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【国際】北方領土と近代条約史の系譜―歴史的根拠と法理から解き明かす領域帰属の真相

はじめに

 領土の帰属を巡る議論は、時として論者の主観や政治的信条によって歪められ、史実に基づく冷静な検証が置き去りにされる場面が見受けられます。とりわけ北方領土問題においては、歴史的な条約の文言や国際法の厳密な手続きを無視した言説が散見され、論理的な対話を阻害する要因となってきました。
 主権国家間の境界がどのように画定され、いかなる法的根拠に基づいて維持されてきたのかを探る作業は、単なる過去の復元にとどまらず、現代の国際秩序の正当性を問う基本作業にほかなりません。
 本稿では、幕末から現在に至る条約史の細部を紐解きながら、領土問題を巡る言説の検証を行っていきます。


1.幕末・明治期における国境画定の史実と条約体系

 江戸時代末期から明治期にかけての北東アジアにおいて、日本とロシアの間で結ばれた一連の条約は、北方四島が歴史上一度も外国の領土となったことがない領域であることを明確に物語っています。江戸幕府は松前藩を通じた蝦夷地支配にとどまらず、近藤重蔵や最上徳内らの探検隊を派遣して現地調査を重ね、択捉島や国後島における行政支配と漁場の管理を確立させていました。

北方領土

 外務省条約局が編纂した『舊條約彙纂』に収録されている安政元年(1855)の「日本国魯西亜国通好条約(日露和親条約)」第2条では、択捉島とウルップ島(得撫島)の間に国境を設定することが明確に定められました。この合意により、択捉島以南の北方四島が日本固有の領土として国際法上も公認された事実は、極めて大きな意義を持っています。
 その後の明治政府による外交交渉においても、この国境線の基本構造は一貫して継承されていきました。明治8年(1875)に全権大使の榎本武揚とロシア側全権ゴルチャコフとの間で調印された「樺太千島交換條約」は、両国間の領域関係を再整理した重要な公文書です。
 『大日本外交文書』に記録された同条約の第2款においては、日本が樺太に対する権理を放棄する代償として譲渡を受けた「クリル群島」の範囲が、シュムシュ島(占守島)からウルップ島に至る18の島々であると具体的に列挙されていました。つまり、国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島の北方四島は、この18島のリストに含まれておらず、最初から「クリル群島(千島列島)」の範囲外として日本の主権下にあり続けたのです。

北方領土と千島列島

 さらに明治38年(1905)の日露戦争後に締結されたポーツマス条約第9条に基づき、日本は南樺太(北緯50度以南)の主権を獲得することとなりましたが、この時点においても北方四島の主権は一切動揺していません。こうして史料を追っていくと、江戸期から明治期に至る平和的な条約交渉の積み重ねによって画定された国境線において、北方四島は常に日本の領域として取り扱われてきたことが判明します。
 実効支配の歴史と明確な外交文書の存在は、北方領土が武力による略奪や不当な拡張によって得られた地域ではなく、法的な正当性を備えた固有の領土であることを力強く証言しているのです。

北方領土問題の変遷

2.第二次世界大戦末期のソ連参戦と占守島における防衛戦

 近代条約によって静穏に保たれていた北東アジアの情勢は、第二次世界大戦の最終盤において突如として劇的な転換を迎えることとなりました。昭和20年(1945)8月8日、ソビエト連邦は未だ有効期間内にあった日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に対して宣戦を布告しました。翌8月9日には満洲への全面進攻を開始し、次いで南樺太および千島列島へと兵力を展開させていったのです。

第二次世界大戦末のソ連侵攻
ソ連侵攻のルート

 昭和20年(1945)8月15日の玉音放送を経て日本側が武装解除の準備を進めていたさなか、千島列島最北端に位置する占守島では緊迫した事態が発生しました。防衛庁防衛研修所戦史室が編纂した『戦史叢書』の記述によると、昭和20年(1945)8月17日深夜から翌18日未明にかけて、ソ連軍艦艇が竹田浜へ突如上陸を開始し、不法な攻撃を仕掛けてきたのです。
 これに対し、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は直ちに自衛のための反撃を命じました。歩兵第73旅団および「士魂部隊」の通称で知られる戦車第11連隊(連隊長・池田末男大佐)を中心とする日本軍防備部隊は、突撃してくるソ連軍を水際で迎撃し、激しい防衛戦闘を展開しました。同部隊の奮戦によってソ連軍は1,000人を超える死傷者を出し、その進撃計画は大いに翻弄されることとなったと伝えられています。

占守島の戦い
現在も占守島に放置される旧日本軍の戦車

 昭和20年(1945)8月21日の停戦協定締結を経て同月23日に武装解除が完了するまで続いたこの戦闘は、単なる一地方の防衛戦にとどまらない決定的な歴史的意味を帯びていました。当時のソ連最高指導者スターリンは、北海道の北半分、具体的には留萌と釧路を結ぶ線以北をソ連の占領地域とする分割占領案を策定し、連合国側へ強く働きかけていました。
 しかしながら、占守島における日本軍の頑強な抵抗によってソ連軍の作戦日程に予期せぬ遅延が生じたことや、アメリカのトルーマン大統領が昭和20年(1945)8月18日付の書簡においてソ連側の北海道占領要求を明確に拒絶したことにより、この分断構想は直前で潰えることとなりました。もしこの防衛戦が滞りなく早期に突破されていたならば、戦後の日本本島が南北に分断される事態を免れ得なかった可能性が極めて高いと言えます。
 自衛戦力を超えた不当な武力行使によって千島列島を下南し、同9月5日までに北方四島までを占領したソ連側の不法な実効支配は、まさにこの混乱に乗じて開始されたものでした。国際法上の休戦協定や国際協調の原則を無視したこの占領行動こそが、現代まで尾を引く北方領土問題の直接的な火種となったのです。

3.ヤルタ密約の法的限界とサンフランシスコ平和条約の解釈

 前章で触れたソ連軍による強行占領の背景には、連合国間における秘密裏の取引が存在していました。1945年2月、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相によって署名されたヤルタ協定(ヤルタ密約)がそれにあたります。同協定の本文には、ドイツ降伏後2か月ないし3か月を経てソ連が対日参戦する条件として、「千島列島はソヴィエト連邦に与へられるべし」との条項が明確に盛り込まれていました。
 しかしながら、国際法の通則において、当事国以外の第三国に対して勝手に法的義務を課したり権利を奪ったりすることは認められていません。条約法に関するウィーン条約第34条にも明文化されている「第三条約の原則(第三者協定無効の原則)」に照らすと、日本が一切関与していない密約によって日本の領土権が剥奪される理屈は到底成立しないのです。アメリカ政府の外交文書集『Foreign Relations of the United States』等に記録されている史料を紐解くと、昭和31年(1956)に米国政府が発した国務省覚書においても「ヤルタ協定は共同の目的のための首脳間覚書に過ぎず、領土の移転を決定的としたものではない」との法的見解が公式に示されています。
 この不透明な密約の影は、昭和26年(1951)に調印されたサンフランシスコ平和条約の条文解釈を巡って一層大きな混乱を引き起こすことになりました。同条約第2条(c)において、日本は「千島列島(the Kurile Islands)」に対する一切の権利、権原及び請求権を放棄させられました。ここで決定的な争点となるのが、放棄させられた「千島列島」の法的な定義と具体的範囲です。
 放棄の対象となった千島列島とは、明治8年(1875)の樺太千島交換条約第2款で指定された得撫島以北の18島を指すものであり、日本人の生活圏であって一度も外国領となったことがない択捉島および国後島はこれに含まれません。さらに歯舞群島と色丹島に至っては、千島列島の一部ですらなく、明確に北海道の一部(属島)として行政管理されてきた経緯を有しています。
 加えて見落としてはならない事実は、ソ連が全権代表の反対によってサンフランシスコ平和条約への署名を拒否し、同条約の締めくくりから離脱したという点に求められます。国際法上の基本規律に鑑みれば、たとえ日本が一特定の地域に対する権利を放棄したとしても、その権利が自動的に非署名国であるソ連へと移転する法的根拠は一切存在しません。すなわち、同条約第2条(c)の規定はソ連に対する領土譲渡を意味するものではなく、ソ連および現在のロシアによる北方四島の占拠は、国際法上の領有権裏付けを完全に欠いた状態にあると言わざるを得ないのです。

4.戦後日ソ・日露領土交渉の変遷と「固有の領土」論の維持

 サンフランシスコ平和条約にソ連が署名しなかった事象は、二国間における国交回復と領土確定の手続きを後の交渉に委ねる結果をもたらしました。終戦から10年以上が経過した昭和31年(1956)、鳩山一郎首相とブルガーニン首相との間で署名された「日ソ共同宣言」は、両国間の戦争状態を終結させ、国交を再開させる歴史的な里程標となりました。
 外務省編『日本外交文書』に収められた同宣言の第9項において、両国が平和条約締結交渉を継続することに同意するとともに、平和条約の締結後にソ連が歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡す旨が明記されました。国後島と択捉島の帰属については明示的な合意に至らなかったものの、二島返還を法的な約定としつつ残り二島の協議を継続する枠組みが、この段階で形成されました。
 しかしながら、その後の冷戦構造の深化は交渉に著しい影を落としました。昭和48年(1973)の田中角栄首相とブレジネフ書記長による首脳会談において、第二次世界大戦の未解決の諸問題の中に領土問題が含まれることを共同会見の席上で確認させたものの、ソ連側の態度は長らく硬直化を余儀なくされました。この冷戦の壁が打ち破られたのは、ソ連の崩壊という世界史的な構造転換を経た後のことです。
 平成5年(1993)、細川護熙首相とエリツィン大統領との間で交わされた「東京宣言」においては、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の名称を具体的に列記した上で、四島の帰属問題を解決して平和条約を締結するという交渉方針が双方の間で文書化されました。ここで示された「法と正義の原則」という理念は、19世紀の二国間条約に端を発する歴史的正当性を国際法的に再確認する試みであったと評価できます。
 その後も、平成9年(1997)のクラスノヤルスク合意や平成13年(2001)のイルクーツク声明など、昭和31年(1956)の宣言を出発点としつつ四島の帰属確定を目指す外交努力が断続的に試みられてきました。平成28年(2016)の山口会談以降における安倍晋三首相とプーチン大統領の交渉においても、共同経済活動の模索や平成30年(2018)の「1956年宣言基礎論」の再浮上など、柔軟なアプローチが模索された経緯があります。
 ところが、令和2年(2020)に行われたロシア連邦憲法改正において領土割譲を原則禁止する条項が加わったことや、令和4年(2022)のウクライナ侵攻に伴う対ロ制裁への反発からロシア側が平和条約交渉の中断を一方的に発表したことにより、交渉の道筋は再び極めて厳しい停滞に直面しました。こうした局面の変化にもかかわらず、四島が一度も外国領となったことのない「固有の領土」であり、その帰属問題を解決して平和条約を締結するという我が国の外交原則は、条約史の系譜に裏打ちされた盤石な基盤として脈々と維持され続けています。

5.イデオロギー的史観の陥穠と史料批判に基づく領土認識

 こうした外交上の現実や条約史の構造を振り返る際、時に論者の政治的立場やイデオロギー的な価値観が史実の冷徹な検証を曇らせてしまう事態に遭遇します。冷戦期から現在に至るまで、一部の知識人や文化人の間では、日本の過酷な戦後処理に対する自罰的な史観や親ソ・親ロ的な平和主義への傾倒から、領土問題の歴史的根拠を軽視するような言説が散見されてきました。
 例えば、歌手の加藤登紀子氏による発言に代表されるような北方領土の日本の帰属を疑問視する言論は、近世から近代にかけて我が国が積み重ねてきた国境画定の史実や国際法上の精緻な論点を著しく欠いた解釈と言わざるを得ません。歴史を真摯に省みる態度とは、単に特定の政治的信条や感情的な親疎に従って主張を展開することではなく、客観的な史料や条約文書の細部に愚直に向き合う作業を指すものです。
 史料批判の観点から検証するならば、安政元年(1855)の日露和親条約において北方四島が平和裏に日本の領域と確認された事実や、明治8年(1875)の樺太千島交換条約第2款における「クリル群島」の列挙規定を無視してソ連の実効支配のみを追認する姿勢は、学術的な誠実さを欠くだけでなく、近代条約体系の根本を揺るがす危険を孕んでいます。事実を客観的に裏付ける外交史料の精査を欠いたまま「戦後処理の完了」や「力による支配の既成事実化」を是認することは、国際法に基づく正義の確立とは真反対の帰結をもたらしかねません。
 外務省による公刊史料や国際法学における先行研究によると、国家の領域帰属に関する議論において最も優先されるべきは、当事国間で取り交わされた正式な批准書や条約文の法的解釈であって、戦後の混乱に乗じた武力行使による実効支配ではありません。主観的なイデオロギーに固執して条約史の連続性を断絶させる試みは、言論としての洗練を欠くだけでなく、領土問題の本質的な理解を妨げる陥穠となって立ち現れます。感情的な言説を排し、開かれた史料批判と法理の検証に立ち返ることこそが、正しい歴史認識を共有するための不可欠な前提条件となるのです。

おわりに

 国境とは単に地図上に引かれた境界線にとどまらず、人々が築いてきた営みの記憶であり、国家間が交わした約束の集積でもあります。移り変わる国際政治の波に洗われながらも、公文書に刻まれた条約の文字は、私たちがどのような法秩序の上に立っているのかを偽りなく語り続けています。
 過去の史実や条約史を紐解く作業は、単に過ぎ去った出来事を追認するためだけのものではありません。膨大な史料の言葉を検証し、複雑な利害の糸を一つひとつ解きほぐしていく営みこそが、混迷を極める現代の国際情勢において公平な視座を保ち続けるための確かな道標となるのです。確かな歴史的基盤と緻密な法理に裏打ちされた知見を一人ひとりが共有し、未来へと繋いでいく姿勢が問われています。

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