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つくね串の中毒

私は、以前ファミマの「つくね串」の中毒だった。

もちろん、病院へ行くほどの話ではない。ただ、ファミリーマートの前を通ると、つい足が止まる。とくに腹が減っているわけでもないのに、レジ横のホットスナックのケースを、さりげなくのぞいてしまう。無かったらガッカリするだけだが、そこにつくね串が見えたら、もうだめだった。

「つくね串も、ひとつお願いします」

まるで最初から買うつもりだったような口調で注文する。けれど本当は、店に入るまでは、お茶だけのつもりだった。あるいは公共料金を払うだけ、コピーを一枚取るだけだった。それなのに店を出ると、手には温かいつくね串の袋がある。

あのつくね串には、妙な引力があった。

表面は程よく焼かれ、袋から取り出すとあの背徳の匂いが、ふわりと立ち上がる。ひと口かじれば、表面には香ばしさがあり、中はやわらかく、鶏肉の細かな粒が舌に残る。軟骨感があったのは初期の頃か。肉ではあるが、焼き鳥ほど荒々しくなく、ハンバーグほど大げさでもない。

三個の球体が一本の串に並んでいる、その姿もよかった。一個目は、まだ冷静に食べる。二個目で、味の具合がいちばんよく分かる。三個目になると、もう終わってしまうことが惜しくなる。

この三段階が、じつによくできている。二個では物足りず、四個では少し多い。三個だからこそ、短い満足と小さな未練が、同時に残る。その未練が、また次の日の一本を呼ぶのだ。考えてみれば、コンビニの食べ物には「わざわざ食べる」のではなく、「つい食べてしまう」ものが多い。高級料理のように予定を立てる必要はない。予約も、行列も、心構えもいらない。財布の中の小銭と、ほんの数分の時間があればいい。

だからこそ、生活の隙間に入り込んでくる。仕事帰りの夕方。少し疲れた夜。雨の降る午後。何となく気分が晴れない日。そんなとき、つくね串はいつもそこにいた。たまに変な味になっている時期もあったけど、人生について深く考える必要もなく、袋の口を開き、串を持って食べる。それだけで、世界がほんの少し単純になる。

たぶん私が中毒になっていたのは、つくね串そのものだけではない。あの短い時間だったのだろう。店を出て、まだ温かいうちに食べる。口の中に焼けた鶏肉の香りが追いかけてくる。その数分間だけは、今日が良い日だったのか悪い日だったのかなど、どうでもよくなる。一本の串に刺さった三個のつくねが、複雑な一日を、食べられる大きさにまで小さくしてくれた。

最近は、以前ほど買わなくなった。

けれどファミリーマートの前を通ると、今でもときどき思い出す。レジ横のケースの中で、いつも一本か二本並んでいた、あのつくね串。

中毒は治ったのかもしれない。ただ、あの味を忘れたわけではない。むしろ食べなくなった今のほうが、記憶の中のつくね串は、いつも焼きたてで、いつまでも温かい。

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