第43回「関ヶ原の戦い」(復習)
【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 竹千代(後の徳川家康)誕生
天文24年(1555年)3月 竹千代(後の徳川家康)、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日 「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日 「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月 「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月 松平家康、三河国を平定
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月 織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日 掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月 徳川家康、上洛
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日 徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月 徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄
→上杉謙信と「三越同盟」を締結
元亀元年(1570年)11月 松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。
天正2年(1574年)2月8日 お万の方、於義丸(後の結城秀康)を生む。
天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日 大岡弥四郎忠賀、刑死(鋸挽きの刑)
天正3年(1575年)5月16日 鳥居強右衛門勝商、刑死(磔刑)
天正3年(1575年)5月21日 「設楽原の戦い」
天正3年(1575年)12月24日 二俣城、開城
天正3年(1575年)12月27日 水野信元、誅殺。享年不明(50代前半?)。
天正4年(1576年)12月22日 亀姫、奥平信昌と結婚(7月説あり)
天正4年(1576年)3月 五徳、長女・登久姫を生む。
天正5年(1577年)7月 五徳、次女・熊(国)姫を生む。
天正6年(1578年)3月 徳川家康、西郷局と結婚
天正7年(1579年)4月7日 西郷局、長松(長丸、徳川秀忠)を生む。
天正7年(1579年)8月29日 築山殿、殺害さる。享年不明(38?)。
天正7年(1579年)9月15日 松平信康、自害す。享年21。
天正8年(1580年)8月25日 佐久間信盛を追放(「19ヶ条の折檻状」)
天正9年(1581年)3月22日 岡部元信、討死(「高天神城の戦い」)
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼、死没(武田氏滅亡)。享年37。
天正10年(1582年)4月10日~4月21日 織田信長の凱旋旅行
天正10年(1582年)6月2日 織田信長、死没(本能寺の変)。享年49。
天正10年(1582年)6月5日 徳川家康、三河国へ帰還(神君伊賀越え)
天正10年(1582年)6月27日 清洲会議・秀吉、信長の嫡孫・三法師を擁立
・お市の方、柴田勝家と再婚
天正11年(1583年)3月12日 柴田勝家、敗北(「賤ヶ岳の戦い」)
天正11年(1583年)4月24日 柴田勝家、北ノ庄城にてお市と共に自害。
天正12年(1584年)3月~11月 「小牧・長久手の戦い」
天正12年(1584年)12月12日 徳川家康の次男、羽柴秀吉の養子に。
天正13年(1585年)7月11日 秀吉、関白になる。
天正13年(1585年)11月29日 天正地震
天正14年(1586年)5月14日 朝日姫、徳川家康の正室(継室)に。
天正14年(1586年)9月9日 秀吉、正親町天皇から豊臣の姓を賜る。
天正14年(1586年)10月26日 徳川家康、大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊
天正14年(1586年)10月27日 徳川家康、大坂城において秀吉に謁見。
天正14年(1586年)11月5日 徳川家康、正三位に叙される。
天正14年(1586年)11月12日 大政所を秀吉の元へ送り返す。
天正14年(1586年)12月4日 本城を浜松城から駿河国の駿府城へ移す。
天正16年(1588年)1月13日 足利義昭、将軍を辞して出家。昌山と号す。
天正17年(1589年)5月19日 西郷局(於愛の方)、死没。享年28。
天正17年(1589年)5月27日 茶々、棄(鶴松)を生む。
天正18年(1590年)1月14日 朝日姫、死没。享年47。
天正18年(1590年)2月~7月5日 小田原征伐→徳川家康、関東移封
天正18年(1590年)8月1日 徳川家康(49歳)、江戸城に入城
天正19年(1591年)1月22日 豊臣秀長、死没。享年52。
天正19年(1591年)8月 5日 鶴松、死没。享年3。
天正20年(1592年)~文禄2年(1593年)朝鮮出兵「文禄の役」
天正20年(1592年)7月22日 大政所、死没。享年77。
文禄 2年(1593年)8月 3日 茶々、拾(後の豊臣秀頼)を生む。
慶長元年(1596年)10月28日 酒井忠次、死没。享年70。
慶長元年(1596年)11月14日 服部半蔵、病死。享年56。
慶長 2年(1597年)~慶長3年(1598年)朝鮮出兵「慶長の役」
慶長 3年(1598年)8月18日 豊臣秀吉、死没。享年62。
慶長 4年(1599年)閏3月3日 前田利家、死没。享年62。
慶長 4年(1599年)閏3月4日 「七将襲撃事件」
慶長 4年(1599年)9月 8日 明日(9/9)の徳川家康暗殺計画の発覚。
慶長 5年(1600年)3月16日 リーフデ号、豊後国臼杵の黒島に漂着。
慶長 5年(1600年)4月 1日 西笑承兌、直江兼続へ書状(「承兌書状」)
慶長 5年(1600年)4月14日 直江兼続、西笑承兌へ返信(「直江状」)
慶長 5年(1600年)7月18日~8月1日 「伏見城の戦い」
慶長 5年(1600年)7月25日 「小山評定」
慶長 5年(1600年)9月15日 「関ケ原の戦い」
慶長 5年(1600年)10月1日 石田三成、京都六条河原で斬首。
・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
慶長 8年(1603年)2月12日 徳川家康、江戸幕府を開設。
慶長19年(1614年) 「大坂冬の陣」
慶長20年(1615年) 「大坂夏の陣」
元和 2年(1616年)4月17日 徳川家康、死没。享年75。
今回は「ついに関ケ原の戦いだぁ!」とワクワクしていたのですが、淡々と進行して、心躍るベタなシーンが無くてがっかり。(心に残ったのは茶々くらいかな。)期待していただけに、脚本、演出、カメラワークに失望した回でした。
「より大きな蜘蛛の巣」の意味が分からなかった。分からなかったので、
「どうする家康」
と叫ばれても困らなかった。「蜘蛛の巣」は、「真田による徳川本隊の足止め」で、「より大きな蜘蛛の巣」は「関ケ原におびき出して取り囲む」かな?
最新の研究では、石田三成は、濃尾平野に徳川軍を置き、北の岐阜城と南の大垣城で挟み撃ちにするつもりが、難攻不落の岐阜城がたった1日で落ちてしまい、大垣城を出るはめになり、狭い関ケ原に押し込められたとする。
いずれにせよ、今回の石田三成は、小西行長に「事務仕事しか出来ないと思っていたが、戦国武将だったんだな」と指摘されたように、闘争本能に目覚め、「どうする家康」(先手を打ったぞ。さぁ、家康よ、どう返す? さぁ、さぁ、さぁ)と生き生きしてるのに、徳川家康は「これは豊臣家臣同士の戦いであり、多くの死者を出すであろう。無意味」と冷ややかであった。
【両軍の兵数】ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
西軍(石田三成)8万 vs 東軍(徳川家康)7万
※西軍には豊臣秀頼3万、東軍には徳川秀忠4万が加わり、11:11の予定。
※どちらも加勢に来ず、8:7の西軍優位で開戦!
西軍(石田三成)6万 vs 東軍(徳川家康)7万
※西軍は、毛利や「空弁当」の吉川ら2万が動かず、実質6万。
西軍(石田三成)4万 vs 東軍(徳川家康)9万
※小早川2万が、西軍から東軍へ。西軍はー2万の4万、東軍は+2万の9万。
※真田の妨害による徳川秀忠4万の遅参を知っていた石田三成は、11:7で勝つつもりでいた。しかし、蓋を開けたら4:9で、半日で負けた。総勢4+9=13万人で、死者は0.8万人。西軍は「討死」ではなく「退散」「敗走」。
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徳川家康が指を噛み、小早川への問鉄砲を撃たせるシーンがなかった。「徳川家康が本陣を前に移したので、小早川が動いた」とした。
ちなみに史実としても、問鉄砲は無かったようだ。『黒田家譜』に「12町御先へ御旗を出される」とある。つまり、徳川家康は、まずは軍旗だけ前に出して味方を鼓舞し、その後、様子を見て桃配山から陣場野へ本陣を移し、勝利を確認したという。
「宰相殿の空弁当」は、「空弁当」ではなく、本当におにぎりを食べてた!
勝っても皆喜ばず、泣きも笑いもせず、鬨の声も上げない。お通夜のようであった。笑顔の瀬名姫と信康が出てきてもよかった。9月15日は信康の命日なので。
遅れてきた徳川秀忠に、徳川家康が何と言うか見たかった。
徳川家康と石田三成の会話は、史実通り大津城で行われたが、処刑場での最後のひとことが見たかった。やはり、みじめな石田三成の処刑シーンがないと、終わった気分にならない、スッキリしない。柿の話は回収されずじまい。(アバンタイトルは真田昌幸の口パクの回収がよかった。というか、オープニングアニメの意味が分からなかった。「雷雨だったが、雲が晴れて満月が顔を出して霧の関ケ原」ってこと?)
石田三成の辞世は、
筑摩江や芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく我が身なりけり
(筑摩神社(滋賀県米原市朝妻筑摩)がある筑摩江(つくまえ。琵琶湖にある入江)に生える葦の間に灯された篝火と共に消えていく我が命であることよ。)
です。
「どちら側にもそれぞれの正義があった」・・・やはり、時代劇は勧善懲悪な話の方がスリリングで楽しい。今回も、「どうする家康」状態から小早川の裏切りで逆転する様を分かりやすく示して欲しかった。(戦闘シーンはあったが、どちらがどちらを倒しているのか、どちらが優勢だったのか分からなかった。私なら最初は左側が強くて、後半は右側が強いように描くとか、アップばかりではなく、空撮を入れるよ。ロケはしないで、スタジオで撮ったので、カメラワークが単調とのこと。)
結局、「関ケ原の戦い」の原因は、茶々の誘導ではなく「石田三成の闘争本能に火がついたから」だとした。「徳川家康が上杉攻めをしている時に挙兵する」って闘争本能を止められなかったって・・・「今しかない」と「本能寺の変」に踏み切った明智光秀に似てるな。石田三成が小さな人間に見えちゃった残念回であった。
人間も、他の動物同様、食欲、性欲、睡眠欲だけを持っていれば平和なのに、闘争欲を持っている。(人間以外の動物は、同種間の殺し合いはしない。)だから戦争が絶え間なく続く。──確か『進撃の巨人』の最終話での結論もそんな感じだったかと。(私は体が不自由で戦えないので、「闘う歴史研究家」ではない。闘争心は全く無い。同じような記事を書いている人がいれば、「負けたくない」というライバル心、競争心が芽生えるとは思うけど。ただ、承認欲求は人一倍強いので、こうしてブログを書いている。とはいえ、バズることなくPV数は40くらいで低迷し、スキも付かず、承認欲求は満たされないままで、当然、サポートがなくて生活が苦しい、生き続けるのがつらいし、このペースだと近日中に餓死するだろうけど(このまま料金未払いで逮捕されれば無料で3食食べられる刑務所に入れる?)、それでも「今日も生きてる証拠に、電気が止められるまでは」とブログを書いている。)
■毛利輝元のご子孫のご意見
本多忠勝が「槍を」と言わず「蜻蛉切を」と言ったのは、ちょっと違和感があったが、これは俳優のアドリブで、言ったら、使われたという。
みなさんが喜んでくれている
— 山田裕貴 (@00_yuki_Y) November 12, 2023
「蜻蛉切」どうしても名前を呼びたくて
アドリブで言ったら
使われてた
我こそは
本多平八郎忠勝#どうする家康
蜻蛉切の作者は三河文珠派の刀工・藤原正真(愛知県田原市)。彼のお墓(工房跡の歴代三河文珠の墓地)の訪問者が増えそう。ただ、駐車場がないので、タクシーで行くか、田原城から歩くか。
★今後の『どうする家康』
・第44回「徳川幕府誕生」(11/19)
・第45回「二人のプリンス」(11/26)
・第46回「大坂冬の陣!」(12/3)
・第47回「大坂夏の陣!」(12/10)
・第48回(最終回)「徳川家康の最期」(12/17)
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