第10回「側室をどうする!」(復習)
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日 「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄5年(1562年) 正室・築山殿と離婚(旧説)
12月14日 今川氏真、井伊直親を掛川郊外で誅殺
永禄6年(1563年)7月6日 「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月 「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
4月8日 飯尾連竜、徳川家康と対面
於市の方、浅井長政と結婚(旧説)
永禄8年(1565年)5月19日 足利義輝、討死(「永禄の変」)
11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
12月20日 今川氏真、駿府で飯尾連竜を誅殺。
永禄9年(1566年)5月 「三河国平定」(牛久保の牧野氏が従属)
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。三河守叙任。
永禄10年(1567年)9月 於市の方、浅井長政と結婚
永禄11年(1568年) 二女・督姫(母:西郡局)誕生(別説)
12月 遠江国へ侵攻開始
永禄13年(1570年) 正室・築山殿と離婚
天正3年(1575年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(別説)
天正4年(1576年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生
さて3回にわたる「三河一向一揆」が終わり、第10回である。
──「三河一向一揆」に3回とは多すぎでは?
とSNSでは評価され、解説者は、
・「三河一向一揆」は「家康三大危機」の1つなので詳しく扱ったのか?
・ウクライナの事もあり、戦争の実際、悲惨さを示したかったのでは?
と解説するが、私としては、木を見て森を見ない解説は避けたいと思う。全回見た上で「この3回は多過ぎた/適切だった」と評価したい。(想像するに、「桶狭間の戦い」(19歳)~死没(75歳)を1年1回で描くには、75-19=56回必要であるが、「今回はA歳の話です」とダラダラと描くのではなく、「どうする?」と選択を余儀なくされた人生のターニングポイントを15選び、「全15章」とし、それぞれを3回かけて丁寧に15X3=45回で描き、“めりはり”をつけようとしているのではないだろうか?)ちなみに、NHKによれば、
第1章 三河平定編
第2章 三河一揆編
という章立てがあるそうだ。(今回から第3章に突入!!!)
さて、今回の「側室をどうする!」は、永禄7年~永禄8年の2年間を描いた回だと思われる。
【疑問】永禄7年の於市の方の浅井長政との結婚も、永禄8年の二女・督姫(母:西郡局)の誕生も、過去には定説であったが、今は学会で否定されている。時代考証の学者が3人もついているのに、なぜか採用したのであろうか?
【感想】西郡局と徳川家康の間に子供が1人しかいないのは、「西郡局がLだから」だとは衝撃であった。(深読みすれば、この後、徳川家康が出産経験者を側室にするのは、子が欲しいからというより、今回の件で懲りてLを避けるためか。)『鎌倉殿の13人』の歩き巫女がBの源実朝に言った言葉じゃないが、LGBTで悩んでいる人は、昔もいたし、今もいる。どう向き合うかを考えなければならない。
最近、大河女優の橋本愛さんが、「女子風呂に・・・」と発言して炎上したが、「LGBT理解増進法」については、本音での討論が必要だと思う。
1.初めての側室・西郡局と次女・ふうの誕生
■ふうの誕生年
・説①:永禄8年(1565年)説(『徳川幕府家譜』):旧説
・説②:永禄11年(1568年)説(『法華宗全書』)
・説③:天正3年11月11日説(『幕府祚胤伝』『因州鳥取慶安寺略記』)
・説④:天正4年11月11日説(『義演准后日記』):史実
このドラマでは、「お葉が側室となって、永禄8年にふうを生む」としたが、史実は「時姫が側室となって、天正4年にふうを生んだ」である。
ふうの誕生年については、過去には永禄8年(1565年)説もあったが、現在は天正4年(1576年)生まれであることが分かっている。時代考証の先生が3人もいて、自分達が否定した旧説(永禄8年(1565年)説)での設定を許可するとはいかに?
多分、浜松城での出来事を、岡崎城での出来事に変えたからこうなったのであろう。学説は「築山殿は岡崎にいて、浜松にいたことはない」であるので、岡崎城での出来事だとしないと、築山殿が登場できないのである。
以上は私の推測であり、真実は、近々、YouTubeやTwitterで公開されるであろう。
【後日追加】
・時代考証・小和田先生のYouTube:督姫の生年については「通説に従って、これはですね、永禄8年、1565年の誕生ということで放送致しましたけれども、えーとまあ、最近の研究では、今回の場面となったのがですがね、もう少し後なのかもしれないなぁという、そういったところも出てきておりますので、このへんは、もう少し検討が必要かもしれません」。お市の方の結婚時期には言及無し。
・時代考証・平山先生のTwitter「」
ちなみに、私の説は、
①徳川家康は、正室(築山殿、朝日姫)がいる期間は、自分より身分の高い彼女達のプライドに忖度したのか、他の女性との間に子供を儲けていない。
②20代で儲けた子は1人もいない。
であり、第10回「側室をどうする!」の内容とは大きく異なる。(ふうの誕生は、正室(築山殿)がいた永禄8年ではありえない。徳川家康と築山殿の離婚が、従来言われてきた「清須同盟」締結の永禄5年であればありうるが、離婚は永禄11年(1568年)12月の遠江国へ侵攻開始後のことであり、永禄13年(元亀元年)であろう。)
西郡局(『どうする家康』では「お葉」)についての私の説は、すでに公表したように、
「時姫が岡崎城に入ったのは永禄5年2月4日の「上ノ郷城攻め」直後であるが、側室・西郡局となったのは、築山殿との離婚後」
である。
2.飯尾連竜の誅殺
「三河一向一揆」は、徳川家康の3大危機の1つであり、今川氏真が攻めてきたら、徳川家康は討ち死にしていたであろう。今川氏真が三河国の徳川家康を攻められなかったのは、彼が「遠州忩劇」と呼んだ反乱(永禄5年(1562年)~永禄9年(1566年)。井伊谷城主・井伊直親や引間城主・飯尾連竜の徳川家康への内通等)が(本拠地・駿河国と三河国の間の)遠江国で起きていたからである。(とにかく、徳川家康は運が良く、今川義元は運が悪い・・・ように見えるが、「遠州忩劇」の黒幕は徳川家康であろう。)
井伊直親(『おんな城主 直虎』では三浦春馬さん。実は今回の大河ドラマの主人公役は三浦春馬さんの予定だったというが、御自害なされたので、MJ氏になったとの噂が広まっている)は駿府今川屋敷へ弁明に行く途中、掛川郊外の原川宿で、飯尾連竜は駿府今川屋敷で誅殺された。(前回、鳥居元忠が「道は2つある」とし、1つの道は「主君なる者は家臣を信じること」で、もう1つの道は「謀反の疑いが少しでもある者を悉く殺すこと」だとした。SNSでは「後者は『鎌倉殿の13人』へのオマージュだ」と話題になっていたが、そうではない。『鎌倉殿の13人』では、無実の者に罪をきせて、謀反の疑いが少しもない者を殺していたが、井伊直親も、飯尾連竜も徳川家康と内通していたので、誅殺されても不思議ではない。前者は徳川家康、後者は北条義時ではなく、今川氏真を指している。)
飯尾連竜の正室・於田鶴については、
・説①:駿府今川屋敷で夫・飯尾連竜と共に討ち取られた。
・説②:駿府今川屋敷で夫・飯尾連竜が誅殺されると、女城主になった。
の2説があり、静岡市民は説①、浜松市民は説②を支持する傾向にある。
※浜松市では、女城主・於田鶴の死後、彼女の「御台塚」(墓)に、築山殿が祠(現・椿姫観音堂)を建て、110株の椿を自ら植えたことから、塚は「椿塚」(「椿姫塚」とも。正式名は「御台塚」で、後に白蛇が出現して「蛇塚」とも)、於田鶴は「椿姫」と呼ばれるようになったとされるが、学者は「築山殿は岡崎にいて、浜松にいたことはない」としている。また、「御台塚」に眠るのは於田鶴ではなく、前引間城主の大河内氏の正室ではないかとも推測されている。
それにしても、於田鶴の描き方が酷である。浜松市では「悲劇ヒロインの女城主・椿姫」であるが、『どうする家康』では、前は瀬名姫奪還作戦を密告して関口夫婦を誅殺に追い込み、今回は夫の徳川家康との内通を密告して夫・飯尾連竜を誅殺に追い込んだ「今川氏真のスパイ」となっている。
なお、世間一般の於田鶴の評価は、『改正三河後風土記』に「其の志操の節烈は、丈夫にもまさりたりと感ぜぬ者なし」とあるように、「烈婦」である。浜松では、於田鶴は薙刀を手に、侍女たちと共に城からうって出て、城外(「御台塚」の位置)で討ち死にしたとされている。
以前見た演劇では、城内で死んでいた。その演劇では、「於田鶴と徳川家康は恋人同士。瀬名と今川氏真も恋人同士であったが、今川義元が、北条氏との同盟締結のために今川氏真を早川殿と結婚させてしまい、さらには徳川家康を今川方に完全に取り込むために徳川家康と瀬名を結婚させてしまったので、4人の人生が狂った」とし、「引間城攻め」では、城内で、幼い頃に恋人同士だった徳川家康と於田鶴の一騎打ちとなり、於田鶴は徳川家康の刀を薙刀で受け止めると、素手でつかみ、自分の首にあてて自害し、徳川家康に抱かれながら死んでいった。「引間城内での徳川家康と於田鶴の一騎打ち」は史実ではないであろうが、演劇界ではありである。
鵜殿長近┬長将【上ノ郷】─長持┬長照┬氏長
│ │ └氏次
│ ├長祐【柏原】┬養子・長忠(長持の子)
│ │ ├三郎次郎
│ │ ├養女・時(西郡局)─ふう
│ │ └日梅
├長成┬善助 ├長女・於田鶴(飯尾連竜室・椿姫)
│ └日禮 └次女(深溝松平家第3代伊忠室)─日栄
└長存【下ノ郷】─玄長─仙巌─長竜【蒲形】
※於田鶴は、鵜殿長持の娘、鵜殿長照の妹で、享年17とも、19とも。年齢的に1世代下のはずで(『三河物語』等、鵜殿長照を鵜殿長持と間違えている古文書が少なくないことから)鵜殿長照の娘ではないかと思われる。また、会田文彬『蛇塚由来記 落城秘怨史』(1926年)に、父は宇津山城主・小笠原鎮実(小原/大原鎮実)とあることから、鵜殿長持の養女なのかなとも思う。
※上ノ郷鵜殿長照は「上ノ郷城攻め」で討死。柏原鵜殿長祐は「三河一向一揆」で松平方として戦って討死したので、鵜殿長忠が養子となって柏原鵜殿家を継いだ。
3.於市の方の結婚時期
婚姻時期については諸説ある。
・永禄2年6月以降、遅くとも永禄6年を下らない時期説(宮島敬一説)
・永禄4年(1561年)説
・永禄7年(1564年)説:旧説(『浅井三代記』)
・永禄10年(1567年)9月説=織田家と浅井家の同盟締結の時:新説
・永禄11年(1568年)1月~3月説
『どうする家康』では旧説の永禄7年説が採用された。
同盟締結には婚姻関係の締結が欠かせない。浅井長政は、主家である六角家の家臣・平井定武の娘と婚約していたが、急遽、お市の方との婚姻により破談としている慌てぶりからしても、同盟が締結された永禄10年(1567年)9月説が史実だと思われる。
★今後の『どうする家康』
・第11回「信玄との密約」
・第12回「氏真」
※ノベライズの2巻は3/17発売。
浜松市は、5月に開催する「浜松まつり」の騎馬武者行列に、『どうする家康』の徳川家康役の俳優・松本潤さん(39)が出演すると発表した。昨年11月に岐阜市で行われた「ぎふ信長まつり」には、俳優・木村拓哉さん(50)が出演。定員の約64倍となる96万人超が観覧に応募するなど、大きな話題となった。さて、どれほどの話題になることやら。
5月・・・あと2ヶ月を切った。2ヶ月弱で、浜松までの往復の交通費がサポート(有料記事の購入)されたら嬉しいな (∗˃̶ ᵕ ˂̶∗)
殿は鰻が大好きで、岡崎ではおぎ乃の「いっぽん鰻」、浜松では元城亭のうな重を食されたとのこと。たくさんサポートされたら、元城亭へ行きたい。
戦国オフとか、撮影会もいいね。西来院の長藤を見たい ٩(๑>◡<๑)۶
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