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自分の「善」は誰かによって操られてはいまいか


1. 詐欺を「善」だとする価値観がある

ねずみ小僧という泥棒の話をご存知でしょうか。

私も特別詳しいわけではありませんが、江戸時代後期に実在したとされ、

大金持ちをターゲットにして盗みをはたらき、得られた金品を庶民たちの元にばら撒くという

正義の犯罪行為をはたらく者という意味で「義賊」と称されている人物です。

昔の時代にはそんな奇特な人物もいたんだなぁと、現代を生きる私たちには縁のない話かと思いきや、

ふと見ていたYouTubeで、少し前に話題になった「頂き女子りり」という人物がそのような発想で中年男性から金品を騙しとっていたという話題が紹介されていました。

その妥当性についてはさておき、動機としてはあり得るなと思う一方で、

怖いと思うのは、「詐欺」という行為を悪いことだとも何とも思わないという心理状態が、

それどころか「自分は正義を遂行している」という義賊感が、普通に存在しうるというということです。


2. 誰もが自分の「善」を持って生きている

一方で、「性善説」という言葉があります。

人間は本来、生まれながらにして善(よい性質)を持っているという考え方で、古代中国の思想家・孟子(もうし)が提唱したとされています。

そう考えたいのはやまやまですし、

世の中の大半の人は、善という気持ちを大事に考えて行動していると信じたいし、

悪を遂行する人間は、何らかの原因で頭のネジが外れたごく一部の人だけであって、

そうした例外を抜きにすれば、基本的に世の中は性善説をベースにしてうまくいくように、

数々の人類の悪戦苦闘の歴史を経て、洗練された現代社会ではそのようになっていると思いたいかもしれません。

しかしながら、そもそも何を持って「善」とするかという根本的な考えそのものが一様ではないのだとしたら、

そしてその「善」の感覚が、本当の「善」とは程遠い感覚を持つ、一握りの権力者によって、

大衆が感じる「善」が恣意的な方向へ誘導されているのだとしたら、どうでしょうか。

もっと具体的に言えば、「ワクチンは善」という感覚自体が、誰かの手によって誘導されている、事実と乖離した「善」なのだとしたら

私たちは本当の「善」について自分でじっくりと考える時間をもつ必要があるのかもしれません

その「善」について考える前提でさえも、誰かの手によって恣意的に誘導された情報に偏ってしまわないように、細心の注意を払わなければならないかもしれません。


3. 少数派の「善」を持つときにどう生きていくべきか

「性善説」はある意味で正しいのかもしれません。

庶民を苦しめる悪代官の金品を盗むのも、

性欲に揺さぶられた中年男性を騙すのも、

ワクチンは善だと信じた国民に有害なワクチンを打たせるように騙すのも、

仕掛けた側からすれば、純粋に自身の「善」を遂行していると言えば、しているわけですから。

誰もが自分の信じる「善」を自分の人生の中で純粋に実行しているだけなのだと、

言わば、世の中は「善」の陣取り合戦のような様相を呈していると言えるのかもしれません。

そんな中で、一定の集団が仕掛けた「善」が大きくシェアを占めている状況のなかで、

その「善」だけは絶対に許すことができないと感じた場合、どうして生きていけばいいのでしょうか。

自分が信じる「善」の意味を多くの人が理解してくれないとき、どうすればいいのでしょうか。

妙案はありません。ただ自分がなぜそれを「善」だと思うのかについて、

言葉の限りを尽くして伝え続けるより他にないのかもしれません。

せめて、自分と同じ感覚の「善」を理解し合える人が一人でも増えていくように。

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