赤松満祐の悲劇とその時代(19)ー満祐、坂本城から城山(きのやま)城へ逃避行ー
1441年8月中旬、山名持豊(後の宗全)は4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅(満祐の弟)と数日にわたり攻防がありました。
当初、持豊は赤松討伐に積極的ではありませんでした。「将軍義教の仇」を討つでは他も余り兵を挙げなかったのです。しかし8月1日、後花園天皇の「治罰綸旨」も出、更に耳寄りな情報が入ってきました。「赤松討伐をした者には恩賞として赤松家の播磨・美作・備前を渡す」というものでした。これで俄然、武将たちの眼の色が変わってきました。特に持豊は、明徳の乱で山名が所領を大幅に減らされたのを知っています。
8月28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ赤松本拠の坂本城(姫路)に向かって進軍しました。
結局、赤松教康・則繁らの善戦で一時は幕府軍を圧倒したが、赤松討伐の綸旨が後花園天皇から出されてから形勢逆転。満祐は朝敵とされた。播磨だけでなく美作・備前などにも山名軍ほか諸軍が攻め寄せて赤松家を裏切りあるいは敗北する者が続出します。
9月1日、山名持豊の軍勢は坂本城へ到り、細川持常の大手軍と合流して包囲しました。守護所の坂本城は要害の地とは言えず、3日になって満祐は城を棄てて城山(きのやま)城(現在のたつの市)へ移りました。赤松一族は城山城へ籠城するが、山名一族の二万の軍に包囲されてしまいました。
9月9日、義雅が兄・満祐の前に来て、九歳の息子・千代丸を連れて降伏すると言いに来ました。
「息子の命だけは救いたいのです。我が身に替えても・・・」
平伏する弟に満祐は許可を与えました。義政は感涙にむせんでいます。
そして義雅は千代丸と共に下山し、西方に陣取る従兄弟・赤松満政の所を目指しました。北や東は山名や細川が陣取っているからです。
これで動揺した赤松軍から脱走者が続出。一時七千いた赤松軍は脱走が相次ぎ、あっという間に百名を切りました。
従兄弟の満政の前に義雅は跪(ひざまず)きました。そして息子の目の前で義雅は切腹して果てました。千代丸はやがて時勝と成り、また若くして亡くなりましたが、その子が政則として奇跡の播磨復活を成し遂げるのです。(続く)
