短編:夜風に吹かれて
◉風まかせ文芸部【夜風】参加作品
いつもの電車をひとつ前の駅で降りたのは、ほんの気まぐれだった。八月の夜。昼間の熱をまだ抱えたアスファルトの上を、男はネクタイを緩めながら歩いた。
名前は榊原修一。五十八歳。
会社から自宅までは電車で四十分。毎日同じ駅で降り、同じコンビニの前を通り、同じ角を曲がって帰る。それを三十年以上繰り返してきた。なのに今夜だけは、なぜか家へ急ぐ気になれなかった。駅前の明かりを離れ、川沿いの道へ出る。そこで、夜風が吹いた。昼の熱気をさらっていくような、少し湿った風だった。
「……気持ちいいな」
修一は独り言をこぼした。そういえば、こんなふうに夜風に吹かれながら歩いたのは、いつ以来だろう。
ふと、二十歳のころを思い出した。大学の帰り、金のない仲間たちと缶ビールを一本ずつ買い、河原に座って、くだらない話ばかりしていた。
誰が一番早く結婚するだの、三十歳になったら何をしているだの。
「俺は会社なんかに縛られたくないな。金はなくても、好きなことして生きたい」
あのころ、そんなことを言っていた自分が今の自分を見たら、何と言うだろう。修一は苦笑いするしかなかった。会社なんかに縛られたくないと言った自分が、三十年以上も会社に縛られて生きてきたのだから。
若いころ好きだった写真も、いつの間にか撮らなくなった。最初は単に仕事が忙しかったから。そのうち子供が生まれたから。家のローンがあったから。役職がついたから。部下ができたから。親の介護があったから……。
理由はいくらでもあった。だが、どれも嘘ではない。だから厄介なのだ。
川面を渡ってきた夜風が、シャツの胸元から入り込んだ。今度は、妻の顔を思い出した。結婚したばかりのころ、妻はよく言っていた。
「いつか北海道に行こうよ」
新婚旅行で行くはずだった。だが、仕事の都合で近場に変更した。子供が大きくなったら。ローンが落ち着いたら。部長になったら。定年したら……。
そうやって先送りしているうちに、妻は北海道の話をしなくなった。離婚したのは五年前だ。大きな喧嘩があったわけではない。
「あなたといると、ずっと何かを待たされている気がする」
妻はただ、そう言った。あの言葉の意味を、修一は今になって理解することができた。自分も待っていたのだ。いつか仕事が楽になったら。いつか時間ができたら。いつか余裕ができたら……。
その「いつか」が来たら、本当の人生を始めるつもりだった。だが人生というものは、本番前の待ち時間など用意してはくれなかった。
待たせている間も、ちゃんと減っていくものがあった。時間も。若さも。大切な人と過ごせる日々も……。
修一は河川敷へ下りた。草の匂いがした。遠くで虫が鳴いている。対岸のマンションには、いくつもの明かりが灯っていた。あの一つ一つに、それぞれの暮らしがある。
食卓を囲んでいる家族。風呂上がりにアイスを食べる子供。夫婦喧嘩をしている家。誰かの帰りを待っている人……。
自分にも、そんな家があった。娘がまだ小さかったころ、一度だけ言われたことがある。
「お父さん、今日、会社行かないで」
日曜日だったが、午後から出社しなければならなかった。
「また今度遊ぼうな」
頭を撫でて家を出た。娘は泣かなかった。ただ玄関に立って小さな手を振っていた。今でも、その姿だけは妙にはっきりと覚えている。
あの「今度」は、いつだったのだろう。何度か遊園地にも行った。旅行にも行った。父親らしいことを何もしてこなかったわけではない。
それでも修一の記憶に残っているのは、してやれたことより、してやれなかったことばかりだった。娘はもう二十八歳になり、昨年結婚した。
式で腕を組んだとき、修一は娘の手が小さくないことに驚いた。当たり前だった。いつまでも玄関で手を振っている少女ではない。
ただ、自分の記憶の中だけで、娘はずっと小さかった。
夜風が少し強くなった。修一は目を閉じた。不思議なものだった。風に吹かれていると、昔の自分が次々と通り過ぎていくような気がした。
二十歳の自分。三十歳の自分。四十歳の自分。五十歳の自分。みんな忙しそうな顔をしていた。そしてみんな「今は仕方ない」と言っていた。
修一は空を見上げた。星はほとんど見えない。
「仕方なかったんだよ」
誰にともなく言った。家族を食わせなければならなかった。会社では責任があった。逃げることもできなかった。自分なりに必死だった……。
間違っていたとは思わないが、それでも。
「……もう少し、できたよな」
声が震えた。あと一日くらい休めた。あと一時間くらい話を聞けた。あと一回くらい旅行へ行けた。あと一枚くらい、好きだった写真を撮れた……。
人生を大きく変える必要なんてなかった。ほんの少し……ほんの少しだけ、自分が大切だと思っているもののために時間を使えばよかった。それだけだったのに。
修一は河原に座った。風が吹いている。誰にでも同じように吹く、ただの夏の夜風だった。だが、二十歳の夜に浴びた風とは、もう違っていた。
あのころの夜風は、これからどこへでも行ける自分の背中を押していた。今夜の風は、歩いてきた道を静かに撫でている。戻れない道だった。
修一は長いあいだ、川を眺めていたが、やがてスマートフォンを取り出し、娘の名前を表示する。電話をかけようとして、やめた。時計は十一時を過ぎている。
「……また今度でいいか」
口にしてから、修一は動きを止めた。夜風が吹いた。草が一斉に揺れた。修一はしばらく画面を見つめ、それから小さく笑った。
「いや」
発信ボタンを押した。何度か呼び出し音が鳴った。
「もしもし? お父さん? こんな時間にどうしたの」
「悪い。寝てたか」
「まだ起きてるけど」
「そうか」
「何?」
修一は言葉に詰まった。用事などない。ただ声を聞きたかっただけなのだから。
「……今度、飯でも食わないか」
「急にどうしたの」
「別に。たまにはな」
電話の向こうで娘が笑った。
「いいよ。来週なら空いてる」
「そうか」
「お父さんのおごりね」
「ああ」
人生は戻らない。妻と過ごせなかった時間も、娘の小さな手も、夢ばかり語っていた二十歳の自分も戻ってはこない。
悔やんでも、何ひとつ取り返せない。それでも修一は立ち上がった。家までは、まだずいぶん遠いが、歩いて帰ろうと思った。
夜風に吹かれながら。
若いころのように、どこまでも未来が続いているとはもう思えない。それでも、まだ道はいくらか残っている。修一はゆっくり歩き始めた。
背中から吹いてきた夜風が、汗ばんだシャツをふわりと膨らませる。それはまるで、五十八年かけて歩いてきた修一の背中を「もう少しだけ歩け」と、押しているようだった。
