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第3回「三河平定戦」(復習)

 第1回、徳川家康が瀬名姫を賭けて今川氏真と戦った時に見せた関節技は、第2回で、津島で織田信長との相撲で習得した技だと判明した。
・古代の相撲は、現在の大相撲や講道館柔道よりも空手に近い。
・織田信長の相撲好きは有名である。

 織田軍の槍は長槍であるが、徳川家康や今川氏真は「たんぽ槍」(短槍)による槍術を学んでいた。三河国では「棒の手」と呼ばれる棒術が盛んであるので、徳川家康も得意だったかもしれない。
 剣術は新城市の奥山休加斎について奥山流(新影流)を学んだ。免許皆伝の腕前であったが「王者の剣は人を斬る剣ではなく、身を守るための剣」だとして、生涯、人を斬った事は1度も無かったという。(晩年は小野次郎右衛門忠明に小野派一刀流を学んだ。)
 鉄砲は稲富流を学び、毎日、鉄砲を3発撃っていた。 名人級の腕前だったという。
 馬術は大坪流の奥義を極めていた。
 他に水練も重視した。


 徳川家康入れ替わり説(影武者説)は採用されなかったが、大樹寺から出てきた徳川家康は、人が変わったように堂々としていた。
「松平蔵人佐(くらんどのすけ)元康である」「道をあけよ~」

※「「どうする家康」第1回で「蔵人」のことを「くろうど」ではなく「くらんど」と言ったので、異論がすごいらしい。どちらも正解です。むしろ「くらんど」読みの方が、室町・戦国期には多い。文明、明応、天正本節用集、元亀本運歩色葉集などはいずれも「クランド」と注記されている。」(平山優先生)

気になるのは解説動画の乱立。中には「古沢」を「ふるさわ」とか、「こざわ」と読んでる方もおられて、おいおいって感じ。



「桶狭間の戦い」~「清須同盟」の戦いは、

・永禄3年(1560年)6月18日:第2次石ヶ瀬合戦
・永禄3年(1560年)6月19日:刈谷十八町畷の戦い
・永禄4年(1561年)2月7日:第3次石ヶ瀬合戦

だと思うが、『どうする家康』では、

・永禄3年(1560年)7月下旬:刈谷城攻め。死者80余名。
・永禄3年(1560年)8月:吉良氏と共に石ヶ瀬合戦。死者多数。

とした。

永禄3年5月
(前略)
水野信元と石瀬にて戦ふ。(鳥居四郎左衛門、大原左近右衛門、矢田作十郎、蜂屋半丞、大久保七郎右衛門、同次右衛門、高木九助等、槍を合はせ、軍功有り。)
又、信元と刈屋城外にて戦ふ。(地は参州に在り。俗に此の地を呼びて「十八町」と曰ふ。)両家の士、或は親族、或は朋友故に共に筋力を励ます。敵を撃つこと太多也。(我が兵、杉浦八十郎死す。大久保五郎右衛門、同七郎右衛門、石川新八郎等、力を尽くして功を争ふ。)
(中略)
永禄4年
水野が兵と又、石瀬にて戦ふ。我が部将、石川数正(伯耆守)と高木清秀(主水佐)、先ず槍を合はす。本多肥後守、上村庄右衛門、松井左近等、又、槍を合はす。
(後略)
※本多肥後守の「六度半の槍」が有名。

※mori-chan「桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向」

今回のストーリーは分かりやすく、素晴らしかったが、私が知っているストーリーとは大きく異なっていた。

解説動画で学びたい。


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