【書評】情熱と思想が交錯した「歴史観の戦後史」を照射する―河野有理『日本史はいかに物語られてきたか』
私たちはなぜ、歴史を語るのでしょうか。単なる出来事の年表ではなく、過去に意味を見出し、一本の「物語」として立ち上げるとき、そこには語り手自身の理想や生の実感が色濃く反映されています。河野有理氏の著書『日本史はいかに物語られてきたか』(新潮選書)は、戦後日本において人々がどのように「日本史」を物語り、自らの時代や社会と向き合ってきたかを鮮やかに描き出した、きわめてスリリングな「歴史観の戦後史」です。
本書の最大の特徴は、アカデミズムの純粋な歴史学という狭い枠組みにとらわれず、政治学者、思想家、文芸作家、SF作家、女性史家など、多様な語り手たちによる「歴史物語」を正面から取り上げている点にあります。 しかもその構成は、現代から戦後、そして戦前へと時間を遡るユニークなクロノロジーをとっています。導入となる第一章で取り上げられるのは、ベストセラーとなった百田尚樹氏の『日本国紀』です。著者は、現代の歴史言論において、なぜ時代を貫通するような筋の通ったストーリー(史観)が描けなくなっているのかという素朴かつ本質的な疑問を投げかけます。そこから渡部昇一、坂本多加雄、西尾幹二、上野千鶴子、網野善彦、吉本隆明、司馬遼太郎、松本清張、家永三郎、羽仁五郎、そして戦前派の平泉澄に至るまで、20に及ぶ多彩な「歴史物語」の系譜を丁寧に解きほぐしていきます。
本書で照射される「歴史物語」の数々は、驚くほど多角的で、当時の知的な熱量に満ちあふれています。 たとえば、網野善彦が提示した多様で深遠な日本社会像、司馬遼太郎や松本清張が作品に込めた「公」と「官」の相克、吉本隆明が論じた共同幻想と天皇制、小松左京や梅原猛に見られるコスモポリタニズム、さらには山川菊栄と高群逸枝による女性史の対決など、右派・左派あるいは学問・エンターテインメントといった垣根を超えて、人々は歴史を自らの「国のかたち」や生き方を問うための重要なキャンバスとして活用していました。 著者の河野氏は、これらの論者たちを単に批判・擁護するのではなく、彼らがどのような時代状況のもとで何を問題視し、いかなる「物語」を生み出したのかを、政治思想史家ならではの客観的かつ精緻な目線で整理していきます。論者同士の意外な共通点や対立軸が浮き彫りになる過程は知的興奮に満ちており、まるで戦後日本思想史の豪華な群像劇を鑑賞しているかのような臨場感があります。
本書を読み進める中で深く考えさせられるのは、かつて確かに存在した「歴史物語の自由競争」の豊かさと、それが衰退してしまった現代の客観的状況です。かつて歴史を語ることは、自分たちがどのような社会を望み、どのように生きていくかという切実な政治的・思想的選択と不可分でした。しかし現代においては、SNS時代のファクトの断片化や実利主義のなかでそうした大文字の問いは後退し、歴史は断片的な知識や消費の対象へと姿を変えてしまったように思えます。 終章で著者は「歴史物語の自由競争は蘇るか」と問いかけています。本書は、過ぎ去った言論の黄金期を懐かしむだけのノスタルジーではありません。歴史を自らの思考の武器として研ぎ澄ませてきた先人たちの対話を通じて、私たちが再び自らの歴史と未来を主体的に語り直すための大きなヒントを与えてくれる、深い示唆に富んだ一冊です。歴史ファンはもちろん、戦後思想史や日本社会のゆくえに関心を持つすべての人に、心からお薦めいたします。
