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随筆:知らぬが仏

ハルさんの、こちらの記事からバトンがまわってきた↓

今度はタイトルでしりとりをするといった企画のもので、ジャンルはエッセイ↓

私も過去に自分語りの記事をいくつか書いているが、エッセイというよりは、記憶に残ったエピソードばかりを記事にしている。広義ではエッセイに間違いないのだが、物事を自分の視点と感性で捉え、そこから得た教訓や後悔、何かに影響を受けたときの心の動きを綴るような記事は苦手なのだ。


しかし、せっかくの機会なので、今回は自分の内面的な視点から書いてみたいと思う。まず、私の人間性を分かりやすく説明するため、ひとつの例えを考えてみた。


例えば先日の熊本の地震。多くの著名人が多額の支援金を寄付したというニュースをあちこちで目にする。そのニュースに対する視聴者のコメントの中には「偽善だ」「売名だ」というものが少なからずあった。

「やらない善より、やる偽善」

その言葉が示す通り、支援を受ける側からすれば、偽善だろうが売名だろうが、とてもありがたいことに変わりはない。支援した方々が、どのような心持ちであったのかはわからないが、もし、私が多額の支援金を寄付できるような立場であったとすれば、純粋な善意だけではなく、自分にとって何かプラスになるか、という打算が必ず働く。もちろん支援をするのだから、善意がゼロではないが、それが「偽善だ」「売名だ」と言われることに繋がる要因であるならば、私は偽善者で間違いない。


人間とはそういうものだと、勝手に思ってはいるが、子どもたちや、支援先に思い入れのある人は、純粋な善意であるというのが伝わってくるだけに、ほんの少しだけ自己嫌悪を感じるときがある。それでも「まあ、いいか」と楽観して抑え込み、案外簡単に自己解決してしまう。


もっと分かりやすくいうと、道を歩いていて困っている人に遭遇する。まわりにもたくさんの人が歩いている。そんなとき、私は困っている人が若い女の子や綺麗な女性なら、すぐに駆け寄るが、それ以外の人なら、いったん辺りを見渡して、だれも助けないようなら助けに行くといった感じだ。結果的に自分が何もしなかったとしても、特に気にすることはない。





実に私らしい。







これは以前から思っていたことなのだが、私にはある種の感情が欠けているのかもしれない。怒りとか悲しみとか、そういった感情ではなく、何かに悩んだり、葛藤したりすることが、ほとんどないのである。他人からどう思われようと気にもならないし、何か言われて傷つくようなこともない。まったくのゼロではないが、心の中で消却するのがとても早いのだ。


物事を楽観視するのは昔からで、精神的に強いのか、鈍感なのかはわからない。酒好きの友人から「嫌なことがあっても酒に逃げないのは偉い」と言われたこともある。私は飲まないので当たり前といえば当たり前なのだが、たとえ酒飲みであっても、逃げなきゃいけないような感情に陥ることはないと思っている。


そんな私も、noteでいろんな方のエッセイを読む。人によって事情は異なれど、様々な心の有り様を、ストレートに表現する人もいれば、文学的な表現で美しく語る人もいる。


その中でどうしても薄い共感しか持てないタイプのものがある。それが心の葛藤に焦点をおいたエッセイだ。特にネガティブな心情、もしくはネガティブだった過去を綴っているものには、共感することができない。決して否定してはいないのだが、自分がそういった立場になったことがないので、単純に共感のしようがないのだ。


何らかの事情で打ちひしがれ、虚ろな心を抱えていたり、先々の人生を悲観している人や、自死を匂わす人までいる。自己顕示欲や、単なる承認欲求から生まれてくるものならまだいいのだが、本心から綴られているのなら下手なコメントすらできない。


追い詰められている人に気安く「頑張れ」とは言えない。かといって、その人の事情も知らない自分が、簡単に「逃げ出してもいい」と言っていいものでもない。そういう言葉の扱いが難しいことくらいは、私にもわかるからだ。


そんな記事を目にするたび、人ってこんなに深い悩みや葛藤を抱えるもんなんだと感じる一方で、なぜ自分にはそういう一面がないのだろうと考える。


私は三年前、癌を患った。腫瘍が内臓の機能を妨げる位置にあったので、良性であっても悪性であっても、手術で取り除かなければならないという診断。術前には、術中に発生する合併症による死亡のリスクや、延命措置の要否など、目の前が暗くなりそうな説明をたっぷりと受けた。そして、とても大がかりで難易度の高い手術であることも。


それを聞いた妻は体調を崩し、母も毎日あれこれと世話を焼いてきた。だが、当の本人である私は「何とかなるわい」「死んだら死んだじゃ」と考えていて、意外にも不安や恐怖はなく、あっけらかんとしていた。くよくよしたって、なるようにしかならないのだから、考える方がバカらしいと。


なぜそんなふうに考えるようになったのか。うちの祖父も父も「泣き言を言うな」「弱音を吐くな」というタイプで「大概のことはどうにかなる」と、小さなころから教えられてきたからではないだろうか。思い当たるのはそんなところだ。そのおかげかどうかは不明だが、本当になんでも楽観視してしまうのだ。

元気だった頃のうちの爺ちゃん(ラオウ似)

幸いにも術後の病理検査で、ステージⅠ-Aという最初期の癌だったことが判明。三年経った現在も、三ヶ月に一度は検診に行っているが、今のところ特に問題はない。


そんな私でも、たまには葛藤を強いられることがある。先日の盆休みのこと。帰省する妻と一緒に、娘たちも妻の実家に遊びに行っていた。ある日、妻からの電話で、帰ってくる日の時間などを打ち合わせていたときだ。次女が電話口に出て、お土産はなにがいいか尋ねてきた。私は京都駅にある淡路屋の駅弁「栗めし」が好きなのだが、時期的に外れているかもしれないので、販売されているようなら買ってきてくれとお願いした。

丹波名産 淡路屋 栗めし

そんな会話のなかで「パパは栗ごはんが好きなん?」と聞かれたので「栗ご飯も、豆ご飯も、赤飯も全部好き」と答えたら





「パパはえっちじゃな」





と言われ、唖然とした。いや、まあ、大人同士ならこの言葉の意味はそれなりにわかると思うが、次女はまだ小学5年生だ。なぜそんなふうに思ったのか見当もつかない。そのあとまた妻に代わったので、どういう意味だろうかと尋ねたが、妻にもわからないようだった。

あれから数日が過ぎた今も、その意味を次女に尋ねるべきか否かで葛藤している。だが、その「えっち」の意味が、大人である私の考えるものと同じだとしたら、癌になるより恐ろしいパンドラの箱を開けるようなものだ。触らぬ神に祟りなしというではないか。だから意味は聞きたくないというか、知らないままでいいと思うのだ。

「知らぬが仏」の言葉の意味を、今一度噛み締めている大島でした。

今回受け取ったバトンは、諸事情あって私のところで止めさせていただきます。

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