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第10回「側室をどうする!」(動画集)

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大河ドラマ「どうする家康」第10回「側室をどうする!」はいかがでしたでしょうか?さて、今回に関する時代考証のポイント解説をしましょう。

(1)飯尾連龍と家康

 今回は、引馬城主飯尾連龍が登場しました。三河一向一揆を平定した直後に、引馬城で家康と会見をしたという設定です。ドラマでは語られませんでしたが、飯尾は家康が三河一向一揆と対立した、同じ永禄6年12月に今川氏真に叛乱を起こしています。これは「遠州忩劇」といわれるもので、氏真は叛乱をなかなか鎮圧できませんでした。結局、力で押さえ込めぬ氏真は、永禄7年10月、連龍を「赦免」するという形で終息させます(但し、遠江の国衆の蜂起は完全には鎮定せず)。このことは、ドラマでは描かれていません。家康が直接関与していない部分は描かぬ、これまでの大河と同じ手法ですね。ただ、飯尾を叛乱には、家康が調略したと伝えられているのですが、いまだに確証がありません。では、飯尾と家康の会見は創作かというと、実はそうではないのです。今川氏真は後に、飯尾連龍と家康について「去子年四月八日飯尾与松平蔵人令対面砌、鷲津本興寺江蔵人軍勢令乱入」(去る永禄七年四月八日、飯尾連龍と松平家康が対面した際に、鷲津本興寺へ松平軍が乱入した)との証言を残しているのです(『戦国遺文今川氏編』2101号文書)。史料を見る限り、少なくとも永禄7年4月8日に、家康は遠江に軍勢を率いて侵攻し、浜名湖西岸を蹂躙したばかりか、飯尾連龍と対面していることが確認できます。問題は、両者がどこで対面したかですが、私たちは家康が引馬城を訪問して、連龍と対面した可能性が高いと考えています。恐らく家康は、飯尾の援軍として引馬に出陣したと考えられます。今回は、連龍が赦免された後ということで、家康が引馬城に赴き、連龍と提携するとともに、彼に今川との和睦仲介を依頼するという設定でした。家康は、三河統一戦を実施してはいたものの、遠江へ乱入する動きをみせていません。まだその余裕がなかったというのが実情でしょう。そのため、氏真と和睦した連龍に、三河と遠江間での停戦を要請しようとしたという設定はありうると考えました。
 その後連龍は、駿府で氏真の命により殺害されました。これは事実です。その理由は、連龍が家康と秘かに密謀したというのが発覚したからだといわれています。今回は、連龍が家康と氏真の和睦仲介のために会見したことを、新たな謀議だと判断した氏真の決断によるものとの設定で話が進みました。連龍が誅殺されたのは、永禄8年12月20日のこととされています。『武徳編年集成』『浜松御在城記』などの軍記物には「廿日遠州敷知郡引間ノ飯尾豊前守致実ガ姪女、今川氏真ガ寵ヲ得テ頃年致実モ殊遇ヲ蒙リシガ、神君ニ内応ノ由風説シ氏真渠(かれ)ヲ駿府ニ召寄セ軍士百騎許ヲ以テ其屋鋪ヲ囲ミ攻テ鏖(みなごろし)ニス時ニ飯尾ガ士二三十騎死戦ヲナス故、寄手多ク討タル、致実が室無双ノ強力屡々奮ヒ戦フ是ヲ駿府ノ小路軍ト世ニ称ス」とあります。駿府の飯尾屋敷を今川方に包囲され、連龍は家来とともに壮烈な最期を遂げたといい、今川方にも多くの損害が出たとあります。これが事実かどうかは、これまでわかりませんでした。ところが、山梨県立博物館の海老沼真治氏が、身延山久遠寺の「身延文庫」で『科註拾塵抄』を発見し、その一節に次のような記述があることを紹介して下さいました。同書には「自癸亥年、引間城主飯尾豊前守、駿州氏真江御逆心被申、寅年之十二月廿日ニ於駿府百十六人腹切、其後遠州一国御静謐ニ而(後略)」(癸亥年(永禄六年)に今川氏に叛乱を起こした飯尾豊前守は、寅年(永禄九年)十二月二十日駿府にて116人とともに切腹させられた」と明記されています。飯尾の死を永禄9年とするのは、『科註拾塵抄』の誤記ですが、彼の最期については、ほぼ軍記物と同じであったことが知られます。氏真が、飯尾と家康との結びつきを如何に恐れていたかが窺われます。しかし連龍誅殺に怒った飯尾家臣江馬氏らが、松平勢を引馬城に引き入れ、今川氏に再度叛乱を起こしました。「遠州忩劇」は第二幕となり、今川軍と飯尾遺臣・松平軍の抗争が勃発します。しかし次第に今川軍に押された引馬城は、永禄9年10月頃、飯尾家臣らが城から松平勢の退去を求め、今川氏に降伏し終息を迎えています。家康は、連龍誅殺の混乱を利用し、引馬城確保しようとしたものの失敗したのでした。

(2)正室が側室を選んだ話

 今回は、家康の側室を選ぶという場面がコミカルに描かれました。側室を、正室築山殿と生母於大の方が選び、酒井忠次の妻がオブザーバーのような役割をするというものでした。もちろんこれは脚色ですが、側室を正室が選ぶというのは事実です。専門家ですら勘違いしがちなのですが、戦国大名の当主は、一夫一妻多妾制のもとにあったと考えられがちです。しかしこれは、江戸時代に入ってからのことで、豊臣期までは一夫多妻多妾が基本だったのです。少し詳しくお話ししましょう。まず、当主には正妻(正室)が迎えられます。ただし、正妻(正室)が一人とは限りませんでした御堂関白で著名な藤原道長は、倫子・明子という二人の「北政所」(正妻)が、豊臣秀吉も少なくとも五人の正妻(杉原寧〈北政所〉、浅井茶々〈西の丸、淀殿〉、京極龍子〈松の丸殿〉、織田氏女〈三の丸〉、前田摩阿〈加賀〉)が、関白豊臣秀次も二人の正妻が存在したことが指摘されています(福田千鶴『淀殿』)。そして、正妻の他に、「別妻」も存在しています。これはその女性の実家の身分や地位が高いことから、正妻でなければ、「別妻」とされ、入輿の際には婚礼も実施されます。そして「妾」という女性が存在します。この「妾」は、正妻や別妻に奉公する女房衆(家臣)の中から選抜された女性のことです。つまり、「妾」は正妻の家臣(奉公人)という立場でした。 今回、家康の「側室」=「妾」を、正室築山殿が選定したというのは、当時の実態に沿うものです。もちろん公募というようなことはなかったでしょうが、「側室」選びは推挙する人物がおり、それを家康家臣が取り次ぎ、正室が女房衆に加え、やがて差配されていくというコースも十分想定されます。今回は、築山殿に仕える女房衆から選ばれていましたので、これも実際にあってもおかしくない想定でした。正妻は、別妻や妾が子供を産むことに大きく関与していたと想定する研究もあります(黒田基樹『武田信玄の妻三条殿』『家康の正室築山殿』)。築山殿は、家康が「おこちゃ」「お万」(池鯉鮒の方)が、天正2年に男子(義伊、後の結城秀康)を産むと、激しく嫉妬したといわれ、それゆえに家康は義伊をなかなか認知しなかったとされています。このことについては、築山殿の了承なく浜松の女房衆の一人に家康が子供を産ませたことに、正室として抗議した結果だと推定されています。つまり、築山殿は在岡崎で、夫家康とは別居していても、家の妻として岡崎はもちろん、浜松の奥向きを統括していたと考えられるのです。家康が、庶子秀康を認知するのは、築山殿の死後のことでした。築山殿の了承のもと、家康の側室が選ばれ、子供をもうける話が進められたことを、はっきりと描いたのは、今回が初めてのことではないでしょうか。側室といえば、男性が好みの女性を選び、子供を産ませ、正室はそれを黙認するしかないという描かれ方がずっとされてきたように思います。今回、それとは違った方法で、側室が家康の閨房に入っていく過程が丁寧に描かれていたのは大変興味深かったと、私は考えています。

(3)家康側室西郡の方と督姫

 今回、正室築山殿の差配で側室となった西郡の方(お葉)が登場しました。彼女は、家康の息女督姫(督、徳、富〈ふう〉、普子などとも)を産んでいます。西郡の方は、ドラマでは女房衆の一人として築山殿に仕える女性という設定でした。史料にも「浜松奥勤め、岡崎において督姫君御誕生」(『徳川幕府家譜』)と記されており、女房衆であったことは間違いないでしょう。ドラマで、彼女は鵜殿氏の女性であったが、家康が上之郷城で討ち取った鵜殿長照を本家と呼び、遠い縁者で付き合いが薄く、家康を恨むことなどありませんと言っていましたね。現在の研究によると、西郡の方の父は鵜殿長忠とされ、彼は長照の弟です。ただ、父長忠は、柏原鵜殿家の鵜殿長祐の養子となっており、長祐は永禄6年の三河一向一揆で家康方として戦死しているのです。ですから、ドラマで彼女が言うとおり、家康に恨みを持つどころか、家康方を支えた柏原鵜殿家の女性であり、女房衆(家臣)になっていたのもまったく不自然ではありません。さすが脚本家の古沢さん、時代考証陣が提供した史料をうまく脚色して、物語を作ってくれていますね。西郡の方が産んだ督姫は、天正10年、天正壬午の乱終結時に、家康と北条氏が和睦、同盟を締結した際の約束で、北条氏直に嫁ぐこととなりました。督姫は、天正11年、氏直に嫁ぎましたが、北条氏滅亡(天正18年)と氏直死後(天正19年)、督姫は実家に戻り、文禄3年に池田輝政に再嫁しています。ただ、督姫の生年については、永禄8年説と、天正3年説がありますが、今回は通説の永禄8年説を採用しました。西郡の方は督姫出生後は、家康の子を産むことはありませんでした。恐らく、側室としての奉公をすることがなくなったと推定されています。これは、彼女を差配した正室築山殿の意向ではないかと考える説もありますが、詳細は判明していません。しかし、西郡の方は、督姫以外に子供こそなしませんでしたが、家康を支え続け、慶長11年5月14日、京都伏見城で死去しました。偶然ですが、西郡の方死去と同日、かの榊原康政も亡くなっています。

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