老獪な大和王権の関東攻略
2回に分けて雄略天皇の関東への進出について考察してきました。「進出」という言葉で書きましたが、支配の手を伸ばしたというのではなく、交易の手を伸ばしたところということだっただろう、という内容で話をしました。
ここでは、大和王権と関東豪族(主に上毛野氏)の経済的なつながりが深まったことが、関東の豪族の目覚ましい発展につながったのではないかという仮説を組み立ててみました。そうだとすれば、大和王権としては関東攻略に向けてつかみはOKといえるところだったでしょうか。
今回の記事では、その話を受ける形で、そこから大和王権による関東の支配はどのような形で進んだと考えられるか、という点に踏み込んでいこうと思います。
タイトル画が雄略天皇と継体天皇になっているんですが、今回は屯倉拡大期(つまり安閑天皇の治世)に大和王権は関東に対して何をしたのか、というところに論点を絞っていきます。
安閑元年の関東屯倉の拡大
前回の記事で論じた考え方を採用するならば、当時の大和王権と関東地域の両集団は交易としてのつながりを持つもので、それはどちらが上というような関係ではない対等な関係にあった、という見方になります。
しかし、そこから時代が下り、継体天皇が崩御した後の安閑元年に世の中が大きく動きました。
安閑天皇期の大和王権の屯倉政策は非常に特徴的です。以前も掲載しましたが、以下のような場所に多数の屯倉を設置しました。黄色が安閑元年、茶色が安閑二年に新設された屯倉です。

実は、安閑元年の新設屯倉は全てが懲罰的な経緯で設置に至った屯倉となっています。
関東では以下の5件の黄色が該当しています。

一番上の伊甚屯倉(いじみのみやけ)は房総半島の事案で、他の4つとは背景が異なります。今回は伊甚屯倉以外の4件の事案、武蔵国造の乱と呼ばれる事件に注目します。
武蔵国造の乱の概要
武蔵国造の乱というのはこの地の豪族間の利権争いです。出典は日本書紀のみに依るため、史実の確実性はあまり担保されていないものの、大和王権の関東支配に関わる数少ない記述であり、そのまま真実ではなかったとしても、モチーフとなる何らかの史実は存在しただろうと考えられています。
ここでは、日本書紀の記述内容をそのまま素直に受け止めて、内容の分析をしていきます。顛末の概要は以下の通りです。
武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上した
史学的には、南北武蔵の抗争か北部武蔵の抗争かとか、「武蔵」という地名自体当時はなかったとかいった見解など、様々な角度での考証がなされているようです。
大和王権の「地方支配」の手法
細かい事実関係の見解は定まっていない部分もありますが、私が重視しているのは、大和王権が地方の抗争につけ入った、という点です。
これは、帝国主義的な国家が周辺地域を併呑していく手順として、世界史的に見てよくやられる手段です。古くはローマ帝国のエジプト支配だったり、大航海時代以降であればスペインの世界的な拡大やイギリスによるインドの植民地化なども、これにあたる手法が多数見られます。
言ってみれば、強者が覇者になる普遍的な手段といえます。
弱い勢力に加担し地域の「長」を挫く
関東地方のパワーバランスは、大きく上毛野氏にアドバンテージがあったと考えられます。大和王権としては、関東で抜きんでた毛野氏の力を押さえながら支配の影響力を強めていくことが最も有効といえます。実際この事案では、上毛野君小熊の助力を求めた小杵を討伐対象とし、笠原直使主を支援し勝利に導きました。
笠原直使主に大和王権が味方した理由は「小杵の性格が険悪」という抽象的な理由でしかありません。つまりは、地方への覇権を握る上で都合の良い方についたと捉えるのが妥当と思えます。
この経緯に軍事介入があったかどうかは定かではないですが、軍事介入なしに上毛野氏を抑えて笠原直使主を勝たせるというのは難しかったのではないかとは想像します。同時にその軍を大和から派遣できるのかというのも、そう簡単ではないので、一言で「笠原直使主を支援し勝利に導いた」といっても「どうやって」という点は、なかなか確定的なことは言えないところです。
結果的に、地域の最右翼の有力者である上毛野氏を負け組にしてその影響力を減じ、大和王権の影響力を強めることができたといえます。そして、敗北を喫した小杵に対しては、紛争を起こした罰として屯倉を差し出させるという具体的な成果につなげています。
挫かれた地域の長の復権支援
また、安閑2年には上毛野氏の支配地に緑野屯倉が設置されます。
これがなぜ成立できたのかという背景については、現状の古代史研究において通説といえるような見解はないようです。
推測ですが、地域への影響力のあった上毛野氏のメンツを一度つぶしておきながら、彼らの復権を後押しするという名目で、屯倉の供出と引き換えに、大和王権が上毛野氏を立てて面目を回復させた、というプロセスならあり得るのではないかと思うところです。
一言でいうとかなり狡いというか、老獪なやり方だと思えます。
ですが、こういうのは大和王権が狡かったというよりは、さきほど世界史における帝国の手法を引き合いに出したように、いつの時代にもある普遍的な手口といえるものではないかと思います。
「国造(くにのみやつこ)」という地位について
大和王権の地方統治の制度に「国造」というものがあります。地方の実質的な支配者に与える地位です。
国造制度は5世紀ころから始まり、6世紀にかけて地域の支配拡大に伴って本格化したとされています。安閑元年とは531年頃とされており、まさにこの時こそ国造制度が地域に浸透する時代といえます。
元々はその地に大和王権の影響力がなかったことを考えると、そこに国造などというものはなかったという風に考えるのが自然です。今回の「武蔵国造の乱」と呼ばれており、あたかもすでに国造制度があるかのように表現されていますが、私の所感としては、この乱の事後処理として笠原直使主や上毛野氏などに与えられた地位ととらえるべきかなと考えています。
日本書紀は国造制度が定着した後の7世紀の時代に書かれたものであり、大和王権的には古より大和王権が倭国を統治していた体で歴史を書いているので、「武蔵国造」という表現もそのような一歩引いた見方くらいが実態に近いのではないかと思います。
終わりに
一旦、大和王権の関東地方進出のプロセスに関しては、この記事を以って区切りにしようと思います。
今テーマにしている大和王権の屯倉拡大は全国的な施策になっていますが、仕分けると概ね下の3つにカテゴライズされるように思います。
関東地方の屯倉拡大
瀬戸内~九州の屯倉拡大
尾張への屯倉拡大
そのうち、本記事で1のところの分析ができたかなと思っています。実は2と3はかなり連動しているのですが、一体とも言えないので分けました。
どうもですね、尾張はかなり特別に見えます。大和王権は尾張を非常に警戒しているように見えるんです。2は一言でいうと国防プロジェクトでまとめられます。3は単独でどうこうすることが難しく、倭国の国防という一大プロジェクトに絡めて巧みに大義名分を整えることで3が実現したのではないかというのが、今の私の見立てです。
しかも、3は皇位継承も絡んでくる複雑な問題でもあり、かつ大臣の交代(葛城氏から蘇我氏)も絡むという極めて複雑な背景を伴っています。
ちょっとこれをどうまとめるか、今も思案中ですが、内容的にはめちゃめちゃ面白いので、頑張りたいところです。
