「迷い」と「さとり」をつなぐ論理―『空の構造』を読む(1)
はじめに
立川武蔵『空の構造 「中論」の論理』(講談社学術文庫、2024)を読む。文庫としては新しいが、原書は1986年に出版されている。
仏教における「空」の理論は、竜樹菩薩(ナーガールジュナ)によって整備された。大乗仏教の最初期における経典として般若経の系統があり、それは長期に亘って拡充されてきたのだが、その初期段階(紀元後200年頃)に竜樹が『中論』という論書で論理的な構造を理論化したのだった。正しくは「空」思想ではなく、仏教にみられることばの論理的なパターンを、意味と合わせて整理したと考えた方がよく、その後のあらゆる大乗仏教の基になっているといえる。つまり、インド地方と東南アジア以外の仏教国の基盤といえるかもしれない。
本書は、その『中論』の論理を解釈している、貴重なものだと思える。そもそも仏教の論理には、近代の数理論理学で言われる論理とは異なり、「論理を超えた論理」に特徴がある。禅の公案では、その作用を合理的に利用する、ある種、別の論理の読み方があるのだが、一般的には、言語や論理を破壊することで、さとりを図るといったものである。しかし、そもそも禅以前に、仏教にはそのような、文の構造的に特別な読み解き方をするところがあったのだ。
とても興味深い内容である。
本書は2章で構成され、節は全部で12節ある。ページ数こそ170ページと少なめだが、内容、というか密度はなかなか濃い。今回は序章「はじめに」を読む。
序章 はじめに
『中論』に代表される竜樹の空思想が「論理を超えたなにものか」を含むとしても、『中論』の複雑で執拗な論議が、論理学にとって基本的な排中律(かならず「A」か「Aでない」は成立する)や矛盾律(「A」かつ「Aでない」は成立しない)を無視して成り立っているとは考えにくい。
また、論じ尽くそうとする竜樹が、(その尽くすという態度において)確固とした論理的操作に支えられていない、とは考えにくいのだ。
明らかに論理を超えると思われるものを「論理によって」捉えようとする竜樹の追求を「跡付ける」ことが出来るか、というのが著者の問題意識にあった。
それに関して、宗教学者たちから得られたヒントが、「聖なるもの」と「俗なるもの」という二極からなる「水平」(という関係性、もしくは領域)であった、という。聖俗の区別(水平性)は、宗教一般の様相を明らかにするために用いられるが、特に個人的な取組みが重要な大乗仏教でも重要なことだと思ったのだという。
著者は、「聖なるもの」と「俗なるもの」との相互の方向のベクトルとして捉えることで、『中論』の論理が見えてくる、と気づいたのであった。
例えば、「ものは生じない」と竜樹が強調する場合、それは自性を伴っては、つまり実体としては「ものは生じない」という意味であり、「自性を伴う俗なるものの否定」が強調されている、ということだ。つまり、ものの無自性をいっているのであり、認識の仕方や妄想を否定しているということだ。
この考えの宗教的な実践が、「俗なるもの」から「聖なるもの」へのベクトルとなる、という捉え方となる。というのは、「自性」があるとする俗のものが、聖にはない、という俗から聖への関係をいうからだろう。
一方で、「縁起によってものが生ずる」と竜樹が言うとき、真理によって「自性を持たぬものが生ずる」という意味であり、これは「聖なるもの」から「俗なるもの」に向かっている。つまり、真理に触れたものに、真理「である聖なるもの」を与える、という意味である。
聖なるものから俗なるものへの第一のベクトルでは、論理的整合性が論議の隅々まで追及される、という。
しかし、俗なるものから聖なるものへの第二のベクトル(俗なるものの聖化)において、宗教的な目覚めの瞬間として、論理を超えてくる、という。
著者は、『中論』の論理について、最初から超論理的と誤解するのは、このベクトルのあり様を正確に見ていなかったのだ、という。
著者は『中論』が論理的整合性を目指して書かれていると考えて読み進めた。その結果気付いたこととして、命題の否定と名辞(名詞、個々の対象や概念)の否定が混同して受け取られているのではないだろうか、ということだったのだ。
竜樹の生きた古代インドでは、もの(法)は素朴であって、人と親しかった。この存在するものを、いったんことごとく消し去ろうという意思は、それが可能かもしれないという前提があったのだ。
※般若心経にある、説一切有部の言葉の否定のことだろうか。
現代のわれわれは、おびただしい数のものに圧倒されて生きており、「あらゆるものは存在しない」とする空思想は、たまに、一瞬思いやるようなことでしかないのだ。我々は非常にプラグマティックな傾向を持って生きているのだ。だから、竜樹の厳しい否定の側面を軽視してしまう。そのため、「俗なるものの聖化」という側面に偏って『中論』を受け取る恐れがあるのだ。
古代インドの「俗なるもの」の否定と最終的救済に対する楽観的な信頼は一体のものであり、竜樹の空思想もその一つなのである。竜樹の追求したのは、いかにして聖俗の重なりを成り立たしめるようなきっかけを、人びとが習得するかということであり、その意味で『中論』は解脱(さとり)を説く宗教書である、と著者はいうのだ。
※「はじめに」の終わりに来て、聖と俗の意味が、一般的な言葉で言われる。俗とは「迷い」の世界である。つまり、執着したりエゴがあったりする状態のことだ。聖とは「さとり」の世界だ。囚われていない、などでその特徴を言えるだろう。よって、竜樹は、「迷い」と「さとり」を関連付けるための言葉を論理的に工夫した、ということであろう。
※竜樹の中観思想としては、一般的に二諦説(にたいせつ)の枠組みで説明される。竜樹は『中論』で「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」という二つの真理の層を立てる。
世俗諦:言語・概念・日常的認識の次元
勝義諦:空・無自性という究極の真理の次元
竜樹はこの二つを相互依存として捉えたということだ。それは「勝義諦によらずして世俗諦なく、世俗諦によらずして涅槃は得られない」ということなのだ。
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