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第45回「二人のプリンス」(解説動画集)

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■時代考証・平山優先生のツイート

 大坂の陣のきっかけで知られる「方広寺鐘銘問題」ですが、実は大きく揉めたのは、その前段階の問題が大きい。豊臣方は、大仏開眼供養と堂供養を同日に挙行しようと考えていた。ところが、天台僧と真言僧とが、供養の際に、どちらが「右座」「左座」に着席するかで揉め、問題となった。席次の順序は、上位と下位をはっきりと見せることにつながるため、以前から双方はしばしば紛争を引き起こしていた。それが再燃した。
 そこで、豊臣方片桐且元と、幕府方板倉勝重が相談し、豊臣方の強い意向を尊重しつつ、開眼供養と堂供養は同日執行すること、席次は天台宗を「左座」とする妥協案が示された。この報告を受けた家康は「供養を同日に行えば騒動になる」と懸念を示し、「三日には本尊の開眼供養を実施するに留め、十八日に堂供養を行うほうがよい」と述べ、供養の日をわけるように求めた。これは天台宗と真言宗の対立を回避し、円満に供養を執行するためには極めて穏当な解決策だった。
 だが豊臣方片桐且元と幕府方板倉勝重はともに、同日執行を主張したため、家康はすべてを延期し、あらためて吉日を撰び執行するようにと指示した。この押し問答の過程で、家康のもとに棟札の下書き、梵鐘の銘文の下書きなどが示され、いずれも当時の規則に沿わない内容であると、問題視されることとなった。
 近年、注意が喚起されているのは、鐘銘問題のために、開眼供養などが中止させられたのではないこと。この問題は、家康が、二つの供養の分離と、問題が収まるまで供養の日程を延期し、吉日を撰び直したうえで挙行することを指示したあとに発生したということ。
 そして、当時の一次史料である『本光国師日記』などによれば、棟札に棟梁の名が明記されぬ異例な内容と、鐘銘の「御諱」が記されていたことが問題となった。それをみると、「国家安康」が「家康」の諱を割く不吉なものであるとの記述は一切ないのである。あくまで問題なのは、「御諱」を書き入れることそのものであった。
 つまり世情よく知られる「国家安康」「君臣豊楽」は、問題にされていなかったらしいのだ。このことを言い立てるようになるのは、後のことらしい。その後の経過をみていくと、確かに「御諱」を記入するのは問題があると指摘され、銘文を起草した清韓自身も家康の諱を入れたことを認めていた。このこともあって、家康が気分を害したことは確かである。
 ただ、家康が開眼供養などの儀式を中止させたという事実はない。あくまで延期であった。そして、豊臣方と幕府の折衝が始まり、決裂に至り大坂の陣へと行き着いてしまうのである。家康は、自分も上洛して方広寺の儀式に臨席するつもりであったらしい。また豊臣秀頼の上洛と臨席についても「いかようにも秀頼の心次第」と歓迎する姿勢をみせていた(『本光国師日記』慶長十九年七月十八日条)。
 家康が求めたのは、自分が上洛するまで儀式を延期することであり、秀頼の臨席も当然のこととみていた。場合によっては、上洛して豊臣方と直に交渉することも予定していたのではないだろうか。もしうまくいけば、家康と秀頼が並んで供養の儀式に臨席していた可能性もあったのだ。
 だがその後の豊臣方と幕府の交渉が難航し、片桐且元を豊臣家中が暗殺しようと企図し、失脚に追い込んだことで、開戦となってしまった。このあたりの新研究は、河内将芳先生の『秀吉没後の豊臣と徳川 京都・東山大仏の変遷からたどる』淡交社・2023年に詳しい。私も、七年前の著書『真田信繁』では、通説に乗っかって記述しており、今では修正が必要である。

 私が自分のアカウントに書き込むのは、個人の意思と自由であります。もっと文章を短くしろとか、内容をかいつまんで書けとか、指示される謂れはありません。とりわけちゃんとした歴史物は、キッチリした根拠をもとにしないと理解されないので、どうしても長くなるのです。あしからず。

雨宮薫@コントラ·ムンディQ.豊臣方は、どうして同日執行に拘ったのか。
A.とてもいい質問ですね。ありがたい機会を頂きましたので、河内先生の研究をもとに記します。同日開催にこだわったのは、幕府方板倉勝重もでした。何故なのか?それは、朝廷が関与していたからです。大仏供養に際し、何と関白以下の公家が臨席する予定となっており、その席次も決められていて、家康の決済を受けていました。ということは、朝廷が公式行事として重視していたことが窺えます。そして、それは朝廷の記録にも残されているのです。大仏供養の儀式の内容や臨席する公家、僧侶、挙行日時に至るまで朝廷に報告され、朝儀によって正式に決定されていたのです。そのため、同日執行を延期することは、朝廷に再申請をすることとなり、やっかいな問題となったからでした。朝廷が大仏供養に公的に関わったのは、いうまでもなく南都東大寺と並ぶ、鎮護国家の象徴としての京都大仏であったことに関係するのです。同日開催を、今更延期できない、というのが現場を預かる豊臣方片桐且元と幕府方板倉勝重の偽らざる心情だったのだろうと思います。

古上織蛍Q.つまり、朝廷の意向も無視して家康が横車を押したという事になるのでしょうか。
A.評価は、本当に難しい。家康の心意を示す史料がない以上、状況証拠に基づいて判断することになる。なので、色んな考え方が成立することになりますね。出来事の前後関係と因果関係を勘案すると、どうなるか。いくつかの可能性が成立すると思います。古上さんの考えも、ありうると思う(ただ、家康の朝廷工作の実否など検証すべきとはいくつかあると思う)。

曾良Q.尤も、諱の書き入れ自体も、徳川幕府が呼び出した"御用"僧ら5名は問題視した一方で 幕府とも豊臣とも縁のない当時の高僧2名が、そんなもの非礼には当たらないとの見解も残しています まだまだ現代の常識からは測り切れませんね 更なる研究の進展に期待します。
A.ご指摘ありがとうございます。中世では、諱、名字、花押などは、その人物と密接不可分のものという意識がありました。そのため、寺社の境内に、憎むべき相手の名字、諱を書いて籠めることは「名を籠める」という呪詛を意味しました。神仏の力で、相手に罰や災いを与えようとするものです。花押も、憎むべき相手の花押を模倣することで、相手を打倒しその財産と領土を奪う意味が込められたとされています。このあたりの事情は、酒井紀美「名を籠める」(同著『日本中世の在地社会』吉川弘文館)、佐藤進一『花押を読む』平凡社をご覧下さい。

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