「唐古・鍵遺跡史跡公園」(その2)~知ってるようで知らない唐古・鍵遺跡~
こんなに何度も来ているのに、なんということでしょう!
これまで通行人にすぎなかった。立ち止まってしっかり見ていなかったのです。
なので、このシリーズを、「知ってるようで知らない唐古・鍵遺跡」と題します。
ある朝、まずは「唐古・鍵遺跡(史跡公園)」に行きました。
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※章立て(目次)は公園園路を右回りに行くと遭遇するゾーニング順。
(その2)
6 多重環濠エリア
弥生ムラを囲んだ環濠群
このエリアは、唐古・鍵ムラを囲む環濠が見つかった場所です。公園周囲の水田から0.5m掘り下げると2000年前の地面が現れ、環濠を見つけることができます。復元された5条の環濠は、公園の東側からも南側にある北小学校校舎の下へとつながり、直径400~500mのムラの周囲を囲んでいました。
(①「遺跡史跡公園」の現地説明板より。以下、①と記す)



7 唐古池周辺(復元楼閣など)
300年前に造られた農業用溜池
唐古池は、今から300年前に造られた農業用の溜池です。古文書の記録と堤防下の発掘調査から、江戸時代に造られたことがわかりしました。
1936~37年、国道24号を造る際にこの池底の土が使われました。この時に調査がおこなわれ、弥生時代に稲作がおこなわれていたことがわかりました。(①)


2000年前の楼閣を復元!
この楼閣は、紀元前1世紀頃の壺に描かれた絵画を元に復元しました。刻み梯子で登る高床建物で、欄干には鳥、屋根には渦巻飾りがついています。
宗教的な建物として、唐古・鍵遺跡のどこかに建てられていたと推定していますが、実際に楼閣が建てられていた場所はまだ特定できていません。(①)




愛知県から運ばれてきた土器
唐古・鍵遺跡からは、瀬戸内地方から東海地方の土器が出土していますが、それらの土器は、地区によって集中することがあります。
この地点では、2300年前の伊勢湾岸地域の土器がまとまって出土しており、これらの地域からの人、あるいは関わりのある人の生活の場があったかもしれません。(①)

赤塗りの壺が井戸から出土
唐古・鍵遺跡は、弥生時代を通じて栄え、古墳時代のはじめ頃にまで集落が続きました。
この場所で見つかった古墳時代の井戸からは、赤色に塗られた壺が見つかっています。
古墳時代になると、祭りなどの特別な場所では赤い色の土器が好まれました。特別な赤い壺を井戸の神に捧げたのでしょう。(①)

ところで、この唐古池、300年前の江戸時代に造られ、その後拡張工事がおこなわれて現在の姿となっているのですが、なぜこの場所に造られたのかと考えると、それは唐古・鍵ムラの立地が沖積平野の微高地であったからではないか。水は高きより低きへ。なのでこの高さがないと水が下流の田へ流れない。
しかしそういう微高地には、逆に上流の水が集まりにくい。池に溜める水の不足に頭を悩ませる歴史だったろうと推測します。
今見る唐古池は現役の農業用溜池なのですが、下写真のように、池南東角の池から延びる用水路には別ルートから水が補給されていました。推測ですが、これは吉野川分水ではないか。違うかもしれない。初瀬川から取り入れた水かもしれない。このこともおいおいに調査したいと思います。←余談です。

8 唐古鍵ムラの人はどこから来たか?
さて、誰もが大きな関心を抱く「唐古・鍵ムラの人はどこから来た?」について。
唐古池の東堤防の発掘調査で、唐古・鍵ムラの男性のお墓が見つかりました。科学的な調査により、今から約2,400年前に20歳代後半~30歳代前半で亡くなったこと、身長が162㎝で、彫りの浅い顔立ちだったことがわかりました。
このような顔立ちは、大陸から渡ってきた人に見られる特徴といわれています。
唐古・鍵ムラを開拓した人は、大陸から渡ってきた人たちなのかもしれません。(①)

発掘調査でわかることとわからないことがある。発掘調査はある意味「結果(分析含む)」だと思うのですが、その前史、すなわち唐古・鍵ムラでいえば、この人たちはどこから来た?については、「わからない」、が正しい。
「大陸から渡ってきた人たちなのかもしれません。」
こういう表現になるのは、今のところ断定できないからなのでしょう。お墓に葬られていた一人の男は、実は旅人だったかもしれず。いろんな可能性が考えられますから。
断定できる証拠、つまり科学的な根拠をもって証明されるまでは、その説、ほんとなの?創作又は妄想(自覚せずにするもの)ではないの?と疑問を持ち続けたい。
でもそういうこと(創作や妄想)も楽しいことだし。難しいなあ。←つぶやき。
9 戦争遺跡
8月15日は敗戦の日です。
唐古・鍵遺跡史跡公園にも、その戦争遺跡が残されていました。

太平洋戦争の遺跡がここにもあった
この八角形のコンクリート構造物は、太平洋戦争末期につくられた高角砲の台座です。ここから東約2kmにつくられた海軍柳本飛行場を守るために、その周辺に数基の砲台が置かれていました。唐古池堤防上にも多数の高角砲が置かれていたといいますが、唐古池東側堤防とここの2基の台座が残っています。(①)



(その3へつづく)
「『唐古・鍵遺跡史跡公園』(その3)~知ってるようで知らない唐古・鍵遺跡 ~」へつづく
追記)今回の記事も目標にしていた2000字を超えて2600字になってしまった。
2026.8.17
