタイトルは『新宿・二十四節気のポケットパーク計画』。
 都の保有するビルの谷間の遊休地や、街のあちこちにある老朽化した小さな公園をリノベーションし、明治神宮の「百年の森」の知恵を借りたクヌギの苗木を植え、手作りのベンチやキッチンカーのスペースを設ける計画だ。

 分刻みで生き急ぐビジネスパーソンや、居場所のない観光客が、季節の移ろいを感じながら「ただ立ち止まって息を抜く」ための時間の避難所――。それがみなみの願いだった。

 しかし、現代の行政と経済の論理は、その青臭い理想を容赦なく踏みつぶす。

 「いいかい、すぐ近くに明治神宮や新宿御苑という広大な緑地があるんだ。わざわざこんな一等地の遊休地や公園に、そんなタイパタイムパフォーマンスの悪いものを作る必要はない。ベンチなんて置いたらホームレスのたまり場になるか、非行の温床になるだけだ。タワーマンションを建てるか、商業利用して来年度に明確な数値成果を出してもらわなきゃ困るんだよ」

 費用対効果、リスク管理、即時的な利益。 上司の並べる言葉はどれも正論に聞こえた。けれど、すべてを「今すぐ消費できる成果と安全」だけで測ろうとするこの病が、どれほど都会の景色を貧しくしているか。

 役所の外に出ると、新宿の街には海外からの大勢のインバウンド旅行客が溢れ返っていた。しかし、このギガシティには彼らが腰を下ろせるベンチ一つない。

 コンビニの前では、行き場を失った外国人観光客が、プラスチック容器に入った惣菜を立ったまま、所在なさげに口に運んでいる。地元のビジネスパーソンもまた、スマートフォンの画面を凝視しながら、競うような速さでアスファルトの上を通り過ぎていく。

 (100年も前に、先人たちは未来のために明治神宮の深い森を計画して遺してくれたのに……。どうして今の私たちは、数ヶ月先のコスパばかりを追いかけて、座る場所すらない冷たい街にしてしまったんだろう)

 現代のスピードの濁流に押し潰されそうになり、みなみは胸が騒ついて呼吸が浅くなるのを感じた。立ち止まることは悪。効率を落とすことは敗北。都会が放つその強迫観念が、みなみ自身の内側にも鋭い焦燥感となって突き刺さっていた。

 デスクに戻ったみなみは、焦りと不安で頭を抱え、引き出しの奥にある、あの「火打石」にそっと触れた。

 (作之助さん……お類さん……。時間が牙を剥いて、私を追いかけてくるみたいだ。助けて……)

 その瞬間だった。火打ち石の表面が、ぽっと淡い翡翠色の光を放ち始めた。 ただ、すべてを優しく包み込むような清らかな光だ。

 カチ、と耳元で静かに石が擦れ合う音が響くと同時に、都会の車の騒音やコピー機の駆動音が、急速に遠ざかっていった。


 「――まあ、作之助様。そんなところで、一体何をそんなに急いでおられるのですか?」

 優しく、どこかおっとりとした声に目を開けると、みなみは今また、松村作之助の身体の中にいた。

 目の前にいたのは、麻の爽やかな単衣ひとえをまとった仕立て屋の娘、お類だった。

 見上げれば、江戸の空は抜けるように青く、軒先からは風鈴の涼やかな音がチリンと鳴っている。暦の上では「立夏」――夏の始まりを告げる、瑞々しい季節だった。

 作之助中身はみなみは、現代の焦りを引きずったまま、額の汗を拭った。

 「いや、お類さん。何だか、今日中にこのお役所の書類を片付けねばならぬような気がして、胸が急いてしまってな……。早くせねば、皆に置いていかれるような気がするのだ」

 武士らしからぬ作之助の言葉に、お類は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにふんわりと和やかな笑みを浮かべた。

 「……作之助様。江戸の夏は、今始まったばかりでございますよ。お天道様だって、これから日に日に長くなるのです。そんなに生き急がれては、せっかくの若葉の美しさも見落としてしまいますわ。ほら……、あそこの縁側に腰を下ろして、少し涼んでいかれませ」

 お類が指さした長屋の木陰には、誰でも座れるように幅広の縁台ベンチが置かれていた。そこでは、通りすがりの物売りの男も、近所の子供も、皆が自然に腰を下ろし、冷たい井戸水を飲みながら、他愛のない世間話に花を咲かせている。

 江戸の人々にとって、時間は「消費する」ものではなかった。そして街は、誰もがいつでも立ち止まれる「余白」に満ちていた。

 立夏から始まり、大暑を経て秋へと向かう、二十四節気のなだらかなグラデーション。その歩みに合わせて、衣替えをし、旬のものを食べ、街の縁側で一息つく。

 時間をかけて季節を生きることは、無駄でもリスクでもなく、人間としての「当たり前の豊かな営み」だったのだ。

 (そうか……。場所がないんじゃない。今の私たちが、リスクを恐れて、街から『余白』を奪い去ってしまったんだ。100年の森を育てるような長い目を持って、まずは一人が座れる小さな場所から、街の体温を取り戻さなきゃ)

 胸の奥に、すとんと温かいブレーキがかかったような安心感が満ちていく。 その瞬間、作之助の懐の火打石が、再び眩い翡翠色の光を放った。

 お類が優しく微笑む姿を最後に、みなみの視界は柔らかな光の渦へと包まれていった。


 「――湊さん、聞いてる? 明日までに代案を出してね」

 上司の現実的な声で、みなみは新宿の現実に引き戻された。 パソコンの時計は、さっきと変わらない時間を刻んでいる。

 しかし、みなみの瞳からは、先ほどまでの焦燥感は綺麗に消え去っていた。彼女はゆっくりと息を吐き、上司を真っ直ぐに見据えた。

 「はい、分かりました。課長、タワマンを建てる前に、この遊休地を『立夏』から始まる数ヶ月間の試験的なプログラムとして、私に預けさせてください。明治神宮の森の知恵を借りた苗木を数本植え、手作りのベンチと、地元商店街のキッチンカーを誘致した『江戸の縁側処』を作ります。インバウンドの立ち食い問題も、都会のビジネスパーソンのストレスも、まずは『座れる場所』を作ること education から始まります」

 コスパという名の病に侵された都会の真ん中で、リスクを恐れて排除するのではなく、誰しもを受け入れる温かい「余白」を作る一歩。

 数日後、西新宿の無機質な遊休地の片隅に、小さなクヌギの苗木が植えられ、その横に木の温もりが残るベンチがそっと置かれた。

 通りかかった外国人観光客が、嬉しそうにそのベンチに腰を下ろし、買ってきたばかりのお弁当を広げ始める。その様子を、苗木の葉を揺らす初夏の「立夏」の風が、優しく見守るように吹き抜けていった。

 みなみはポケットの中で、静かに眠る火打石にそっと触れた。 秒刻みの街に、小さな、けれど確かな心のブレーキが、いま静かに根を張り始めていた。


連載予定(目次)

次回、第三話は「8月29日」に公開しました。


いいなと思ったら応援しよう!

こんにゃくの木登り よろしければ応援お願いします!