日中戦争1:満州事変後
満州事変後、日本は関東軍の主導によって満州全域の支配を拡大した。
1932年には溥儀を擁立して満州国を建国、実質的な支配を確立するが、このような日本の行動が国際社会からの孤立を招き、様々な変化を生んでいくこととなる。
一方、中国では蒋介石が国内統一を優先する姿勢から大規模な対日抗戦を控えたため有効な抵抗ができず、日本の進出を許す形となった。
1932年1〜3月 第一次上海事変事変
1931年の満州事変によって日本が中国東北部に進出し、満州国の建国を進めたことより中国国内では強い反発があった。特に上海では抗日運動や日本製品のボイコットが激化、日本人僧侶が襲撃される事件を契機として緊張は一気に高まった。
これに対して日本は在留邦人保護を名目に、海軍陸戦隊を派遣して軍事行動に踏み切った。一方、中国側もこれに対抗して国民政府の正規軍を投入、市街戦へと発展していく。このとき中国側の中心となったのは国民政府の指導者である蒋介石のもとで編成された第19路軍で、現地では蔡廷鍇や蒋光鼐らが指揮を執り、彼らは日本の侵略に対して抗戦する民族主義的立場を強く持っていたため激しい抵抗を行った。
一方の日本側では上海派遣軍司令官(陸海軍統括)である白川義則や、海軍陸戦隊指揮官 野村吉三郎(第三艦隊司令長官)が作戦を主導した。
また政府・軍の上層部では強硬な対外政策を支持する勢力が影響力を強めており、結果として戦闘は市街地を巻き込む激しいものとなったが、最終的には国際社会の調停によって1932年5月に停戦協定が成立する。
これにより日本軍は上海から撤退する一方で、非武装地帯が設けられるなどの取り決めがなされ、この事変は満州事変に続く日中間の大規模衝突としてその後の関係悪化を決定づける出来事となった。
補足として、当時の国際情勢は世界恐慌の影響で各国が内向きの政策をとっており、日本の対外行動に対して強い制裁を行う余力が乏しかった。
日本国内では不況や農村の困窮を背景に政党政治への不満が高まり軍部の発言力が増大していく。
1932年5月 五・一五事件
中国戦線が拡大しつつあるなか、国内では世界恐慌の影響による不況や農村の疲弊、政党政治への不信感が高まり、軍部や一部青年将校の間では「腐敗した政党政治や財閥を打倒し、天皇中心の国家体制を確立すべきだ」という国家改造思想が広がっていた。
1932年5月15日、青年将校らは首相官邸を襲撃して当時の内閣総理大臣であった犬養毅を殺害する。さらに政財界の要人や警察機関なども襲撃したが、政権そのものの掌握には至らず事件は鎮圧された。しかし、この事件は大きな転換点となる。
まず政党政治の中心人物であった犬養毅の死によって政党内閣は終焉へと向かい、その後は軍部や官僚が主導する挙国一致内閣(5月26日には齋藤内閣成立)へと移行していくことになる。
また裁判においても犯人たちに対して国民の同情が集まり、軽い刑罰が科されたことは、軍部による政治介入を事実上容認する社会的空気を生み出す結果となり、日本は国際協調よりも軍事行動を優先する方向へと傾斜していく。
1933年2月 国際連盟脱退
日中戦争の前段階において重要な転換点となった日本の国際連盟脱退は、1931年の満州事変を発端としている。この事件で関東軍は中国東北部に軍事進出し、翌1932年には傀儡国家である満州国を建国した。
これに対して国際社会は強く反発し、国際連盟が調査のためにリットン調査団を派遣する。団長であるヴィクター・リットンのもと作成された報告書は、満州国の成立を日本の自衛行動ではなく侵略に近いものと認定。1933年2月にこのリットン報告書が国際連盟総会で採択されると日本の主張は否定されることとなり、日本代表であった松岡洋右はこれに強く抗議し総会から退場した。
その後、1933年3月に当時の内閣総理大臣であった斎藤実のもと日本政府は正式に国際連盟からの脱退を通告する。(実際の脱退は1935年)
またこの前年1932年に起こった五・一五事件で犬養毅(当時首相)が暗殺されたこともあり、軍部の発言力はより一層強まった。
国際連盟脱退は単なる外交的な対立にとどまらず、日本が国際協調路線から離脱して孤立化を深める契機となった。
1933年2〜3月 熱河作戦
満州国の安全保障を名目に周辺地域への軍事的拡大を進めていく中で行われた作戦。
満洲国から南西に位置する熱河省は軍閥勢力の支配下にあり、満州と華北(北京・天津方面)をつなぐ戦略的要衝であったため、日本にとっては満州国防衛の「緩衝地帯」として確保する必要があると考えられていた。
当時、満州事変を問題視して日本に対する批判が強まる中、関東軍は国際的圧力が本格化する前に既成事実を拡大しようという意図も持っていたため、1933年初頭に熱河作戦を開始。短期間で熱河省を占領して満州国の版図に編入することに成功した。
この作戦の中心となったのは関東軍の参謀である石原莞爾や板垣征四郎らであり、現地での軍事行動を指揮したのは関東軍司令官の武藤信義であった。
一方、中国側は東北軍を率いた張学良が満州を失った後に後退しており、熱河の防衛は十分ではなく、日本軍の機動力と装備に対抗できなかったため短期間での敗北となった。
その結果、日本軍は万里の長城線まで進出し、華北への直接的な圧力を強めることとなる。
1933年5月 塘沽停戦協定
満州事変後の軍事衝突を一時的に収めるために締結された日中間の停戦協定。その背景には日本国内の政治的混乱と軍部の台頭、そして国際社会との緊張関係が密接に関係していた。
そもそも発端は1931年の満州事変であり、関東軍の主導によって満州の占領が進められ、日本は傀儡国家「満州国」を樹立したが、これに対して中国側では蒋介石が国内統一を優先しつつも対日対応を迫られる状況にあった。
1933年に入ると関東軍はさらに南下して熱河作戦を展開し、万里の長城線にまで進出したことで日中の軍事衝突は激化するが、中国側は内戦(共産党との対立)を抱えていたため全面抗戦は避けたい事情があり、結果として停戦交渉に応じることとなった。
この協定は日本側では関東軍参謀の岡村寧次らが主導し、中国側では現地軍の代表が交渉にあたって成立し、万里の長城以南に非武装地帯を設けるなど、日本に有利な条件が盛り込まれたため、実質的には日本の華北進出を既成事実化する内容であった。
日本はその後も華北分離工作などを進めて影響力を拡大し、中国側の反発も次第に強まっていき、最終的には1937年の盧溝橋事件を契機として全面戦争へと発展することになる。
当時の兵器
戦車・装甲車
・八九式中戦車
この時代の主力戦車。歩兵支援が主目的で速度は遅い。
・九二式重装甲車
騎兵支援や治安維持で使用(実質は軽戦車的存在)。
この時代の日本戦車は、欧米と比べると火力・装甲ともにまだ発展途上。
航空機
・九一式戦闘機
第二次世界大戦前の大日本帝国陸軍最初の単葉戦闘機。陸軍初の日本独自の設計による戦闘機。
・九三式重爆撃機
長距離爆撃が可能で、中国戦線で使用。
・十三式艦上攻撃機
海軍の主力攻撃機の一つ。雷撃・爆撃に使用。
海軍兵器(艦艇)
・長門型戦艦
当時世界トップクラスの戦艦。抑止力の象徴。
・高雄型重巡洋艦
高速・重武装で遠洋作戦に対応。
・駆逐艦(吹雪型など)
魚雷戦力が強力で、日本海軍の特徴。
